二、
上場企業の会計部署で働いている、私は堅実な女と思われているらしい。別に数字に特別強いという訳ではない。文学のように答えが有るのか無いのかはっきりしないどころか、人によって答えが違うようなものが苦手なだけである。自分に自信が無いので、自分の基準で何かを決められないのだ。その優柔不断さと消極性のせいで、元彼からも距離を置かれてしまったのだろうと思う。それでも大して傷つかないところが、情緒が薄くて社交性の無い奴、と囁かれる要因なのだろう。けれど最近似たような夢を見て、泣きたいような、でも満たされたような不思議な気持ちで目が覚める。ホテルの一室に差し込む朝日は、この島が今日も蒸し暑くなる予感に輝いていた。
ツーリズムの拠点ともなる、群島の中で最も大きいこの島でも人口は5万人ほど。学校の夏休みはとっくに終わっていて、観光客もピークは過ぎているが、まだ名残惜しんでいる頃合いだ。私は運動が得意でもないので、旧市街をぶらぶらと歩く。小さな路地の摩耗した石畳を辿っていくのは迷路みたいで楽しい。店先には見たことのない食べ物やフルーツが色とりどりに並べられている。
「おや、昨夜の。弟橘宮はあっちだよ」
おでん屋さんにやってきた一人が店先から顔を出して、弟橘宮までの道を教えてくれた。ついでにグアバを切って持たせてくれる。グアバってジュースでしか飲んだことなかったけど、ほんのり甘くて歯ごたえが美味しい。
弟橘宮は街外れにビーチに面して建っている。潮風に吹かれて木が傷まないのかな、と思ったが、昨夜のお寺もそうだけれど、どうやら外枠は石造りみたいだ。この群島は大昔海底火山の活動でできたから、玄武岩が豊富に採れるんです、と仲田さんが言っていた。お寺やお宮ばかりなんだ、以前は海へ漁に出たり病気になったりしたら、神だのみしかなかったからね、と案内してくれた店主さんの言葉を思い出す。ビーチにはひと気も少なく、小学校に上がる前くらいの子供たちが駆け回ったり、砂遊びをしている。階段に腰掛けて眺めていると、お腹が鳴った。
フィッシャーマンズ・ワーフなどの埠頭沿いにある観光設備はどれも新しい。小腹を満たして、昨日と同じ漁船停留区脇の桟橋へと向かった。こちらは藻とフジツボらしきものに覆われて随分鄙びてしまっているが、もとから倉庫と家屋の後背にあって居住空間の一部なのだろう。仲田さんは同じ場所に腰掛けて、スケッチブックを開いているようだった。陽光が水面に弾けて、銀を撒き散らす。
「絵はお好きですか」
渡り板を軋ませる私に気づいて、仲田さんはスケッチブックを閉じた。私は仲田さんの隣りに座ると、コンビニで買ったお茶を差し出す。
「もっと小さい頃はお絵描きも好きだったと思うんですけど、小学校で描いた絵を揶揄われたことがありまして。泣いて帰って、それっきり“チカヨルベカラズ“が習慣になってしまったようです」
「ははあ、自分もです。
仲田さんは伏した目で緩やかに笑うと、
天澎宮までは車で30分ほど、仲田さんが案内してくれた。こぼれ落ちそうなほど熟した空の下、両脇に葦の生い茂る国道を風を切ってスクーターで走るのは気持ちが良かった。道沿いで氷などを売っているお店からは、大音量でビートルズが聞こえてくる。天澎宮も一級の史跡なのだが、何と言っても建物を覆うに飽き足らず、四方八方に支持根を伸ばしている樹齢300年超えのガジュマルが壮観だ。
「娯楽も少ないし金を稼ぐ手段も限られているしで、島の南北に通じているあの道を無免許やらスピードオーバーやらで暴走する若い奴が多いんですよ、まあ警察にもバレバレなんですが」
「仲田さんもウエハラさんとよくやった、そうでしょう」
一度なんて北端まで行って戻ろうとしたらパトカーが待ち構えていて、このガジュマルの影で野宿したなあ。蚊がひどくてね。結局海に跳び込むことになるんです。アイスを食べながら仲田さんは可笑しそうに言った。遠くに打ち寄せる波の音とガジュマルの葉ずれに混じって、私はぼかすか鳴るエンジン音と、青年2人の笑い声を聞いた気がした。
安篤十一行はかつての軍関係者住宅跡で、今ではカフェやセレクト・ショップが入る観光地となっているが、私は建物の壁に描かれているグラフィティが面白くて歩き回った。水泥打ちに苔むした壁と亜熱帯の木々が影を落とすノスタルジックな佇まいに、ポップな絵柄が妙にマッチしている。この島が近年観光地として再注目されているのは、“
「仲田さん、お世話になっています」
事務所から出てきて挨拶してくれた野本さんは、村役場の観光推進課から打ち合わせに来ていたところだったらしい。
「公有地だけでなく私有地にアート作品をおけるようになったのは、仲田さんが初めに説得して回って下さったからなんですよ」
それから評判になって広がっていったんです。三十代らしい野本さんの力説に、仲田さんは微妙に眉を顰めて首をめぐらす。照れ隠しなのかと思ったら、野本さんがミーティングに戻っていってから溜め息混じりに教えてくれた。
「観光目的ではなくて、自分たちのためだったんですがね」
観光開発が進んで勿論経済はずっとよくなったけれど、いろいろなものが変わってしまいました。変わることが悪いと言うんじゃないのですが。
「地域の文化振興に関しては、上原の貢献が大きい」
「……画家でいらっしゃいますよね」
そうです、やはりご存じでしたね、と仲田さんは諦めたように呟いた。この島での教育事業や公共施設へ随分寄付をしてくれました。まだまだ見たいものも描きたいものもやりたいことも沢山ある、と言っていたのに。仲田さんの凪いだ視線が、幾重の壁の向こう、畑の連なりの向こう、海の向こうへと注がれる。ミツキ・ウエハラはロンドンにオフィスを持っており、その地で客死した。
あいつに、見せてやりたかっただけなんです。
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