第13話 触れちゃいけない部分

前回までの、七兜山無免ローヤー!

 謎の犯罪者にアレを要求された無免ローヤー! しかし結局七兜山の山頂には誰も来ず、待ちぼうけを喰らった。まあ、野生の犯罪者は警察の領分だから、ヒーローの出る幕じゃないよね。無免ローヤーは今日も戦う! 変身! 法に代わって、救済する!



「……待ってくれ……行かないでくれよ……行かないでくれッ!」

 水去は目を覚ました。神崎宅のゲストルーム。白い爽やかな朝日が、カーテンの隙間から部屋に入り込んでいた。水去はというと、額に汗が浮かんで、呼吸は酷く荒い。「夢か、うううっ……」とうめき声を漏らすと、ベッドの上に座り込んだ彼の頬を、涙が滑って落ちた。枕元には黄色い表紙をした「夢淫魔の空手形」が転がっている。ぼんやりとした目を向けた彼は、呪われた教科書を静かに手に取ると、腕を伸ばして机の上においた。動いたせいか、急にゴホゴホと咳き込む。それからベッドを降りて、カーテンを開ける。


 ふと手を見れば、さっき咄嗟に口を押えた右手が、赤く滲んでいた。己が肺から吐いた血をぼんやり眺めつつ、水去は「過労か……最近忙しかったもんな」と呟いた。


 夏の始まり。法科大学院生は体調を崩しやすい時期だ。


 ○


 民法の講義が終わった。講義室にざわめきが広がる。


「おい水去、さっきの瑕疵担保責任の話、分かったか……?」


 駒沢がサングラスを取り出しながら、声をかけた。さすがに講義中は外しているものの、大体いつもグラサンの駒沢である。


「……なんも分からん」


 水去は暗い顔をして答えた。


「結局五六五条で処理するのか……?」駒沢がグラサンの奥で瞬きしている。


「だから分かんねぇって言ってんだろ」水去の返答はどこまでも情けない。


「分かんねぇでどうすんだよ。もうすぐ試験だぞ」駒沢が水去の肩を揺さぶる。


「うるさい、俺は眠いんだ……今この欲求が満たせればそれでいい」水去脱力中。


「このヤロー、起きろ! チクショー、俺もちゃんと努力を続けてれば、こんなことにはならなかったのになぁ。ああ、ほら、寝るんじゃねーよ」


「ぬぬぬ」


 そんな風に頭をガクガク揺らされつつ水去が呻いていると、突然、駒沢は何か思いついたかのごとくニヤリと笑って、手を離した。どこかから取り出した櫛で前髪を撫でつけ始めて「じゃ、天祢さんに聞いてこよーっ!」と、軽快に動き出した。「あっ、待てっ、このナンパヤロー」「ナンパじゃないもーん、俺、民法の話するだけだもんねー」


 二人がウゴウゴしつつ、少し遠くの席にいる前原の方を見た。彼女は友人の佐藤女生徒と話をしていた。しかし何か、様子がおかしいような……なんか、ふらふらしてる……?


 ゴンッ! 前原の額が机に落ちて衝突した。


「ちょ、ちょっと、天祢! 大丈夫⁉」


 佐藤女生徒が声を上げる。


 その様子を見ていた水去と駒沢も、慌てて駆け寄った。見れば、前原の頬が真っ赤になっている。息も荒い。


「ま、前原さん、大丈夫……?」と水去が尋ねる。前原はなんとか身体を起こして、「水去君、ありがとう、心配してくれて」と微笑んだ。しかし明らかに様子がおかしい。「風邪か?」と駒沢が呟くと、前原は「ちょっと、疲れてるのかも」と言った。


 佐藤女生徒が、前原と男二人の間に割り込んで壁を作る。


「天祢、やっぱりバイトしすぎ……休まなきゃ……!」


「ううん、でも……」


「過労なのよ! 休まなきゃ駄目!」


 佐藤女生徒がそこまで言ったところで、前原はくらっと倒れて、水去が慌てて彼女を支えた。「貴方は、頑張りすぎなの……」と佐藤女生徒が前原女生徒の額に手を当てた。「やっぱり、すごい熱が出てる……」と呟く。


「坂本龍一も、ラストエンペラーのサントラ作った後、過労で入院したらしいよなぁ」と水去が訳の分からんことを呟いた。それに対し、「お前、なんかズレてんな……」とグラサンの駒沢がツッコミを入れる「えっ、どこがズレてる?」前原を抱えたまま、水去が無駄な会話を続けようとする。


