フ。初めての共同作業なのに性行為が無いってどういう事なのよ。おかしいでしょ、情操教育やってないの? 教育はどうなっているのよ教育は。
僕の姉である和奏姉さんが下冷泉霧香とまるで実の姉妹のように親しくなっていたという事実から脳が壊れてしまった茉奈が自室に引きこもってから、数時間後。
僕は下冷泉霧香が提供してくれた情報から見つけた穴場のスーパーで材料を比較的安値で購入し、女子寮のキッチンの前に立っていた。
「さて」
百合園女学園の寮、椿館のキッチンを利用して2日目。
余り慣れない環境ではあるけれども、すぐに順応してみせた僕は調味料や調理機材を自分の手に届きやすくする為の整理をしてから、昨日買ったばかりの食材の残りである豚肉と春キャベツを冷蔵庫から取り出しては台所の上に並べ、長年もの付き合いであるエプロンを百合園女学園のボレロ形式の制服の上から紐をきつく結ぶ。
制服以外の服がないのかという話になるのだけど、僕は女性モノの衣服を持ってはいない……というか、持って堪るか。
「……ぐ、むむむ……やっぱり髪の毛が鬱陶しい……目に髪が入って邪魔……料理に髪入るし……うぅ、切ろうかな……いや、切っちゃ駄目だよね……」
認めたくないとはいえ、僕の見た目は完全に女子である。
しかし、それでも僕は男である事は覆す事は出来ないので、僕には女性の肉体とは違った箇所が多数ある。
なので、共犯者である義妹から提供されたシリコン製の増胸パットを胸部に直接貼り付けていたり、髪はウィッグではなく自前で少し伸ばして、少しでも女の子に偽装するなどと言った努力はやっている。
基本的に髪型はお抱えの美容師さんに整えさせたし、姉の髪の手入れをしていた時期もあったのでそっち方面の知識も髪質も女子に負けない程度にはあるつもりだけど、やはり男子だとバレないように若干長めに伸ばしていた髪は鬱陶しい事この上ない。
取り敢えず、千切りキャベツでも作ろうかとキャベツを切ろうと集中したその瞬間に、セミロングぐらいの長さの前髪が顔にかかるのが非常に億劫で――。
「フ。宜しければ私の髪紐でも使う? 安心して。新品だから。絶対に新品だから。本当に新品だから。それはもう新品中のド新品。処女膜もびっくりするレベルの新品。何も考えずに安心して使っていいわよ物凄く新品だから」
そんなこんなで包丁を握らないまま考え事に耽っていたら、いきなり背後から髪紐使えコールを呼びかけてくる存在がいた。
「ひゃっ⁉ し、し、下冷泉先輩っ……⁉」
「フ。貴女の下冷泉霧香よ」
背後にいたのは僕が女装生活をする上での最大最悪の障害とも呼ぶべき存在、下冷泉霧香その人であり、制服姿の彼女の掌の中には深紅の髪紐があった。
「か、勝手な事を言わないでください。それから料理中に背後に立つのは金輪際止めてください、本当に危ないです。もし、私が包丁を持っていたら……!」
冷や汗を流しながら、彼女に対して非難の言葉を投げかけようとして……この人は僕が包丁を持っているかどうかを自分の目で見てから声を掛けるか掛けないかの判断が出来る人だろうなと1人で納得する。
恐らく、言っても意味は余りない。
何故なら、彼女は分かった上でそういう事をしてくるタイプの面倒極まりない変態だろうから、僕は口に出そうとした注意を嘆息に変換して吐き出す事にした。
「フ。心配してくれてありがとう。でも私は包丁を刺された程度では死ななさそうじゃない?」
「……そんな仮定の実証は絶対にしませんけどね。それで下冷泉先輩。ここに来たって事は例のアレの準備はもう済んだんですか?」
「フ。終わったわ。私の従者たちは優秀な人材しかいないから、後はなるように任せるだけ」
「随分と早く済むものなんですね? そういうのってかなり時間が掛かってしまうという偏見があったのですが……で、下冷泉先輩はどうしてこちらに?」
「フ。暇だから趣味である唯お姉様のストーキングと観察をしようかと」
