口紅の魔法

みかさやき

口紅の魔法

「きょうね、せんせいがえほんをよんでくれたの」


 幼稚園児の娘が無邪気に話す。


「それはよかったね」


 本当は娘の話をよく聞いた方がいいかもしれないけど、今はそれどころじゃない。


 今日の夜ごはんは何にしようかな? カレー? でも一昨日そうだった。野菜炒め? これは昨日したな。うーんじゃあ何にしようかな。


 私は別に料理が好きってわけじゃない。そこで食事を全部作らないといけないっていうのはぶっちゃけ辛い。特に娘のお弁当は幼稚園で先生や園児などに見られるから、気を抜けない。朝早くから家事をしなきゃいけないのは大変だけど、これは仕方ない。


「あー海山うみやまさん、子供をお迎えにきたんですか?」


 働いていたときに、知り合った木下さんがやってきた。


「そうです。木下きのしたさんは波子なみこちゃんをお迎えにきたのですか?」


「そうです。今日は私以外お迎えに来れる人がいませんでしたのに」


 木下さんはにこにこと笑顔で、波子ちゃんと手をつないでいる。


 木下さんは波子さんのお母さんの姉の同性パートナーらしい。私と出会ったとき木下さんは恋人がいなかったので、ぶっちゃけいつの間にパートナーができたのか分からなくて、知ったときは驚いた。


 まあ私以上に他の幼稚園児ママが驚いている。それで木下さんが波子ちゃんのママではないってこともあるかもしれないけど、幼稚園児のママはほとんど木下さんとは関わらない。


「木下さんと海山さんお疲れ様です。私も子供を迎えに来ました」


 派手な化粧、特に赤いリップとキラキラとした目元が目立っている。そんな女性が男の子を連れて、私達の所へ来た。


桜野さくらのさん、おつかれさまです」


「桜野さんお疲れ様です。リップの色変えました?」


 木下さんが桜野さんのメイクの変化に、私と違って気づく。


「うん、新しい色のリップを買ったんですよ」


 木下さんと桜野さんは楽しそうにメイクの話を始める。


 同性パートナーの妹の子育てを手伝っているだけの木下さんとは違い、桜野さんはがっつり子育てをしている。それなのにメイクに気をつかえるなんてうらやましい。


 私は専業主婦とはいえ、子育てと家事の両立で時間に余裕がない。そこでメイクにこることもできず、人とほとんど会うこともないから、今私はほとんどすっぴんに近い。


 そういえば木下さんも桜野さんほど派手じゃないけど軽くメイクをしていて、きれい。ナチュラルメイクって感じで、私と違って身だしなみに気をつかっている。


「私もそのリップ欲しいです。今使っているのがなくなったら、それに変えようかなって思います」


「おすすめですよ」


 子供を連れて歩いているのに、2人がしているのはメイクの話。


 木下さんと桜野さんは独身女性のように気軽な感じで会話をしている。うらやましいな。


「あっ私はこれから仕事があるので、失礼します」


 桜野さんは息子を連れて、急いで立ち去る。


 幼稚園児ママはしていない、仕事を桜野さんはしているらしい。


 しかもうわさによれば、桜野さんはデリバリーヘルスで働いているのだと。旦那は単身赴任していて一緒に住んでいるわけでもないけど、風俗で働くってどういう考えなんだって色々な幼稚園児ママは思っているらしい。


 私だって子供を置いてどうやってデリバリーヘルスで働くのは気になる。でもそれを聞くことができるほど桜野さんと親しくはないから、私がそれを知ることはないかもしれません。