 しかし佐藤女生徒がそれを遮った。


「水去君、悪いけど、天祢を山の下の病院まで連れて行ってくれないかしら……?」


「えっ、俺が……? いいですけど……でも、俺でいいのか……?」


 水去の頓珍漢な答えに、佐藤女生徒が静かな苛立ちを見せる。


「いいに決まってるでしょ……! 一体何を考えて天祢と関わってるの……?」


「ご、ごめんなさい。そうか、これもヒーローの責務なのかな」


「俺も行くぞい! こんな阿呆に天祢さんを任しておけないからな!」


 駒沢が右手をあげて志願した。佐藤女生徒は一瞬だけ駒沢のグラサンを訝し気に眺めたが、何も言わずに、手首の腕時計に目を向けた。


「十分後に、正門前から難舵病院を通るバスが出るみたいね」


「うーむ、分かりました。前原さん、大丈夫? 立てるかな? よし……」


 水去が前原の身体を支えて、ゆっくりと立ち上がらせた。駒沢も介助に加わろうとするが、「貴方はこっちでしょ」と佐藤女生徒に前原の荷物を押し付けられた。


「お、重いっ……どうなってんだこれぇ、ダンベルでも入ってんのか!」


 鞄を抱えた駒沢が、悲鳴を上げる。


「天祢、体力作りもかねて、教科書類を全部背負って、大学まで走って来てるから」


「こんなモン背負って山登ってるのかっ、そ、そりゃ死ぬって! 言っとくけどな、俺は昔、野球部だったんだ。や、野球部でもこれは異常だぞ!」


「いいから、早く行きなさいよ……!」


「ああんっ、みんな俺に優しくないぃ!」


 ゆっくりと寄り添って歩く水去と前原。その後ろをヒーヒー言いながら追いかける駒沢。三人は重い足取りで、正門の方へと歩いて行った。


 駒沢青年、可哀想!


 ○


 難舵行きのバスは大変混みあっていて、人いきれが酷かった。水去たちも押し込まれるようにして、立って居るしかなかった。前原の熱が酷くて、じっとりとした体温が水去に伝わってくる。前原女生徒は弱々しく、水去なんかに寄りかかっていたのだ。少し離れた場所にて、巨大な荷物を抱えて周囲に迷惑がられている駒沢は、きいいいと唇を噛み、グラサンの奥で嫉妬の血涙を流した。


 坂を下るバスがぐらぐら揺れるたび、水去はぎゅっと彼女を支えた。


「迷惑かけてごめんね、水去君……」


「いや、こっちこそ、いろいろ巻き込んじゃって、何の力にもなれなくて、申し訳ないんだよ」


「ううん、私が好きでやってることだもん、でも、それで倒れちゃったら、バカみたいだよね……」


「違うんだ、俺は、俺はね、無免ローヤーとして、怪人だった君を倒した」


「うん……そうだった」前原が小さく頷く。


「だけど、それで君を救済できたわけじゃなかったんだ。前原さんが、家族のために必死で働かなければならない現実は、何も変わってない。むしろ、怪人という手段を失ったせいで、もっと酷くなったといえるかもしれない」


「そんなことないよ……私は……」


「無免ローヤーなんて名乗ってても、何もできない、いつもいつも、まるで無力なんだよ、俺じゃ、誰も助けられないんだ」


 水去が睫毛を伏せて、前原を見つめる。


 その時、水去の胸元で、彼女は酷く赤面した。元々熱っぽく染まっていた頬が、更に赤くなった。


「律君……何を、しているの……?」前原が小さく尋ねる。


「えっ……何も、してないけど」水去がとぼけた顔をした。


「こんな時に、ふざけないでっ!」


 前原のビンタが、水去の頬を撃った。「がっ!」衝撃で頭が百八十度回転しかけて、首がねじ切れそうになった。


 それと同時に、前原女生徒は、高熱で気を失った。脱力した彼女の身体を全力で支えつつ、あらぬ方向を向いた水去の頭部は混乱している。「あっ……あっ……ああっ……」目から涙が流れた。


「水去っ!」と駒沢が叫んだ。「怪人だ!」


「えっ……ええっ……」水去はマトモな言葉が出てこない。


「さっき一瞬、闇の手が天祢さんの臀部を痴漢した! 間違いない! 俺はずっとこの目で見ていたからな!」駒沢が自信満々に声を張り上げる。バス中から白い視線が集まる。


 その時、闇で形作られた右手……そう、手首の先が無い、生首ならぬ生右手が水去の目の前でふわふわ浮遊して、彼の鼻っ面をぶん殴った。「ぎゃん!」泣きっ面に殴打である。「このヤロー! なんだっ、こらっ!」駒沢は闇の左手と戦っているようだった。グラサンを奪い取られ、弄ばれている。闇の両手は混みあったバス車内を縦横無尽に飛び回り、乗客に大混乱をもたらした。「きゃあっ!」七兜大生らしき女性の悲鳴が上がった。よく見れば、闇の手は次々と乗客たちを痴漢していた。服の中に入り込み、胸部を揉み、臀部を撫で、鼠蹊部に触れている!


