第8話

 真っ白な世界が、夢の果てと気づくと、寝転ぶ体が目覚めようとする。

 大きく一つ呼吸して、まぶたを開ける。

 そこは見慣れた寝室だ。

 すぐに時計を確認すると、五月五日の午後三時を示している。

 どうやら現実に帰ってきたらしい。

 深層心理に言われた通り、記憶を思い出し、しかるべき過去を経験したいま、やることはあと一つだ。

 いまなら、小木さんを止められる気がする。

 折り鶴で一杯の部屋を飛び出し、着の身着のまま学生服で橋に急ぐ。

 柔らかな春風と走りながら、昼下がりの陽光に包まれた住宅街を進む。

 そんな折、疑問が浮かんでは消えていく。

 なぜ、大木悠真が経験し得ない過去を思い出せたのか。

 小木さんの言った、こうあって然るべきとは何か。小木さんの涙には、どんな理由があったのか。

 それらに明確な答えを出せないまま力いっぱい走り、あの橋を目指す。

 大丈夫だ、家から橋までそうかからない。

 あの角を曲がれば、もうすぐだ。

「小木さん!」

 欄干らんかんに乗りかかった小木さんを見つけて、大声で名前を呼ぶ。

 しかし、声が届かなかったのか、小木さんはじっと紙片の行方を眺めている。

 すぐには橋から飛び降りなさそうで、ほっと一息吐く。

 走るのは止めて、歩きながら呼吸を整える。

 橋に差し掛かり、宙を舞い水面に流れる紙片を見つけて、時が動いていることを確認する。

 そうして、小木さんに十分近づいてから声を掛ける。

「小木さん。欄干に登るのは危ないよ」

 小木さんはこちらにゆっくりと首を傾げる。

 その前髪の隙間から、精彩を欠いた瞳が向けられる。

「一緒に帰ろう。話したいことがたくさんあるんだ」

 これまでの不可思議な体験を聞けば、きっと小木さんの目に光が戻るだろう。

 しかし、小木さんはため息を吐くように小さくつぶやく。

「ああ、またこの夢か」

 その不可解な言葉が、胸底きょうていに冷たく突き刺さる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る