「暇人かつ最低っていよいよ本当に救いようがないですね。新しい御趣味でも探したらどうでしょう」
「そんな私の事よりも髪紐。使うの? 使わないの? こちら側からしても受け取って貰えると私が嬉しい」
料理を作る際に髪紐で髪を結ぶだなんていう発想は全く無かったから、彼女の提案は実に魅力的ではあったものの、当の発言者があの変態メス豚先輩こと下冷泉霧香であったので、僕は警戒がてら彼女に質問をする事にした。
「先輩がその髪紐に細工をしていなければ遠慮なく使わせて頂きますね」
「フ。細工だなんて……………………フ」
「何ですかその長い沈黙」
「フ。下冷泉ジョーク。安心して? 予め、位置情報を特定する機材を埋め込んであるとか、唯お姉様を想像してペロペロと舐め舐めして使用済みだとか、私の髪の毛で編んで作った百合百合しい髪紐だとか、一度自分の体内に入れておいて熟成させた髪紐だとか、そういう細工は一切してないから安心して? 100%安心で100%安全で100%信頼しても大丈夫よ? フ。フフ。フフフ。ブヒヒ……!」
「安心できない内容を列挙しておいてから、安心しろと言いつつ髪紐を渡そうとする心理が本当に理解できませんね」
「フ。乙女心は複雑なのよ唯お姉様」
「複雑すぎて逆に汚くなってますよ、その乙女心」
「フ。唯お姉様の笑顔から出される毒舌は本当にゾクゾクする。幸せ」
僕にそんな言葉を言われて本当に嬉しいのか、下冷泉霧香は自身の両手で己を抱きかかえては感極まったように震えていた。
そんな彼女の表情は若干赤らんでいて「フゥフゥ、ハァハァ、ブヒィブヒィ」と荒い息を零す様は非常に気色が悪かったが、彼女はどうしようもない変人だという事は承知の上だし、見た目だけなら100点以上の女性なものだから非常に質が悪い事この上ない。
……というか、本当に顔はいいな、この先輩……じゃないだろ、僕。
「でも、女性からの贈り物に警戒心を持つのは大事。……百合園女学園ではどうかは知らないけれど、私が前いた学校にはいたわね、贈り物にそういうのをしてくる女子生徒。特に食べ物には気を付けなさい。酷い時には
「え、画鋲ってあの画鋲? そんな漫画みたいな話があるんですか」
「逆に無いと思っていてびっくり。まぁ、私は下冷泉という家名に守られたからそういうのは少なかったけれど、偶にいるのよね。下冷泉家は古くて歴史があるだけの家だって思い込んでいる無学で可愛いお嬢様が」
「ちなみに聞きますが、その浅学非才なお嬢様はお元気で? 五体満足で生きてます?」
「フ。知らない。5年前ぐらいに親の都合でいきなり自主退学したもの。噂だと何でも親の会社が急に経営難になって学園に通える学費が捻出できなくなったみたいだけど……フ。所詮は噂よ、噂」
怖いなぁ、お嬢様。
怖いなぁ、下冷泉家。
だがしかし、僕の目の前にいる下冷泉霧香は手段としてそういう事も出来る人間なのは確かな事実であろう。
仮に彼女が許しても、彼女の家が許さないという事も当然ある訳で、彼女の家はあの下冷泉家だ。
下冷泉の家と百合園の家は犬猿の仲と言っても過言ではないぐらいに仲が宜しくなく、下冷泉霧香が好意的であったとしても保護者であらせられる下冷泉の親族たちが存在している事に変わりはなく、もしかすると、僕が何故か行方不明になってしまう可能性だってなくもない。
「という訳で、はい、髪紐」
「わぁ! 今の話を聞いたら受け取るしか出来ませんし、流れ的にも今すぐ結べって言われますよね! 人の心とか無いんですか下冷泉先輩!」
「フ。唯お姉様は理解が早くて助かる。フフフ……私と唯お姉様との赤い糸……! フ。たまらない。本当は首輪にしたかったけれど私は清い乙女なので赤い糸あたりで妥協する」
「いや、首輪って……いや、本当にポケットから鎖付きの首輪を出さないでくれませんかこの変態メス豚先輩」
「勘違いしないで。その首輪は私に付ける用よ。唯お姉様の綺麗な首筋に怪我をさせるような行動を私がする訳がないじゃない」
