幻滅

狐木花ナイリ

前夜/邂逅

 金切り声が耳に突き刺さる。息子の名を呼ぶ母の啼き声だ。

 京助は拳を強く握りしめてから、しゃがみ込んで釜の火を眺めていた重い体を立たせた。そして、飛び乗るように土間に上がり、廊下を駆けては、寝室の戸を開く。

 部屋に籠っていた重い空気を顔いっぱいに浴びて顔を顰めた。換気してやりたいが、窓を開けてはならない。苦痛に喘ぐ母を、なるべく外に晒したくはない。

 部屋の中心に敷かれた布団の上、厚い藍染の夜着から覗く母の顔は赤く浮腫んでいる。眉間に皺を寄せて唸っては、時折せき込んで口から火の粉を吐き出す。床や布団に焦げ目がついているのはそのせいである。

 純白の長髪に一部混ざっている黒を睨んだ後、京助は白髪から二つ生え延びた稲荷の耳に目をやってから、苦痛を堪える母の顔を見つめた。

「──大丈夫か?母上」

 この二日間、京介は同じ台詞を何度も吐いたが、母の返答は概ね変わらない。

 埃と火の粉を吐きながらも母は、生命らしい温かい手で京助の頬を撫でる。そしてにこやかに表情を崩して言うのだ。

「勿論……大丈夫よ」

 京助はまた泣きそうになった。

 ☽

 京助の母──葛ノ葉との邂逅は、例の芥川に掛かった太鼓橋の上で果たされた。

 夕方頃には、野分豪雨が過ぎ去り、深夜になれば白枝一つ無い藍藍とした空に月だけが浮かんでいる。足許で流れている川はもう荒れていない。河岸際に生えた柳の葉が風に擦れる音が聞こえてきた。

 深夜、独り下水を眺める趣味があった訳では無く、京助が天涯孤独の家なし子であった故だ。数日前、田舎の山村から関西では一際大きい虻坂の町まで父親によって連れられ。いつの間にか父親は姿を消していた。

 犬公方が将軍と成るよりも以前、捨て子など珍しくもなく、彼もその一人だったという話。

 京助くらいの歳の子が虻坂の町で生きようとなると、どうにか店などに頼み込んで無理矢理にでも雇ってもらうか、或いは物好きな旅芸人や僧にこれまた切願して拾われるのが妥当だ。だというのに、彼は自分本位で、しかも狷介けんかいな子供であったから──だから六人いる兄弟の中から選んで捨てられたのだ──命にかかわる段階であっても他人にわざわざ泣きつくのが癪で癪でたまらなく、結局は犯罪行為に手を染めた。

 だが、初めのあたりは幸せそうに働く町人達に対するひがみ根性で働いた窃盗も、繰り返すうちに何の為の悪行か分からなくなっていた。否、生きるためであろうが。

 わざわざ泥棒となって生きる理由がないことに、数日かけて遂に悟ったのであった。

 昼間、濁流に呑み込まれた男の未来は如何がか──趣味の悪い想像に耽りながら、静かな水に映る月を眺める京助の耳に入ってきたのは、鈴の音であった。

 しゃん。しゃん。しゃん。

 音の鳴る方へ首を傾けると彼女が立っていた。

「そこの子供」

 細く、それこそ鈴の爽快な音を思わせる耳障りの良い声──その主が纏った、地面に垂れるほど長い白髪は、月光以上に輝いて。頭に冠して、天に向かうその二本の獣耳じゅうじは、彼女の妖艶を装飾し、彼女が人ではないという事実を体現する。髪の色に対比した無地の黒の振袖から覗く、色素の薄い肌は死人というよりは。

