第5話
こんな姿本当は恥ずかしくて嫌なのに、なんだか本能に抗えない気分がする。
「はいはい、もう1本だけね」
健一がジャーキーを差し出すとそれを奪い取るようにして自分の元へ引き寄せ、地面に押さえつけて噛みちぎる。
あぁ、これじゃまるで野生児だ。
こんな姿を憧れの上司に見られているなんて恥ずかしくてたまらない。
だけどお菓子を止めることもできなくて、あっという間に食べ終わってしまった。
それでもまだなにか残っていないか鼻先でくんくん部屋の中の匂いをかぐ。
その姿を見て健一が「もうないよ」と笑った。
こんなにいやしい姿を見ても笑ってくれているなんて、なんて優しい人なんだろう。
自分が子猫になっていることをすっかり忘れて健一のことを惚れ直してしまう。
健一の大きな手で頭を撫でられたら本当に心地よくて、また眠ってしまいそうになる。
が、今度はしっかりと目をあけて健一の手の甲を確認した。
さっき自分が引っ掻いてしまった傷が残っている。
それほど深い傷じゃないけれど、ほっておくことはできない。
本当なら消毒しなきゃいけないけれど、今の尚美にはそれもできない……。
尚美は健一を見上げて「ミャア」と鳴いた。
ごめんなさい。
の意味を込めて。
するとやはり健一は言葉がわかるかのように「大丈夫だよ、痛くないから」と、答えてくれた。
やっぱり私の言葉がわかるんじゃないの!?
そう思って何度も「ミャアミャア」鳴いてみたけれど、後の言葉はなにも通じなかった。
少しガッカリするけれどそれでも優しい健一に拾われたことは不幸中の幸いだったに違いない。
「さぁ、今日はもう寝よう。明日は一緒に買い物へ行くよ」
そう言われて尚美は明日も休日であることを思い出した。
健一は今日休日出勤だったのだろう。
だから会社の近くにいたんだ。
「こっちにおいで」
リビングの電気を消した健一に手招きされて尚美はその後をついていく。
隣の部屋は寝室になっていて、大きなベッドが中央に置かれている。
さすがに広い……!
そう思っていると健一は枕元の電気だけをつけてすぐに布団の中に潜り込んでしまった。
猫である自分が一緒に眠るわけにもいかなくて、どこで寝ようかと室内を見回した。
大きなクッチョンがあるから、あの上で寝させてもらおう。
そう思って移動しかけたとき、大きな両手で抱き上げられて強制的にベッドの上に移動してきていた。
そのまま布団の中に引き込まれてしまう。
「今日は一緒に寝るんだよ」
健一の息がかかるくらいに密着して囁かれて尚美はまた暴れそうになる。
けれど健一が両手でギュッと抱きしめてくるので抵抗もできなくなってしまった。
こ、こんな状態で眠れるわけがない!
健一と同じ布団で眠るなんてこと想像の中でもしたことがない。
こんなの恥ずかしすぎる!
理性のある尚美はそう思うけれど、体は子猫のものだ。
今日はずっと空腹で歩きまわっていたから、いくら寝ても寝たりない状態にあるらしい。
健一に抱っこされ、暖かな布団にくるまれて再びまどろみはじめてしまった。
あぁ、ダメだってば私。
こんなところで寝ちゃ、みんなに誤解されちゃう……。
一瞬会社の健一ファンたちの顔が浮かんできたけれど、それもすぐに消えて今度こそ深井眠りについたのだった。
翌日目を覚ましたとき尚美はまだ健一の腕の中にいた。
一瞬自分が猫になっていることを忘れて悲鳴をあげたけれど、喉から出てきた「ミャア!」という言葉に、昨日のできごとをすべて思い出していた。
ど、どうしよう。
あれは全部現実だったんだ……。
まだ眠っている健一の横で絶望的な気分になる。
交通事故に遭っただけならまだしも、猫になっただなんて。
言葉も通じないから誰にも相談できないし、唯一助けてくれた人はまだ眠っている。
このまま猫で居続けることになるんだろうか?
死ぬまでずっと?
そう考えるとゾッとする。
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