「僕が引っ張るんですか、このメス豚を……?」
「フ。そういう訳で、私と唯お姉様の運命の赤い糸をどうか受け取って?」
「随分と気色悪い赤い糸ですね。包丁で切っていいですよね?」
「フ。そんな事されたら泣いてしまうから本当に止めて」
そんなやり取りを挟みつつ、僕は彼女から朱色の髪紐を受け取って短くも長くもない髪を1束にまとめた。
僕はあまり女物の髪紐に詳しくはないけれども、そんな素人でも分かるぐらいには彼女がプレゼントしてくれた髪紐は高級品の予感が何となくした……というかこれ絶対に高級品だ。
成人式やら卒業式やら結婚式などと言ったお披露目の場で着用するような着物の帯につけるような飾り紐のような髪紐の両端には、紐で結んで出来たお花と、煌びやかすぎない程度の宝石のビーズがついてあったし、紐自体も中々に丈夫であった。
「……良い材質の髪紐ですね、これ」
「フ。なら良かった。私もミニなポニーテール姿の唯お姉様を見れて眼福。幸せ」
彼女を幸せにしてしまったという事実に少しだけの悔しさみたいな感情が膨れつつあるが、それでも料理中に髪の毛で鬱陶しくなる気持ちから解放されると思うととても喜ばしい気持ちの方が勝ってしまう。
悔しい。
下冷泉霧香に喜びという感情を与えられてしまって僕はとても悔しい。
「フ。さて、それじゃ私も唯お姉様とお揃いの髪紐で髪を結んで……っと。フ。それじゃ調理に取り掛かりましょうか」
「え? まさか本当に料理するんですか先輩?」
「フ。当然。安心して、媚薬とか滋養強壮の
いや、そんなモノを和奏姉さんに口に入れさせる筈がないだろう僕が。
後、茉奈にも。
「フ。冗談。そんな怖い顔しないで。……唯お姉様は家族の為に怒れる良い人なのね」
「そんなの家族なら当然の事でしょう」
「フ。即答出来る唯お姉様が本当に素敵。更に好きになる」
相変わらず捉えどころのない彼女は僕の感情をのらりくらりと受け流していて、まるで霧を無理やりに人の形に押し留めたかのような彼女の立ち振る舞いに対して、逆にこちら側が翻弄されてしまいそうになる。
だけど、目に見えて分かる形で動揺して、相手に優越感を与えさせるのが気に食わなかったので、僕は無表情でいる事を心構えたまま、包丁を手にしてキャベツを千切りにしていく。
「フ。鮮やかな手練手管。流石は唯お姉様。それじゃ、私は食後のデザートのティラミスを作るとするわね」
「分かりました、そちらはお願いします。……それにしても下冷泉先輩って本当に料理をするつもりだったんですね。てっきり、茉奈に嫌がらせをするつもりで適当な事を言ったものとばかり」
「フ。その意味合いは勿論ある。だけど、わか姉と私は本当に気の合う友人なのよ。生徒と先生と、年齢こそ離れているのだけれどもね」
あぁ、和奏姉さん。
友人は作るのは、うん、別にいいよ。
本当に悪い事は言わないからせめて友人だけは選んで欲しい。
こんな変態と仲良くなるだなんて、百合園女学園の教職員として輝かしい道を歩むであろう和奏姉さんにとって致命的すぎるほどの失敗だよ、本当に。
「はぁ……和奏姉さんは本当にお人好しなんだから……もっとしっかりしてほしいよ、本当……」
「フ。お人好しは美徳よ? かく言う唯お姉様だってお人好しの毛がある。だって、この変態発言を繰り返す美少女とこうして話しながら一緒に調理をしている訳なのだから」
無駄のない流れるような動きでポットに水を入れてお湯を作りつつ、慣れた手つきで卵を割っては卵黄だけをボウルに投入し、グラニュー糖を入れてはボウルの中をかき混ぜる彼女の動きを横目で見ていた僕は感心してしまっていた。
「……ふぅん。手慣れているんですね」
「フ。今のでそういうのが分かるだなんて、流石は唯お姉様ね。イヤらしい……! もっと私の身体を見て……!」
「別にそんなんじゃありません。私は料理が趣味ですから、そういうのは動きを見れば大体は分かるだけです」