「仕事がんばってください」


 そこで私は特に何も言わず、さらっと桜野さんを見送る。


「私は今日仕事が休みなのです。だから家に帰ったら、波子と遊ぶ予定です」


「てれびみるくらいだけど」


「しゃーないでしょう。私が住んでいる家に子供が楽しいと思うものはありません。では失礼します」


 木下さんは妹の子供を連れて、ちゃっちゃとこの場から離れてしまう。


 私は娘の手をにぎりなおして、さっきまでよりも早く歩く。


蒼空そらくんママ、今日も派手だわ。流石デリヘルで働いている人」


「波子ちゃんママが迎えに来ればいいのに。妹のパートナーに頼むなんてね。お母さんに迎えに来てもらえなくて、波子ちゃんかわいそう」


 後ろからこそこそと、確実に誰かの心を壊しそうな話が聞こえる。


 普段からこんな話を聞きつつ、桜野さんと木下さんは生きているんだ。でも自分らしく生きている2人に、私はつい憧れてしまう。






 娘が幼稚園に行っている間、私は買い物をする。


 家事で必要な物は多い。そこでなくなったら大変なので、こまめに買い物に行くのが必要になってしまう。


 とゆうわけで娘が幼稚園に行って今が買い物のチャンス。娘が他人に迷惑をかけることも娘に買い物の邪魔をされることもなく、ゆっくりと買い物ができるから。 


 もうすぐ無くなりそうな洗濯用の洗剤やお風呂を洗う用のスプレーを買ってから、化粧品の棚を見る。


「あっ海山さんもお買い物ですか?」


 桜野さんが話しかけてきた。


 桜野さんは他の幼稚園児ママのように『○○ママ』とは呼ばないで、名字で他の人のことを呼ぶ。それもあってか幼稚園児では浮いているのだけど、私はそれがかっこいいと思う。


 他人に流されず、自分を貫く。それができづらい世の中だから、できている桜野さんはすごい。


「そうです。お買い物です」


「子供がいない間だとゆっくり買い物ができますもんね。私は洗剤とか化粧品を買いに来ました」


「あっ私もです」


 桜野さんが持っているかごをちらっと見ると、私が持っているのと同じ物が入っている。そこに親近感を感じて、うれしくなった。


「そうなんですか。海山さんはどういう化粧品を使っているのですか?」


「あまり高くない物です」


 化粧品や乳液は大容量で安い物、コスメもできるだけ地味で安い物を選んでいる。働いているわけじゃないら気が引けて、高い物を買おうとは思えない。


「口紅は何を使っていますか?」


「これです。色はピンクベージュが多いです」


 私は安くて色が落ちにくい、リップを指さした。


「こういった口紅は使わないのですか?」


 桜野さんが指さしたのは赤い口紅。


 ピンクやベージュの一切混じっていない、純粋な赤。いや紅といってもいいかもしれない。私が今までつけたこともない、強い赤。


「うーん今までそういった口紅はつけたことがないです。それにこの口紅は高いですし、気後れしてしまいます」


 おまけに桜野さんがすすめてくれた口紅は百貨店で売っていてもおかしくないほどお洒落で高い。こういう高い化粧品を今まで使ったことがないので、そもそも選択肢にも入ってなかった。


「高い化粧品はいいですよ。この世という戦場をサバイブするのお手伝いをしてくれますから。だから私は化粧品にはお金をかけます。口紅、チーク、アイカラー。それらの色は印象に残りやすいから、特に大事なんです」


 桜野さんが力説する。


 別に化粧を私が特別好きってわけじゃない。ピンクベージュのリップ、チークは落ちついたピンク、アイカラーは華やかではないブラウン系。派手さはなく地味に見えることを意識して、何よりも子育て中にメイクをこることができるほど余裕があるって思われたくない。


「私は化粧が苦手なので大丈夫です」


 いつもの化粧品をかごにいれて、さっさと買い物を済ませる。


「海山さんなら絶対赤が似合うと思いますよ」


 桜野さんは私が買おうとは思わない派手な色を使った化粧品をどんどんかごにいれる。今桜野さんがしている口紅だって、赤が印象的で華やかだ。少なくとも私にはこんな華やかな赤は似合わない。


