第3話 のろしの煙は始まりの知らせ 1
「前方に島影を確認!位置と形状からリンカ・グラント島と思われる!」
「よ~し、左舷に十度廻す!帆の調整は任せるぞ」
「風強いぞ!一番マストは帆を畳め!!」
北西航路突入から五日、軍艦テスラ号は中も外も今まで以上に忙しくなっていた。
普段は現場指揮を甲板長に任せている艦長も、今日は甲板で直接操舵をしつつ指示を飛ばしていて、その太い怒気を含んだような声が西大陸の冷たい北風にも搔き消されずに甲板全体に響いていた。
ここまで艦内が騒がしい理由は、やはりこの北西航路が世界でも有数の難所海域だからだろう。
なぜ北西航路が難所たるのか。それはここが流氷や氷山だけでなく、大小様々な島がひしめく北部ビクトリーン諸島、通称「気まぐれ諸島」だからだ。
ただでさえ人工物など皆無な海の上、島なのか氷山なのか、それとも遠洋航海の疲労が生み出す幻影か、気まぐれ諸島の島々はその形状、位置が絶えず変化するというのだという。その魔法のような現象に過去二百年間多数の船が迷わされ、氷山の斧の餌食となるといったことを繰り返してきた。
気まぐれ諸島の通称の通り、巨大な氷山と流氷により、潮流によってある程度は予測できても、ただでさえ緑が少ない島々にそれらが取りつくと形状での判別は非常に困難だ。
もし取りついた氷山と流氷に進行方向、そして後方を囲まれたとき、向こう半年は停滞を余儀なくされるだろう。
「わあ、伍長さん。今度の島はリンカ・グラントだって!」
そんな状況のくせにコイツはまだこの艦が遊覧船ではないことが分からんらしい。どれだけ言い聞かせていても五分と部屋で大人しくすることができず、上陸準備中だった俺は銃の整備もろくにできないまま、エルムゥの保護者兼、命綱代わりをさせられていた。
「リンカ・グラント?ああ、確か冒険家の名前だったか?……昨日のタルコフスキー島の時にも言ってたな」
大抵の島の名前は神話の神や登場人物、その島を最初に確認した者の名前だとか、もしくは発見された年に在位していた王などの人名が殆どだ。エルムゥが気まぐれ諸島の島々一つ一つを発見するたび、俺はその島の由来の人名の解説を聞かされ続けていた。
「ですです。四百二十九年に初めてスノウマンさんとコンタクトを取った、そして当時の北西航路の最奥到達記録を七百キロも更新した偉大な冒険家です。グラントさんの講演会でボクは北西航路に興味を持ったんですよ」
なんと、ではその偉大な冒険家様のおかげで俺はこの極北の海で貴族のガキの子守という極めて特異な体験をさせられているという事か。
二キロ前方にまで迫ったリンカ島の背景に空想したリンカ・グラントに文句の一つでも垂れたくなった。
「グラントさんがスノウマンさんと出会ったのがこの辺りだったからリンカ・グラント島らしいです。だからそろそろ……あれ?、伍長さん。あそこ!」
きょろきょろと木陰に隠れた虫を狙う猛禽類のようなエルムゥの眼が、また新たな発見をしたらしい。いつもの喜ぶような興奮とは違い、少しうろたえるように目を見開くエルムゥに疑問を感じながらも、「なんだ、今度の島の名前は神さまか、それともどこぞの皇帝閣下か?」とエルムゥに押し付けられるよりも早く、自前の双眼鏡を覗いた。
「なんだあれ?煙か?」
リンカ島の緑一つない雪山の向こう側、丁度大陸の沿岸部分から、黒い煙が二つ立ちのぼっているのが確認できた。
「ああ、多分スノウマンの集落だろう。スノウマンは生で肉を食うからあまり火は使わないらしいが、漁で捕ったニシンなんかを燻製にして保存することもあると聞いたぞ」
「でも……おかしいです」
望遠鏡を目から離し、伸びる煙を眺めるエルムゥの唇は、何か狼狽えるように震えていた。