「マズイな、前原さんもいるこの状況じゃ、戦えないっ……!」


 水去が前原の身体を闇の手からかばいつつ、駒沢に言う。


「お前が頼りだ、駒沢! 頼む!」


「おっしゃ、水去、任せろい!」


 駒沢は前原の鞄を持ち上げると、ビュンビュン飛び回る闇の左手の上に、タイミングを見計らい、ドンッと落とした。ゴキブリみたいに潰される左手。それから水去が変身六法を取り出し、前原女生徒に襲いかかっていた右手を、ハエ叩きのごとく殴りつけた。六法で叩かれ、きりきり旋回しつつ飛ぶ右手を、駒沢が両手で捉える。「よし、いいぞ駒沢、捕まえてろ!」水去が声を上げる。


「次は~北住台~、次は~北住台~」


 バスの車内アナウンスが響く。目的地の病院はまだまだ先だ。しかし水去は、「降ります! 降ります!」と声を上げ、前原を抱き抱えて、バスを出ていく。「お、おい、ここで降りるのか? これドウスンダ⁉」と、暴れる闇の手を抱え込んだ駒沢が言う。「持ったまま出てこい! 引きずり出せ!」お姫様の抱き方で、出口の段差にふらつきつつ、水去はバスを降りる。二、三歩進んで振り返ると、「おりゃああああ!」ラグビー選手みたいな体勢で、闇の手を抱えた駒沢がバスから飛び出して来た。


 北住台のバス停で降りたのは、水去と前原、駒沢。そして、無理矢理引っ張られるようにして出てきた人間が一人。


 じっと、水去たちを見ている。青年だ。


 そうして青年が、面倒くさそうに腕を振るうと、駒沢が抑え込んでいた闇の手が消える。急に負荷が無くなって、力んでいた駒沢が体勢を崩した。


「おっとっとっと……って、ああっ、お前は、法科大学院の知間!」駒沢が声を張り上げる。


 プシューと音を立てて、バスが発車した。残されたのは、四人の法科大学院生。


「あーあ、面倒なことになったなー」

 

 知間と呼ばれた青年はヘラヘラと答えた。正体を知られても、余裕の表情を崩さない。


「お前ぇ! ふざけんなよ! 天祢さんに手を出すとは、ふてえ野郎だ! 痴れ者! 痴れ者! グラサン返せ!」


 駒沢がぎゃあぎゃあ吠えた。

 

 そんな様子をじっと見ていた水去が、「駒沢、彼女を頼む」と、静かに言った。「お、おおっ」と、駒沢が驚くのを無視して、力無い前原女生徒を預ける。「お、うわ、ほやぁぁぁ」突然前原を任された駒沢は、ガラス人形でも受け取るかのように慎重に触れつつ、ヘンテコな声を漏らした。


 知間青年の前に出た水去が、六法を構える。


「おっ、まさか君が、噂の無免ローヤーってヤツかな?」


「変身!」


 六法をバックルにセットし、光が溢れる。輝きは条文へと変化し、水去青年の身体に貼り付いて、法の鎧を形作った。


「法に代わって、救済する!」


 水去の決め台詞と同時に、七兜山の頂で、火薬が爆発する!


 知間青年は余裕そうにニヤリと笑うと、全身から闇を噴出させ、怪人痴漢男へと変貌した。「かかってきなよォ」と、指を卑猥にクイクイさせて、ヒーローを挑発する。


 無免ローヤーが拳を強く握りしめた。


「痴漢は、性犯罪だ! 許されるものじゃない! ここで、俺がお前を止める!」


 六法をめくり、ある条文に触れる。


【刑法一七六条 強制わいせつ!