 お会計を済ませてから店の外へ出ると、そこには桜野さんがいた。


「これぜひ使って下さい。絶対似合うと思いますよ」


 桜野さんが私にある物を渡してくれた。それはさっきおすすめされた派手な赤い口紅。


「似合わないと思うのですが」


「大丈夫です。だまされたと思ってつけてみてください。今度会うときはこの口紅をつけてきてくださいね」


 桜野さんは花がふんわりと咲くように、にっこりと笑った。


 その笑顔があまりにもかわいらしく、ついその口紅を受け取ってしまう。


「ありがとうございます」


 まあ口紅くらい派手でもいいか、それにこれは私が買った物でもないし。


 そう考えて、私は口紅を受け取る。今日はつけないけど、明日つけてみようかな。この赤が私に似合っているなんて思わないけど。






 顔を洗って、化粧水と乳液を塗り、リキッドタイプのファンデーションにルースパウダーをはたく。


 娘はまだ寝ているし、夫は食事中。そんな時間にささっと化粧をするのが、私の日課になっている。


 そして私は口紅を塗る。いつもならピンクベージュのリップを塗るところだけど、今日はそうしない。


 昨日桜野さんからもらった赤い口紅を取り出す。


 つややかで赤い。今までつけたことのないほどの強い色、つい気が引けてしまう。


『今度会うときはこの口紅をつけてきてください』


 桜野さんはこう言っていた。こんな高い口紅をもらったんだ、使わないのはもったいない。


 そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと口紅を塗っていく。まずは唇の輪郭を丁寧になぞっていってから、唇の内側にもしっかりと塗る。ピンクよりもベージュに近い地味な色をした唇が赤く染まっていき、きれいになっていく。これで完成。


 チークとアイカラーを塗ると、いつものようでいつもよりも少しだけ華やかになった私が鏡に映っていた。


 あっいけない。鏡を見ている暇はなかった。私は慌ててリビングへと向かう。


「もう行くから」


 朝食を取り終えた夫が、身だしなみを整えている。


 芸能人ほどイケメンではないし目を背けたくなるほどのブサイクでも夫はない。それでもこの世界で一番大好きで大切な人なんだ。


「いってらっしゃい」


 私はいつも通りあっさりあいさつをする。


 夫は何も言わずに黙ってリビングから出て、玄関へと向かう。そしてそのまま黙って外出した。


 私が口紅を変えたのを、夫は気づいていないみたい。


 いつものおとなしいピンクベージュのリップじゃなくて、強い赤色の口紅。


 それもあってか顔の感じがいつもとは違うのに。夫はそれに気づいてくれなかった。


 口紅を変えたくらいじゃあ大したことないんだ。それで夫も気にしなかったのだろう。


 そう考えて私は娘を起こして準備もさせて、幼稚園へ向かう。


百合ゆりちゃんママ、おはようございます」


はなちゃんママ、おはようございます」


「百合ちゃんママ、口紅変えました?」


 流石女ってことなのか、幼稚園児ママは私が口紅の色を変えたことに気づいた。


「そうです。イメチェンです」


 少し気恥ずかしくなって、私は慌ててその場を離れる。


 娘を無事に預けて、周りに人がいなくなったとき。桜野さんがいることに気づいた。


「あっ昨日の口紅つけてくれたんですね」


「そうです。昨日はありがとうございます」


 いつもとは違う赤い口紅。それに桜野さんは気づいたみたい。


「とても美しいです。海山さんはやっぱり赤が似合います」


 桜野さんはにっこりと笑って、ほめてくれた。


 私は赤が似合うだなんて、思ったことがない。どちらかといえば赤よりもピンクが好きだし、派手な色よりも地味な色の方が良い。


 だけどこの言葉だけはすんなりと受け入れることができる。


 それはきっと口紅の力に違いない。口紅が作る赤の強さが、私の心にも影響を与えている。


「もしお暇でしたら一緒にお昼ご飯を食べませんか? おいしいパスタのお店が私の家の近くに最近オープンしたんですよ、おすすめです」


「お誘いいただきありがとうございます。うれしいです」


 お昼ご飯のお誘い、それにどきんとする。


 夫は外食に誘ってくれることは娘が生まれてからないし、他の幼稚園児ママも誘ってくれない。そんなわけで私はこのお誘いが純粋にうれしい。


 それにパスタを食べるのも久しぶり。子供が産まれてからは作りやすく、朝ご飯に使い回せる料理が多くて、1度で食べきる前提のパスタが食べなくなった。そこもうれしいかもしれない。






