なみわたりびより
田辺すみ
一、
君は言った、ここからならいつかきっと、果ての海まで届くはず
境界の波間に黄昏の光が踊っている。空はターコイズに金木犀を降らせたようだ。その瞬きのなかに
「釣りですか」
私は小さな桟橋の端に腰掛けているその影に声を掛けた。振り向いた顔には笑い皺が幾重にも這っていて、けれど瞳はぴかぴかと夕日を映している。
「失礼だが、旅行の方ですか」
「はい、午後の便で着きました」
大きな口がにかりと笑う。脚をぶらぶらとさせて座っている傍らには、ほったらかされた釣竿と、埃っぽいスケッチブックが一冊。
「絵を描かれていたんですか。すみません」
「いや、持ち歩いているだけです」
「この島はどこも美しくて、絵が描けたなら楽しいのでしょうねえ」
私は全くそちらの才が有りません、と付け加えると、老人はよっこいしょ、と立ち上がって呟いた。
「記録するだけならね」
どうも晩飯のおかずは釣れなさそうです。寺前の屋台で豚足でもつくろいますが、どうなされます? と、のんびり歩き出した隣りに、一歩遅れて私も並んだ。カモメが一羽歌うように、頭上を滑っていった。
***
黒く磨かれたお寺の境内前には幾つかの屋台が並んでいる。その一つでおでんをつまみに飲んでいると、いつの間にか油っぽいスクーターが集まってきた。みんな仲田さんの知り合いらしい。定年したり時短勤務になったりでヒマなんだよねえ、と豆腐や青菜をかじりながらちょっと雑談してはすぐ帰っていくので、真面目なのだか不良老年なのだかよく分からない。
「どういう予定なの?」
聞き耳を立てていたらしい屋台のおかみさんに尋ねられたので、私は境内の四方に飾られて生暖かい夜気に揺れているランタンから視線を戻した。
「特に決めていないんです。ぶらぶらしようと思って」
「マリンスポーツや離島へのツアーは結構人気があるから、やるなら早めに予約取ったほうがいいかも。西峡までぐるっといろいろ見て回るのもいいと思うけどね」
「はい。天澎宮や北寮村にも六茨聚落にも行きたいですし」
「仲田さん、案内してあげればいいじゃないの」
隣りでグラスを舐めていた仲田さんは、呆れたように肩を竦める。ちなみに仲田さんは定年前に退職してから姉夫婦の経営している民宿を手伝っているそうで、『気楽な身分』なのだそうだ。
「さっき挨拶したばっかりなんだが」
「これもご縁でしょ。大丈夫よ、仲田さん元警察官なんだから。ええと」
「……上原です。
私の名前を聞いて、おかみさんは一瞬言葉に詰まったようだった。おでんの鍋から立ち上る湯気に潤んだような瞳が、傍らの仲田さんを伺う。宿にチェックインした時も、レセプションでなんとも言えないような面持ちをされた。理由は分かっている。ミツキ・ウエハラ、この島の出身で、世界的に有名なアーティストがいるのだ。
絵画を始めアートには全く疎かった私が、“彼“を知ったのは、訃報を目にしたからだった。自分と同じ名前の人物の追悼特集記事が出ていれば、さすがに気づく。興味がわいて調べてみれば、それまで知らなかったのが不思議なくらい、ミツキ・ウエハラは国際的にも人気で評価の高いアーティストだった。風が靡くような波が舞うような青の明度とゴールドの質感、樹木がうねるような形象の使用が特徴的で、海外のメディアでは『日本の伝統的デザインとモダニズムが融合した』などとも言われるが、この島を訪れれば、彼を構成していたものは“日本的“というより、この島そのものだったのだろうと気づく。私には何とも説明できないが、島に降り立って呼吸して『ああ、やっぱり』と納得した感じだった。
「……明日は午前中町内会の集まりがあって、午後はまた釣りだから、用があれば尋ねて下さい」
そう言って宿まで送ってくれた仲田さんは、全く酔った様子ではなかったが、青白い夜霧に紛れて夕顔みたいに笑うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます