第9話

 ここが夢だと小木さんは言う。

 だが、春風は穏やかに吹き渡り、せせらぎはひそやかに流れ、若葉は一枚一枚鮮明に見える。

 ここはまぎれもない現実だ。

「どうして夢だなんて思うんだ?」

「あの日、あのとき、この場所で、大木が現れてほしいと心の底から願ったからよ」

「いま現れたじゃないか」

 小木さんは視線を小川に落として、首を振る。

 なぜかたくなに夢と思い込むのだろう。

「わたしは何か大きなことを諦めるとき、いつもこの夢を見るの」

「じゃあ、何を諦めるんだ?」

「言ってもわからないと思う」

 小木さんは話し続ける。

 だが、確かに声は聞こえるのに、意味が理解できない。

 不可思議なことが、狙いすましたかのように起こり、思わず冷や汗が流れる。

 小木さんはすぐに話し終えてしまう。

 下手に聞き返せない……同じことが起こる気がする。

 しばし沈黙が流れた後、小木さんは微笑みながら哀しそうな声色で話を変える。

「部屋に千羽鶴があったでしょう」

「まあ、あったよ」

「大木が昏迷こんめいから目覚めるようにって、あの子が一人で折ったの。あの日、大木が目覚めてから初めて部屋にお邪魔したとき、大事そうに枕元に飾られているのが印象的だった」

 もし、電車に頭を打ち付けていたら、昏迷していたかもしれない。

 逆に、あの過去を回避したとしたら、千羽鶴があるのはおかしい。

 その矛盾に説明を付ける間もなく、小木さんは話を変える。

「桜色のハンカチを拾ったでしょう」

「……ああ、拾ったよ」

「大木は大事そうにハンカチを掴んでホームに倒れていた。あのとき、わたしは助けに入ってしかるべきだった。そうして、何度も過去を思い描いては、冷酷な現実に涙することしかできなかった」

 不可思議な経験で生まれた疑問が、直接的な語彙ごいによって解決される。

 そこで試しに、話そうと思っていたことを疑問として投げかけてみる。

「小木さんは、自分が知り得ないことを思い出せると思う?」

「わたしの中の大木おおき悠真ゆうまは、勝手な製本作業について触れて、退部をいさめる助言者として振る舞った。だけど、気持ちを諦めるために書いた恋文は、破ることを黙って肯定してくれた――そうして貴方は散り散りになったから、おそらくこの日を再現するためだけに、わたしの記憶を思い出すのでしょうね」

 小木さんの中の大木悠真、それが全てだ。

「さしずめ、この身体はちぎられた手紙か」

「ええ、そんなところね」

 どうやらここは夢の中らしい。

 小木さんは話す内に目に輝きを取り戻している。

 いまになって河川敷のベンチを見ると、スーツを着た壮年そうねんの女性が堂々と腰掛けている。

 しかし、その手は上がらない。まだ、すべきことが残っている。

「あーあ。今回も諦めなくちゃいけないのか……」

 空高く舞い上がっていた最後の紙片が、いま水面に沈む。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る