「今は秋です。燻製にする魚の漁期はスノウマンなら夏ですよ……それに、燻製の煙は白ですし、こんな所から煙が視える程の火なら燻製になんて」
今までのただ元気が取り柄としか思わなかったエルムゥの意外な才覚に感心する間も無く、俺はあののろしが意味する一ビットの情報を処理した。
「!……艦長!!。十時の方向に火災!スノウマンの集落かもしれん! 」
艦長もリンカ島の後方に伸びる煙を確認したらしい。一瞬甲板を見渡したと思うと「左に二十!」と艦長が叫び、船体が傾いた。俺はよろめいたエルムゥを支えつつ、これから起きるかもしれない変事を思い浮かべ、肩に掛けていた銃に手を伸ばした。
*
リンカ島の上に乗った小さな雪山の山頂に隠れた煙の正体が分かったのはそれから三十分後のことだった。
「複数の住居らしき構造物を確認!火元の一つもその構造物からの模様。先住民らしき人影も複数……」
観測手から逐一の報告を受けつつ、舵を離せない艦長に変わり甲板長が招集した消火作業、原住民の救助、治療が可能な本来は地上探索用だった人員が船首楼に集められていた。
地上での作業や戦闘指揮は俺に一任することを上層部や艦長には言われていたが、元々不仲である陸軍の人間に命令されるということに不満を感じてはいないか、目の前の水兵達の眼を窺ってしまう。
甲板長からの点呼が終わり、視線は否が応でも俺に全て向けられる。整列する男達の顔を一通り確認し、腹に力を溜めた。
「地上での指揮は本官、ガサラ・アーネルト伍長が執る!貴官らは先住民の救助を最優先にすると同時に消火作業に従事せよ!」
「了解!!」二十三名の水兵達の短いながらも息の合った敬礼に、肌がピリピリと痺れるような感覚を覚えた。その刺激が陸軍の俺が指揮することへの一抹の不安が杞憂であったことを確信させた。
それで信じてしまうほど自分が軍隊に染まっているのかと思うと少々複雑な気分だが。
「か、かんちょー!!火事の原因が分かりましたーー!!え、えーと、あれは……」
地上上陸隊の真上から、マスト上部観測手の報告が上がった。どうやら相当に予想外の光景を目にしているらしい。視界に捉えた情報を処理できないのか、その声にはかなりの狼狽が感じられた。
「落ち着け!ライカン一等水兵。見たままでいい、そのままを言え!」
「!?……は、はい」
艦長の一喝するような、それでいて簡潔な一言で観測手は落ち着きを取り戻した。
流石はドワーフでありながら少佐まで上り詰め、軍艦の艦長をしていることはある。
「……襲撃です。原住民と思われる人間が、何者からの襲撃を受けていますそれも……」
「それも、何者かは、どうみても人間ではありません!!、燃えています!全身が焼けた四足の化け物が原住民を襲っています!!その数四、いや五!」
「何だと!?」
観測手の言葉を完全に信用するには、肉眼でその修羅場を目撃する約五分後まで待たなければならなかった。
人間大の四足獣が毛皮の服を脱ぎ捨ててまで逃げ惑う原住民を、家畜を襲う猛獣の如く追い廻していた。獣の詳細な特徴は、炭化し赤く輝く体躯に隠され殆ど分からない。だがその獲物を狙い駆け回る姿は、何となく「人間の様だ」と思わせた。
……いや、今やるべきはあの火達磨の正体を探ることではではない。作戦行動に
支障をきたす「敵」をどうするべきなのか、
「地上隊!長銃を携帯しているものは左舷側に並んで銃を持て!」
俺が命令を飛ばすと同時に、地上隊の中から十人が左舷の手すりの傍に整列し
「装填開始!、雷管入れ!鉄火薬詰めろ!」の号令を表情を変えることなく、揺れる艦の上で黙々と銃口へ弾を詰めていく。その光景には頼もしさもさることながら、えも言われぬ美しさすら感じられる。
十秒程で全員の装填が完了したことを確認し、俺は右腕を上げた。
