四、

 玄武岩が柱状に連なる入り組んだ岸壁を海側から回り込むと、海食洞が崩れてぽっかりと開いた空間が現れる。

 どうせ濡れたんだから、いいところに案内しますよ、と新崎さんが悪戯っぽく笑って言ったので、胡散臭いと思いながら着いてきてしまった。私が海に落っこちたついでにざぶざぶと水を蹴って遊んでいると、どういう訳が新崎さんも降りてきて、いろいろと磯の生き物を教えてくれた。ウミウシが可愛くて面白いですよ、と勧めてくれる新崎さんは確かに仲田さんの甥っ子である。なので二人とも既に水浸しなのだ。湿った裾を靡かせてスクーターに乗るのは割と楽しかったけれど。


 苔と草の根、蔓草が頭上の淵を覆い、降り注ぐ陽光から僅かな影をつくって揺れている。雨水なのか潮の露なのか、雫でうっすらとした染みが幾重に走り、どこか人目から隠されて朽ちたいにしえの神殿のようだ。崩れた岩が堆積した足場は少し不安定だが、私はその岩肌を見上げて立ち尽くした。

「すごいでしょう、伯父と充生さんが描いたものです」

 新崎さんの囁きが反響する。囲む岩壁には一面に絵が描かれていた。太陽に月、星、雲、雨、四方に支持根を張り巡らし鬱蒼と輝くガジュマル、色とりどりの鳥たちが舞い、さまざまな姿の魚たちが跳ね、イルカは眠り、エイは翻り、海亀は導く。飛行機は朝日をかすめ、車はガジュマルの根の上で右往左往し、船は旗を靡かせ、人は漕ぎ耕しはぐくみそだてる。抽象的なような写実的なような伝統紋様のようなアール・ヌーボーのような、原色のようなシェイドのようなティントのような虹が降る。何かが波になって心のうちに押し寄せてくる。私は溢れてしまってぼろぼろと泣いた。新崎さんが言ったことは本当だ。仲田さんの線は踊るように活き活きとしているが、生命の繊細な感触みたいなものは、上原さんの色が呼び寄せる。上原さんの光と影に満ちた造形に、温度と愛着のようなものを付け加えるのは、仲田さんの筆づかいだ。上原さんは島を離れてからもずっと、仲田さんならどうするだろうと悩みながら描いていたのかもしれない、だからいつも視点がプリズムのように散っているのだ。私たちはその揺らぎでさえ好ましいと思う。なぜならみんなそうやって生きているからだ。アーティストとして評価されながら、上原さんは遠い土地で一人苦しまなければならなかった。仲田さんの絵が世界的に知られることはなかったけれど、仲田さんには島があった。

「ここは二人の秘密の場所なんです。俺は小さい頃我が儘を言って連れてきてもらいました」

 でもあなたは“うえはらみつき“さんですから、許してくれるでしょう。きっと充生さんが伯父と島のみんなのために、あなたを呼んでくれたのかもしれない。悲しむなって、おれたちには絵があって、こうやって引き継がれて、新しい創作者と支える人々を生み出すんだ、って伝えてくれたのかもしれない。伯父は寂しがりやですからね、ああ見えて。


 その晩も夢をみた。突き抜ける空の下溶けるような暑い道をスクーターで駆けて、生い茂る草木とまとわりつく虫の音を掻き分け、まっさらな銀の砂浜へ寄せる波をしぶかせて、あの岩陰へと忍び込む。隣りで絵の具を取り出すのは仲田さんだ。みんな笑っている。そして全て霧と消えた。

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