 ──神様だ。稲荷様だ。

 飢餓による幻覚症状かもしれなかったが、京助にはそう見えた。

 稲荷──葛ノ葉は橋の付け根に立ち、京助に訊いた。

「一人なのか」

 彼女の美しさに陶然となりながらも、それを悟られないように努めて京介答える。

「ああ、僕は一人だ」

 聞いて、葛ノ葉は頷くような仕草を小さくとってからひたひたと裸足で橋を渡ってくる。近付いてくる。

 彼女は京介の目の前まで来ると、彼を優しく膝から抱いた。幻想的な姿に見惚れていた京介は、逃げることも暴れることもなくされるがままであった。

「一人死ぬならば、私の子になりなさい」

 京助は何も言わず、葛ノ葉の腕の中で目を瞑った。

「帰ろう」

 一言、葛ノ葉は立ち上がり、柏手を打って髪の色を黒に変わらせ、長い耳を櫛で括った髪の中に畳んで入れてしまった。そして、背中の帯から草履を取り出しては履く。幻想的な稲荷から人間の姿に堕ちた葛ノ葉に、京助は落胆して思わず訊く。

「なぜ、人間に戻った?」

 葛ノ葉は京助の頭を撫でて笑った。

「人間の振りをしているのよ」

「どうして?」京介が再度尋ねると、葛ノ葉は少し逡巡した様子を見せてから。

「人間になりたいからよ」

 無表情に呟いた葛ノ葉は、黒い髪を翻した。


 町から北に少し離れた潤鴨山の麓に葛ノ葉の住処はある。そこを目指して、暗黒に抱擁された町を歩き始めた。

「怖い?」葛ノ葉が京助に訊く。

「怖いはずがない」京助には理由もなしに見栄を張る癖がある。怖くないと宣言しても、それは見栄。その実、彼の肩は震えていた。それを葛ノ葉が見逃す筈もない。彼女はふふと怪しく笑って、京助の眼前で人差し指を立たせた。

 細く白い一本の指先から、ぼっと赤紫色の火が生えた。

 葛ノ葉が手を袖にしまっても、その火は空中で留まる。

 単なる狐火であるが、京助にとっては初見で夢幻的な奇術であったから、目を輝かせては感嘆の声を上げる。

「綺麗だ。それに温かい」

「これで怖くないでしょう?」葛ノ葉は満足そうに微笑みを浮かべ、京助の頭を撫でた。

 葛ノ葉に優しく頭を撫でられたのを機会に安心したのだろうか。前を歩く葛ノ葉の狐火に照らされた背中を見つめながら、堰を切ったように京介はつらつらと語り始めた。

「僕は、捨てられたんだ。おとうがいなくなって、帰れなくなった。故郷はずっと、遠い。それに、それで。僕は、人のを盗んだ、不健康そうな爺さんの、握り飯を盗んだ。怖かった。怖かった──」

 俯きながら、涙ぐみながらの京助の供述を、葛ノ葉は彼の少し前を歩いて、ただ黙って聞いていた。その懺悔は、町を抜け、橋を二つ渡り、住処に到着するまでずっと続いた。

 戸口で葛ノ葉はやっと京助の方に向き直り、京助を抱いては「これからは正しく生きればよい」などと神様らしい言葉をかけ、中に運び込んだ。

 葛ノ葉の住処は辺鄙へんぴな土地に建っている以外は、ごく一般的な分棟型の民家で、彼女一人が暮らすには少し大きいくらいの間取りをしていた。京助が運び込まれた棟には、先ず広めの土間が広がっており、右手には釜と棚が立ち並ぶ。そして左は座敷に続く。もう一棟には寝室があって、二つの棟は短い廊下で結ばれている。

 草鞋を脱がされ、京助は左の座敷に降ろされた。中心には囲炉裏があって、足の裏では畳がざらつく。彼は久々に畳の匂いを思い出した。

 暗闇の中、京助が畳の匂いを懐かしんでいる間に、葛ノ葉が狐火を囲炉裏に移すと、部屋が一瞬にして明るくなる。

「汁物だけでも飲みなさい」

 葛ノ葉はそう言って、棚に並べてあった五徳の中から鉄鍋を出し、木彫りの鯉が刺さった自在鉤じざいかぎに引っ掛けて、自家醸造の味噌を使って、京助に味噌汁を振舞ってくれる。京助は手伝わせてくれと言ったが。

「明日から宜しく」と断られ、更には「私はお前の母だぞ。そのままにしていなさい」と畳に半ば押さえつけられるかたちとなった為、京助はされるがまま潰れた泥のように眠った。




































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