番外編 前原天祢のアルバイト
その日、前原天祢は夜間道路工事の交通誘導員のアルバイトをしていた。昼間は法科大学院に通うためあまり働けない。したがって、夜勤が多くなるのである。赤く光る誘導房に、紺色の分厚い制服。夜とはいえ、初夏の熱気が身体を包み込み、透明な汗が彼女の頬を流れていた。しかし、難舵町もそれほど栄えた街ではなく、深夜には車通りも絶えるため、ぼんやりしてても概ね大丈夫。今日の仕事は、彼女にとって大変ではないバイト先の一つだった。
律くん、どんな風に構えてたっけ。
彼女は誘導棒をゆっくりと動かして、型、あるいは演舞のように、己の動きを確かめていた。戦い素人たる水去、無免ローヤーの身体の動かし方は、前原から見ればかなり不自然かつ奇妙なもので、一種のヘタウマ、達人から見れば一周まわって何かが光る珍奇な戦闘術であった。彼女は無免ローヤーと怪人の戦いを思い出し、水去と一体になって、彼の動きを自らの身体で再現していく。……ふと、某社の株主総会会場で、水去を締め落としてしまった時の記憶が、頭にフッと湧いてきた。顔が真っ赤に火照る。
その時、銀色に光るナイフが彼女に向けて投げられた。
高速で飛来する刃に対し、前原は誘導棒を静かに当てて軌道を逸らす。ナイフは彼女の右斜め後ろの、電信柱に突き刺さった。工事をしていた男衆の一人が、何事かと顔を出した。
ナイフを投げたのは、このクソ暑い中、黒のコートを身に纏った男だった。フードで顔を隠しているが、その右目は赤く染まって、爛爛と怪光を放っている。
「こちら、道路工事をしておりまして、通行止めなんです。ご迷惑をおかけしますが、迂回をお願いいたします。ご理解ご協力感謝します」
前原が頭を下げる。しかしこの迷惑な通行人は引き返そうとしない。
「マエバラアマネだな。手合わせ願いたい」
「困ります。勤務中ですので」
「金なら出す。確か……優しくするなら三万、本気なら五万、だったか?」
謎の男がだらりと垂らした左腕をゆっくりと持ち上げ、電柱の方を指差した。前原が視線を向ければ、ナイフの柄に折りたたんだ一万円札が結ばれていた、
前原がスタスタと歩いて電信柱に近づき、ナイフを引き抜く。それから男の前に戻って来ると、ハサミを人に渡す時のように、刃の部分を優しく手で包み込んで、紙幣ごとナイフを差し出した。
「何のつもりだ?」
「私闘でお金を稼ぐのは止めたの。これは、受け取れないわ」
「そうか……」
差し出されたナイフを、男が受け取った。前原はくるりと背中を向けて、自分の持ち場に戻ろうとする。彼女の背後で、男がナイフを握りしめた。
「……なら、無料で相手してもらおう! マエバラアマネ!」
前原のうなじめがけて、男がナイフを振り下ろす!
しかし一瞬早く反転した前原が、回転の勢いのまま誘導棒を振るって、ナイフを弾き飛ばす。更に一歩踏み込み、開いた相手の懐に潜り込んで、全身をぶつけるように左腕で肘撃ちを叩き込んだ。けれども、男はコートの下に何か着こんでいるのか、ほんの少し後退っただけだった。
「かあああああっ」
至近距離で男の口が開いて、中から銀色の光が飛んだ。前原は後ろ向きに跳び、誘導棒を持っていない左手で着手して転回。一回、二回、三回と、いわゆる片手バック転をすると、彼女が一瞬前にいた地面には、次々と針が突き刺さっていった。
口内仕込針の襲撃が収まると、前原はゆっくりと地面に足を戻して、塵のついた手を払った。
「少しは力を込めてやっても、怪我しなさそうね」
「ああ、そうだ、お前を倒すのは戦士の誉、本気を出せマエバラアマネ!」
男が懐から取り出したナイフを、次々と投げつける。前原は背後の工事現場への影響を避けるため、すたすた歩を進めつつ、誘導棒で全てのナイフを叩き落とした。そうして男の攻撃が止んだ瞬間、真っ直ぐ誘導棒を投げる。赤い閃光が夜を切り裂いて飛ぶ。
「その程度かマエバラアマネ!」
高速で飛来する誘導棒に対し、男が刀を取り出す。その瞬間、彼の身体が吹き飛んだ。道路脇の民家の塀を地面と平行に駆けて来た前原が、自分の投げた誘導棒より先に男の下に到達し、真横から塀を蹴って跳び、殴り飛ばしたのである。
着地した前原が、飛んできた誘導灯を掴んで構える。
「さすがだ! さすがだ! さすがだ! いや素晴らしい! なんという速さ! 強さ!」
吹き飛ばされた男が、血を吐き出しながらよろよろと立ち上がる。
「……まだやるの? これ以上本気でやったら、あなたが死んでしまうんだけど」
