創作論という呪い
※今日は愚痴毒が強めです。
お盆明けの月曜日ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
私は旅行疲れでぐったりしています。普段歩かない歩数を歩きまくりましたしね……今週は5日フルに労働日なのが辛いですが、なんとか乗り切りたいと思います。
という次第で、今日は旅行の間のあれこれを書こうと思ってたのですが。
SNS(珍しく旧Twitterではない)でどうにもモヤモヤするものを見てしまったので、愚痴がてらちょっと吐き出そうと思います。現地で呟くとどう考えても角が立つので。
……ええ、タイトルで察せられる通り創作論系の話です。
「小説で感情は書かない、動きを書くものだ」という話を、さも当然の前提のように語ってた御方がいらしてですね。
ちょくちょくいらっしゃるんですよね、「小説で感情を直接書いてはいけない」と主張する人々。感情に限らず、「これを書いてはいけない」「これはこう書かねばならない」と普遍の真理のように主張する人たち、ほんとたくさんいます。
この手の、「創作論」を自称した「べし/べからず論」、私はたいへんに嫌いです。
真に受けた方々に「呪い」をかけることになってしまうので。
それを自覚せず安易に「べし/べからず」を垂れ流す方々も、もちろん大嫌いです。
まさに私自身が、若い頃その呪いにかかっていましたからね……。
小説では、感情を直接表現したり、形容詞を使ったりしてはいけないものだ、とどこかで聞きかじっていました。そのせいで、単純なことを遠回りに小難しく書くのが小説であって、そのまま単純に書いてはダメなのだと、学生の頃は思っていました。
それを打破してくれたのが、谷崎潤一郎「文章読本」でした。
文中に志賀直哉「城の崎にて」を賞賛している部分があるのですが、各種の描写を褒めつつ、同時に蜂の死を「悲しかった。」とだけ表現している箇所をも讃えていたんですよね。
あれを読んだ時は本当に衝撃でした。
「なんだ、小説って『悲しかった』を『悲しかった』って書いていいんだ」
と。
これを読んでいたからこそ、後年自分で小説を書く気にもなれました。もし、「小説は単純なことをまわりくどく書かねばならないものだ」と思い込んだままなら、あえて自分で小説を書こうなどとは決して思わなかったでしょう。
考えてみれば、名作と呼ばれる小説に、心情を直接書いているものは多々あります。
感情を直接書いてはいけない論者の方々は、「走れメロス」の書き出しとかどう考えてらっしゃるんでしょうかねえ。あの文、「激怒」以外の表現では台無しだと思うのですが。
私自身も、感情を直接表す言葉を小説内で普通に使います。
直接書かずに動作や情景に託した方がよいと思えばそう書きますし、直接書いた方がよいと思えばそう書きます。
実際には、間接的に動作等に託す方が効果的なケースの方が多いとは思いますが、直に「嬉しかった」「悲しかった」だけの方がいいケースもあると、経験上知っています。迷った時どちらを選択するかの基準も、自分なりに持っています。
しかしここで「感情を直接書いてはいけない」の呪いを受けていると、使い分けることさえできなくなります。その分、表現は自由でなくなりますし、適切な語彙を選択する力もその分弱くなります。
……呪いを撒き散らす人々は、考えたことあるんですかね? 他人の表現を奪う可能性を。
創作論、私は聞きたくありませんし、語りたくもありません。
どんなお偉い先生の御高説であっても要らないです(むしろそういう方々のほうが、決めつけ激しくてダメージを受けることが多いです)。
自分で語るのも嫌です。誰かの呪いになる可能性を考えれば、軽々しく語る気にはとてもなれません。
ほんと、どこへ行っても創作論語りだらけのインターネット。
創作論を見なくてすむSNSが、あるなら真剣に欲しいところです……。
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