第19話 好きって言いました?

「え? なんで、私……泣いて……る?」

 今の今まで、泣くなんて思いもしなかったのに、大粒の涙が後から後から溢れてくるのを、美玲はどうしても止められない。

「う……く、す、すみません……すぐに止めます、か……ら……え?」

 頬に冷たい指先が触れる。

 苦い思い出を含ませた涙を、長い指先が、拭ってくれているのだった。

「あの……リュストレーさ、ま?」

「泣いていい」

 リュストレーは美玲の頬に手を添えたまま、ゆらりと立ち上がった。

「泣いていい。私は泣けなかったから」

「……ふえ?」

 突然の浮遊感。

 あまりに想定外のことで、何が起きたのかすぐにはわからなかったが、履き慣れた運動靴を履いた爪先が揺れているので、美玲は自分が抱き上げられていることを知った。

「あ……の?」

「この部屋には、柔らかい椅子がないから、ここで我慢せよ」

 そう言いながら、リュストレーは美玲を抱いたまま、どっかりと寝台に腰を下ろす。今まで気にしなかったが、書斎の衝立の向こうには彼の寝室があったのだ。

「泣いていいのだミレ。泣きなさい」

 耳の近くで囁かれる優しい声が合図。

「ふ……うえ……わああああああああ!」

 喉からほとばる、溜まりに溜まった心のおりほとばしる。

「ずっと我慢してたの! 私ずっと、悲しかった! 惨めだった! 惨めだって悟られないように振る舞うことが惨めだったのよぅ!」

 泣きながら美玲は、自分にこんな大声が出せることに驚いていた。しかし、一度漏れ出た心の叫びは止まらない。

「なによ! お父さんも、お母さんも嫌い! 大嫌いよ! いらない子なら、なんで作ったのよ? 生きてて何にもいいことない! 自分が一番嫌い! しんどい! 苦しい! 寂しい! 助けて、助けてよ! わああああああ!」


 そのまま美玲はわめき続け、泣き続け、美玲が冷静になったのは、たっぷり十分後だった。

 最初は何か叫んでいたようだが、いつしか何もかもがごちゃごちゃになっていて、最後はひたすら泣いていたようだ。

 そして、興奮がしぼんだ今は、恥ずかしすぎて顔を上げられない。


 なにこの状況。

 私めちゃくちゃやらかした? やらかしてしまった。

 普段そんなに辛いとは思ってなかったのに、なんで今更!?

 真面目で有能な勤労少女にあるまじき振る舞いだ!

 しかも、男の人の膝の上で!?

 ひ、ひざのうえ……で……?


「ミレ?」

「あ、えと……あの。膝が、その……泣いて混乱」

 あまりに狼狽えてしまい、リアクションが怪しい

「いいんだ」

「え?」

 美玲の体に腕が回される。頭の上に感じる優しい重みは、彼の額だった。

「りゅ、リュストレーさ、ま?」

「いいんだ。わかっている」

「何がです?」

「お前が私の代わりに、泣いてくれたんだな」

「……」

 さすがに恥ずかしくなってきた美玲が、くっつけていたリュストレーの胸から顔を上げると、いつもの古ぼけたガウンの合わせが開いていて、中に覗く白いシャツが美玲の涙と鼻水(と、よだれ)でびしょびしょだった。


 こ、これは本格的にヤバい。

 男の人の膝の上で、胸の中で言い逃れのできない醜態を!

 私もう、この人の顔、まともに見れない!