「ここから最も近い化物を狙う!構え!」の言葉で一斉に向けられた銃口の視線は、
振り下ろされた腕と共に火と煙の光線となって三十メートル先の燃える脚を粉砕した。
「一発命中!されど致命傷にはならず!」
「次弾装填!」
十発の一斉発射で命中はたった一発。なんとも歯がゆい結果に思えるが、当たっただけマシというものだ。
探索隊に支給されている雷管式長銃の有効射程は約二百メートル。だが、それはあくまで動かない的相手の話だ、犬の様に走り回る獣相手となると熟練の兵士でも精々十メートルが限界。それもどこに当たるかは分からない。
「構え……撃て!」
その後三発の銃弾が動きが鈍った化物に命中するも、まるでこちらには気づかないといった様にその燃え続ける黒い体躯を駆動させ、目の前の獲物に向かって前進を続けていた。
「ええい、キリがない」
四度目の命中弾を確認したが、ヤツの動きが止まらないのを見ると、先ほど感じた「人間のようだ」というのはあながち間違っていないのかもしれない。
炭化した肌で分かりにくいが、四足歩行でありながら大地を蹴るようには見えない後ろ足。欠けているのも多いが、長い多関節の前足の五本指。
ヤツらの正体は……
「伍長さん伍長さん!あれ、
そう、魂の無い瘴気に侵された人間のなれ果て。死肉を貪る古今東西の国で「死」の概念を司る正に死神の比喩が相応しい存在の獣……あぁ!?
「エルムゥ!お前、何でここにいるんだ。危ないから部屋に引っ込んでろと……」
「国立図書館の本で見た事あります。確か中央大陸南東部で湿地火災を起こしてる
「聞けよ!」
コイツが今更屋根と壁に囲まれたままジッとしていられることの方が難しいというのはよく分かっていたつもりだったが、まだ見通しが甘かったらしい。いつの間にか発砲音がする俺のすぐ傍の定位置でウオッチングとは、肝が据わっているというかただ鈍いだけなのか。
「だが……そうか、屍食鬼とは厄介だな、頭か心臓でも撃ち抜かんと活動停止させられんし……やるしかないか?」
屍食鬼はその土地にたまる瘴気が人間の死体を汚染し、中途半端な蘇生をしてしまった状態と言われている。瘴気に侵された物体は物理法則、科学とは別の駆動原理を持つ。それ故ヤツらの行動の予測は困難だ。痛覚も鈍いのか、急所を傷つけられない限り動きを止めない、古代では意図的に屍食鬼を生み出し生物兵器として活用したこともあったと聞いている。
だが、そんな恐ろしい不死身とも思える存在でも弱点がないわけではない。
「貴官らはそのまま各自で射撃を続けていてくれ」
「伍長どの?伍長どのはどうなさるので」
「なあに、屍食鬼の対処は陸軍なら全員教えられている……」
俺は艦長に「もう少し岸に寄せてくれ」と声高に伝えながら腰嚢から銃剣を取り出し、刀身の付け根に着いたソケットを銃口に刺しこんだ。
「それはいいがよ伍長。アンタまさか……おい!せめて地上隊を連れていけ!」
「近接戦闘訓練と実戦でああいう手合いの扱い方を教えられているのは陸軍出の小官だけだ。それに……」
「どうせ独り身だ」と誰にも聞こえないように呟き、手すりに片足を乗せた。
「あ、まってまって伍長さん!ボクも」
「馬鹿言うな、お前は部屋に……いや、せめてそこで見物ぐらいにしとけ。ただし銃声で耳やられないように耳は塞いで、口も開けとけよ」
「そうじゃなくて、ボク伍長さんを手伝いたくて。あの屍食鬼……ああ!」
どこか困ったような顔で何かを伝えようとするエルムゥを横目に俺は船を飛び降りる。
想定外の事変を孕みつつ、北西航路捜索隊は出航から六十八日目にして初めて西大陸の岩と氷の大地を踏んだ。
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