「フ。褒めてくれてありがとう。こう見えても私は好きな人にご飯を作って餌付けして胃袋から攻略していくタイプの大和撫子なのよね。もちろん、身体を使って攻略もするのだけど」
案外、乙女のような考えをしているなこの人と思いつつ、そう言えばこの人は変態である以前に僕よりも1歳年上の女性だという事に今更ながら思い至った。
……そう言えば、この人って女子だった。
余りにも普段の生活態度が変態すぎていたものだから、僕は彼女の事をメス豚だなんて口にしていたのにも関わらず、彼女の事を異性として見るのに一種の抵抗というか、異性として見たら負けと無意識のうちに思っていたのかもしれない。
「……まぁ、先輩は美人なんですから、そういう発言を控えたら良い相手と良い関係を築けるでしょう」
「フ。私と言うアイデンティティの否定。私から変態要素を抜いたら、それは只の最強無敵の超絶美少女じゃない」
自分でそんな事を言うとは中々に強いメンタルの持ち主だ。
とはいえ、その大言壮語に負けず劣らずの美貌を有しているのがこの変態である。
天は二物を与えずと言うけれども、どうして神様はこの美少女に慎み深さとお淑やかさを与えてくれなかったのだろうか。
「先輩、アレ取ってください」
「フ。どうぞ、マヨネーズ。ところで唯お姉様、アレってあるかしら?」
「アレ? あぁ、ハンドミキサーですか。それなら、はいどうぞ」
そんなこんなで僕と先輩は他愛のない無駄話をしながら、てきぱきと料理をどんどん作り上げていく。
下冷泉霧香は確かに変態ではあるけれども、料理の邪魔をしないどころか手伝いが欲しいを思ったタイミングぴったりに手伝いをしてくれるものだから大変に助かっており、初めての2人の共同作業だとは思えないぐらいに僕たちは夕食作りに勤しんでいて、残すは下冷泉霧香が作ったティラミスを冷蔵庫に入れて冷やすだけとなった。
「フ。
「何で冷蔵庫に入れるという行動でそんな卑猥な言い方が出来るんですか……まぁ、横目で見た感じだと、先輩が作ったティラミスはとっても美味しそうでしたから、楽しみと言えば楽しみなんですけどね。それにしても意外です」
「フ……何が?」
「いえ、下冷泉家って和風のイメージがあったんですよ。ほら、先輩の実家って京都じゃないですか」
「フ。確かに京都だけど、それが?」
「偏見ではありますけれど、京都を本拠地にしている名家のお嬢様が作るのなら和菓子とかそう言ったものとばかり思ってて」
もし僕のその発言で彼女を不愉快にさせてしまったのであれば、すぐに謝罪しようと思ったけれど、彼女はいつものように余裕たっぷりな不敵な笑みを浮かべており、僕の発言に対して全く気にした様子には見えなかった。
「フ。その偏見は間違いじゃない。私の家はお抱えの和菓子職人が作った銘菓を食していたし、簡単な和菓子なら作れるように教育も施されていた」
「それなら……どうしてティラミスを?」
「まず単純に作るとしたら設備に材料が足りていない。後、私個人がティラミスが大好きだから。私にとってティラミスというお菓子にはとてつもない程の思い入れがあるから……ついつい贔屓にしてしまうの」
「思い入れ、ですか」
「えぇ。とっても大切な思い出があるの」
そう口にした彼女の表情は――思わず二度見してしまうぐらいに穏やかな笑みだった。
いつもの彼女であれば、どうやっても崩せそうにないぐらいの不敵な笑みを浮かべているのだけれども、その微笑みは今までの下冷泉霧香が浮かべているのを見たことが無かった表情だった。
「…………。フ。よし、ここでまさかのギャップ萌えを投入する事で私への好感度を大アップ。流石は私。恋愛策士にして恋愛無双。恋愛界の諸葛孔明ね」
とはいえ、その表情はまるで幻だったかのようにいつもの笑みでかき消されてしまった。
「フ。とはいえ、ティラミスに思い入れがあるのは
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