「あのあの、非常にすみません……」

「いいと言っている」

 それは咎める声ではなかった。

「それでもこう言う場合は謝るのが、日本人なのです。ご迷惑をおかけし、申し訳ありません、下ります」

 美玲はもごもご言って、リュストレーの膝から滑り降りようとしたが、できなかった。

「ミレ、私のためにもうしばらく、こうしていてほしい」

 ふんわり巻きつく手が少しだけ狭くなる。

「え? いやでも重いですから」

「重くない。それに温かい。人というものは、こんなに温かいものだったのだな。それともそなただけか?」

「誰でもですよ、きっと」

 照れ隠しにそっけなく美玲は答えた。リュストレーの膝の上で。

「私も自分が嫌いだった。王太子だと言っても何一つできず、死ぬために行った戦場で、我が身可愛さで誰も守れず、こんな屋敷に引きこもってさえ、そなたに迷惑をかけている……だから」

 リュストレーは、長い睫毛の下から美玲の瞳を覗き込んだ。

 途端に勤労娘のタフであるはずの心臓が跳ね上がる。


 わ、わ……ちょっと、これは無理!

 絶対、無理!

 この瞳に吸い込まれたら私、死んじゃう!


「美玲……私は……」

「あ、あの! リュストレー様!」

「なんだ?」

「あの私! お腹空きました」

 美玲は努めて明るく言った。

「リュストレー様は食事をしない方が、頭が冴えるって言いましたが、私はお腹が空くとダメになる性分みたいです。ご飯食べてきていいですか?」

「ん? そうか、そうだな……かまわない。共に食べよう、ここで」

 そう言うと、美玲を片手に抱いたまま、リュストレーは呼び鈴を引っ張った。すかさずセバスティンが入ってくる。

「御用でございますか?」

「夕食を二人分頼む。私は美玲と同じものを」

「かしこまりました。ただいますぐ」

「え? 私と同じもの、ですか?」

 セバスティンが出て行ってすぐ美玲はリュストレーに尋ねた。

「あなたは、食べられない、食べたくないものがあったんじゃ?」

「……私とて、反省はしたのだ」

「それ聞きます。聞きたいです。けど、とりあえず、下ろしてください」

 リュストレーは美玲をテーブルまで運ぶと、椅子の上にそっと下ろしてくれた。

 すぐに二人分の夕食が運ばれてくる。

 熱く濃いスープ仕立ての煮込み、温野菜、焼きたての柔らかいパン、乳酪。そしてお茶のセット。水もある。

 予め、用意してあったものとしか思えない質と量である。好きなだけ分けられるように、取り皿もたくさん添えられている。

「大丈夫ですか?」

「ああ。良い香りがするな」

「自分でよそわれますか? それとも私が致しますか?」

 二人で話をするために、あえてセバスティンもトーメも席を外したのだろう。暖炉には火が入っている。

「お願いする。ミレ、分量は少しにしてほしい」

「じゃあ、一口分ぐらい入れますね。無理して食べることないですから」

 美玲は料理を、ほんの少しずつ皿によそってリュストレーの前に置いた。泣いて空腹だったので、自分の分は遠慮しないで大盛りにした。

「いただきます」

「イタダキマス」

 以外にもリュストレーは全部の料理を食べられるようだった。当然だが、テーブルマナーも完璧だ。


 あんなに、いろいろ文句を並べていたのに……全部綺麗に平らげてるじゃん。


「おかわり要ります?」

「煮込みとパンを少し」

「極端な偏食だと思ってました」

「子どもの頃はなんでも食べられた。しかし、戦から戻ってきてから動物性のものが食べられなくなった」

「今は大丈夫なんですか?」

「ああ。本当はミレがこの間勧めてくれた時に、食えると感じた。でも、怖かった。自分が守って堪えてきた何かが崩れてしまう気がして、あんな不作法な真似をしてしまった……すまない。でも今は憑きものが落ちたような気がしている。美玲の涙と鼻水と一緒に」

「鼻水は余計です。でも、怖いくらい素直ですね。私……私は、こっちのあなたの方が好きです」


 カシャーン……


 銀のスプーンが皿の上に落ちた。

「ちょっと! お皿大丈夫ですか? いいお皿なんでしょ!?」

「……好き?」

「は?」

「ミレ、そなた私のことを好きと言ったのか!?」


 ──あれ?

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