 十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六月以上十年以下の拘禁刑に処する。十三歳未満の者に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする!】


 六法から光が溢れて、法の槍へと変わった。何もせず無防備にそれを見ている怪人痴漢男。無免ローヤーは、静かに槍を構える。


 七兜山から吹き降りた風が、両者の間を突き抜けていく。


「はああああああ!」


 無免ローヤーが駆け出した。薙ぎ払うように一閃。しかし怪人痴漢男は、身軽に攻撃を飛び越え、敵の背後に着地する。無免ローヤーは反転しつつ、さらに槍を振るう。「おォ、なかなかァ」怪人痴漢男は感心しつつ、後方宙返りでそれを躱す。追撃に突き出される刃先も、優しく手で触れていなす。


 歩を進め、槍を扱いて攻撃を仕掛ける無免ローヤー。しかし怪人痴漢男は、ひらりひらりと余裕をもって刃先を躱し、あるいは卑猥に撫でたりして、うまく攻撃を避け続ける。


「はあっ!」


 無免ローヤーが振り下ろした法の槍が、虚しく空を切った。下がった穂先を怪人痴漢男が踏みつけた。敵の武器を抑え込んで、「なーんだ、こんなもんかァ」と、怪人痴漢男が落胆したように呟いた。「弱すぎてつまんないなァ」と肩をすくめた。


「ふざけるな!」


 敵の足をなんとか払いのけた無免ローヤーが、槍を構え、怪人痴漢男に詰め寄る。


「俺は負けない! 俺が負けたら、お前は罪を重ねることになる! 負けられないんだ!はああああああああ!」


 その瞬間、無免ローヤーの顎先に、突如闇の右手が出現した。アッパーカットが、ヒーローを襲う。


「ぎゃあっ!」


 無免ローヤーの身体が、一瞬跳ね上げられて、地面に墜ちた。投げ出された法の槍が形を失い、光の粒子となって消える。倒れた無免ローヤーに向かって、怪人痴漢男がゆっくりと歩いてきた。頭上に浮かべた闇の左手の隣に、闇の右手がふよふよと飛んで戻った。


「弱いよォ、弱いねェ、弱すぎるよォ、無免ローヤー」


「くっ、ううっ……」


 無免ローヤーは立ち上がろうとするが、脳が揺れて力が入らない。しかしそれでも、両手を踏ん張り、骨を支えにして、上体を無理矢理起こそうとする。そうやって無様に這いつくばる無免ローヤーを、怪人痴漢男が見下ろした。


「ふーん。まだ、頑張っちゃうんだァ」


「負け、られ、ないんだ……! 俺は……!」


 無免ローヤーの言葉に、怪人痴漢男が大声で笑った。嘲りに満ちた歓呼の声だった。


「あははははははァ! 健気で泣けちゃうなァ。弱いのにィ、弱いのにィ、こんなにも弱すぎるのにィ! 僕のお楽しみを邪魔しちゃうんだねェ!」


 怪人痴漢男が無免ローヤーの身体を蹴り飛ばした。ヒーローは直線上を吹き飛ばされ、ガードレールにぶち当たり、やっと重力が仕事をした。「ぐはっ……」


「水去! 大丈夫かっ!」駒沢青年が少し離れた場所から声をかけた。彼が抱えている前原女生徒は、高熱で気を失ったまま動かない。「こ、こいつ、痴漢のクセに、なんでこんなに強いんだ! 痴漢のクセによ! どうなってんだ!」無免ローヤーは小さく、「駒、沢……」と息を漏らす。


「ふーん、ふーふ、ふーんゥ♪」


 怪人痴漢男が鼻歌を歌いながら、駒沢、いや、彼が抱える前原女生徒に向かって、ゆっくりと近づいてくる。


 しかしヒーローは、どれほど苛烈な攻撃を受けても、怪人の犯罪に待ったをかけるのだ。


「と……、止まれ……! 止まれっ……!」


「……何かなァ」


 振り返る怪人痴漢男。その先で、無免ローヤーが、力を振り絞り、立ち上がっていた。弱々しくも、拳を構える。


「止め、る、俺が、止め、る……!」


「まだやるのォ? さすがにィ、面倒になってきたなァ。うーん……」


「犯罪は……させない……」


 追いすがろうとする無免ローヤーに対し、小首をかしげる怪人痴漢男。しかし、何かを閃いたかのように、闇の右手で闇の左手を打った。


「そっかァ、よしよし、じゃあァ、僕の本気を見せてあげようねェ」


「な……に……」


 怪人痴漢男が、闇の両手を広げる。「開廷、法廷よォ顕現せよッ」


 怪人の手がクラップすると同時に、虚空から闇の法廷が現れ、無免ローヤーを呑み込む。


……ねェ無免ローヤー君。警察でも何でもない君がァ、どうやって僕を止めようというのかなァ。君はァ、一体何の権限があってェ、ヒーローの力を振るってるのかなァ……


 そんな声が、闇に響いた。



次回予告

侵食! 十字架! ポイ捨て! 第十四話「弾劾されし無免の暴力」 お楽しみに!

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