「パートナーは九州で働いています。仕事が忙しいから、東京にはほとんど帰ってきません。それでも問題はないです。蒼空と2人で生活できています」


 夫でも旦那でもなく、パートナー。その呼び方は今まであんまり聞いたことがなく、どきどきする。


「私は夫と娘の3人暮らしです。夫が仕事で忙しいので、夕方以降にいつも帰ってきます。それで娘と2人で過ごすことが多くなっています」


「私の家でもそうです。パートナーはいなくて実質親子2人で生活ができています」


 桜野さんはそう言って笑う。


 それは桜野さんがデリバリーヘルスで働いているからだろうか?


 風俗は給料が良いらしい。それなら親子だけで生きることも可能かもしれない。


「私は今働いていないので。子供と2人だけで生活することは難しいです」


「幼稚園児のママはそうでしょうね。私の場合はちょっと事情が違いますから。子供を預けて仕事をすることもあります」


 それがデリバリーヘルスなのかな? 桜野さんがデリバリーヘルスで働いていることはかなりうわさになっているので、それ以外の考えが思いつかない。


「子供が大きくなったら、スーパーとかでパートはしてみたいなとは思うのです」


「子供が幼稚園児へ行っている間に働くのもいいですよ。私も時々子供が幼稚園へ行っている間に働くこともあります」


 やっぱりデリバリーヘルスだから、時間が自由になるのかな?


 デリバリーヘルスをよく知らないから分からないけど、他の仕事よりも時間を融通できるように聞こえる。


「考えてみます」


 デリバリーヘルスのような風俗で働くのは難しくても、他の仕事ができそうだ。


 そこで娘が幼稚園に行っている間、何か仕事をしてみようかな。


「あっここがおいしいパスタのお店です」


 こぢんまりとした家を、桜野さんが指さす。


 ここが桜野さんのおすすめするお店らしい。私の家から遠く離れているわけではないけど、今まで行ったことのないお店。


「はじめてきました」


「それはよかったです。素敵なお店ですから、誰でも気に入ると思います」


 桜野さんに続いて、店に入る。


 シンプルなテーブルと椅子が置かれた、派手じゃない空間。店員さんにすすめられて席に座る。


「ミートソース、ナポリタン、カルボナーラがオススメで、あとそばめしもおすすめですって」


「そばめしって何ですか?」


 聞いたことがない。そこで他のおいしそうなパスタよりも気になってしまった。


「そばめしは焼きそばとごはんを一緒にいためた、焼きそば風チャーハンみたいな物です。おいしいらしいですよ」


「それでは私はそれを頼みます」


 そばめしが気になってしまったので、パスタじゃないけどそれにしてみる。


 席にそばめしが届いてびっくりした、茶色のめんとごはんだ。


「あっそばめし美味しいです」


 焼きそばのソースの味がめんやごはんにあっておいしい。はじめて食べたのだけど、自宅でも作ってみたい。


「そうですね。そばめしおいしいです」


 桜野さんもそばめしにしたらしく、楽しそうに食べている。


「あっ予定があるので帰ります。また一緒にお昼ご飯を食べましょう」


 食事が終わって会計を済ませてから、桜野さんは慌てて出ていくのを、私は落ち着いて見送る。


 桜野さんと一緒にごはんを食べた。そして桜野さんにまた誘ってもらった。


 それがたまらなくうれしい。


 なんなら夫と一緒に食事をするよりも、桜野さんと一緒に食事をする方がうれしいかもしれない。夫がおごってくれた高級な焼肉よりも、このそばめしの方が美味しい気すらした。


 私は落ち着いて深呼吸をする。


 このどきどきが消えてほしいから。


 でも落ち着きのなさは消えずに、いつまでも心に残っている。それはきっと、いつまでも消えないかもしれない。

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