「いや、まだまだ戦ってもらうさ。私は勝ちにきたのだから」
不敵な男の笑みを見て、面倒そうに誘導棒を構え直した瞬間、前原の姿勢が崩れた。「んん……」ほんの少しだけ、怜悧だったその表情が歪む。
「毒、ね……」
「最初のナイフに仕込ませてもらった。避けられたが、わざわざ返しに来てくれるとは思わなかった。あの時に刃に触っていただろう……卑怯とは言うまいな」
「ん……構わないわ、よくあることだから」
前原が誘導棒を投げ捨てて、青い制服の上着を脱いだ。細身の上体は、黒いタンクトップに包まれている。「これ、動きにくいし、暑いのよね……」彼女はそう言うと、誘導員用制服の袖をくくって、腰に巻いた。白い雪のような肌が、月光を受けて怪しく火照る。
「まだ動けるのかね? 成体の象でも三日間は昏睡する毒なのだが」
「あなたが十人くらいに見えるわ……」
「そうか、それだけで済むとは驚きだ。だが、満足には戦えまい。さらに私は、これを使う……」
男が謎の丸薬を飲み込んだ。彼の喉が動いた瞬間、その肉体が躍動し、盛り上がる。身体が肥大し、着ていたコートと、その下に仕込んでいた鋼の鎧が、溢れ出す筋肉によってはじけ飛んだ。
「毒と薬、我が一族に伝わる秘伝の力! さあ! 今日、私が、お前を倒し、伝説となるのだ、マエバラアマネ!」
身長五メートルを超える巨人となった男が、肉体に見合った大声で吠える。工事現場では、作業員たちが興味深そうに様子を見ていた。
「近所迷惑だから、黙って」
男の拳が前原を叩き潰そうと振り下ろされる。彼女は大きく跳んで躱す。元居た場所を見れば、男の拳が道路のコンクリートを粉砕し、網目状の亀裂を発生させていた。
「道を、壊すな!」
前原が声を上げて地面を蹴り、高速で男の顔と同じ高さまで跳ねた。空中で支えを失った彼女の身体を、握りつぶさんと巨手が襲う。しかし前原は、空気を蹴って身を捻りそれを躱す、と、同時に、蹴りによって生じた衝撃波が男の眉間に突き刺さった。巨体が、背中から倒れる。くるくると回転して、前原が着地する。
男は、気絶していた。身体が縮んでいく。
触れる事すらせず、ただ空気を蹴った余波のみをもって敵を倒した彼女に、工事現場員たちが歓声を上げた。男の様子を確認していた前原が、「あっ」と声を上げる。見れば、彼女が跳び上がった時に蹴った場所が、巨人の攻撃以上に、深く広く、砕かれていた。
「さすがだねぇ、天祢ちゃん」現場の監督員らしきオッサンが声をかけた。
「すみません! 毒で力加減が出来なくて……」前原が頭を下げる。
「いいんだ! 俺たちの仕事が増えるだけだ! がはは!」
男衆たちは前原を囲んで、いいモノ見れたと言わんばかりに彼女を褒め称えた後、工事に戻った。まあ、よくあることのなのだろう。
前原は制服を再び身に付け、誘導の仕事に戻る。毒の影響でまだふらふらしていたが、バイト代のため、彼女は誘導棒を持って立った。
そこに、一人の少女が現れた。真っ白なワンピースを着た少女が、倒れた男の周りをふらふらと歩いた後、前原の方を見る。
「あ、あなたがやったんですか……?」
「そうだけど、こんな時間に、一人でどうしたの?」
前原がしゃがみ込み、少女の視線に高さを合わせて、優しく尋ねた。
「す、すごい……グラプを倒しちゃうなんて……」
「グラプ?」
「この男です! 悪の秘密結社、『分散集会』の幹部、巨毒のグラプ!」
「そんな名前なんだ、この人」
「あ、あの、強いお姉さん! 私と一緒に来てくれませんか! みんなを……お父さんとお母さんを助けて!」
「助けるって、ど、どうしたの? まずはゆっくり話を聞かせてくれる?」
「は、はい!」
前原が現場監督の方を見た。オッサンは笑顔でサムズアップして、「行ってきな!」と伝えた。
その日、悪の秘密結社「分散集会」のアジトを何者かが襲撃し、組織は一晩で壊滅、攫われていた五百人もの市民が救われ、巨毒のグラプ、雷刃のセンコスト、炎木のニューダス、白泡のツルミー、真神皇帝ンセムイを含む大量の構成員が逮捕され、日本裏社会は震撼することとなる。
そうして、前原女生徒は過労で倒れ、無免ローヤーと怪人痴漢男の戦いが始まるのであった。
次回予告
騒音! おっさん! リラックス! 第十八話「予備試験にてバズーカ」 お楽しみに!
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