第10話 エリカ・ヒースペント
穏やかな柔風が頬を撫でる。
体の下は生い茂る草たちの優しい感触。
意識と現実を隔てる瞼の外から感じるのは大切な人の気配。
私は目を開ける。
「うふふ、お隣にお邪魔してもいいかしら」
ルビー、ガーネット、珊瑚。どんな赤色の宝石よりも綺麗で美しい色の髪。上質なシルクの肌触りよりも心地が良い声。これだけで夢日記確定案件だ。
夢だと理解していても早く現実に戻る気にはなれなかった。覚めてしまえば過酷な環境に戻ってしまう。それならばもう少しこの幸せを味わっていたいと思うのは自然なことだろう。
「そんなに顔を腫らして。怖い夢でも見てしまいましたか」
彼女のたおやかな手が目尻に触れる。向けられる穏やかな顔が私の心を土足で踏み荒らす。こうやって、ただゆっくりとこの人と暮らしたいとどれだけ望んだだろうか。
それなのに、彼女の隣に居られることが恐ろしくてたまらない。虚像に飲みこれるとここから帰れなくなってしまう。そんな気がするのだ。
「ヒナさん。私もう頑張れないよ……」
「あら、随分と弱気ですね。りっちゃんが疲れているときはこうしてと」
ヒナさんは私の肩に両腕を回す。ぎゅっと力を掛けながら、胸元に顔を寄せてくる。ほのかな甘さが鼻腔に広がる。私の心音をじっくりと聴くように目を瞑っているようだ。
「──ああ……」
意識しなくとも勝手に心拍数は上がっていく。私の火照る身体は彼女の冷たい身体をより身近に感じさせる。
「ドクドクしているよ。飛び出してきそうなくらい」
彼女は顔を上げると私の左胸に手をそっと置く。上目遣いだけど下心を全く感じさせない、幼子のようにあどけない視線を向ける。
「揶揄うのはいい加減にしてください」
私はその視線に耐えきれずに急いで後ずさる。左胸の鼓動は尚も速いままで。
「おやおや。逃げられてしまいましたね」
ヒナさんは口元を手で隠しながら、優雅な細い声を出す。大して驚いていない癖に同調する貴婦人のような雰囲気がある。正確には貴婦人なんて優しいものじゃない。厳しいこととも思わずに叱咤激励を浴びせる女神様だ。
「はは、ははは」
「うふふっ」
彼女に振り回される自分が懐かしくて、つい笑ってしまった。そんな自分に釣られるようにヒナさんも笑う。よく出来た夢だ。もうずっとこのままがいい。
♦︎
私はエリカ・ヒースペント。
幼い頃に魔女の生贄として風車の魔女の住処に連れてこられた。
ディルクナードが獣人との戦いの終結の際に結んだ古いきまりにより、私は魔女と共同生活を送ることになった。
私は小さな村の生まれで、両親は生まれてすぐにこの世を去った。その後は村の長になりゆきで引き取られたらしい。長は私のことを大事に育ててくれたが、運悪くこの村に次の生贄候補の話が舞い込んできた。
そうなると身寄りのない私へ真っ先に話が回ってくる。結果的に私は魔女の元へ連れていかれた。
私としてはどうでもよかった。村でも魔女の住処でも大して変わらないと思った。私一人がどこかへ行くだけで村のみんなが今まで通りに暮らせるならば、それは良いことだ。
私は喜んで引き受けた。村に居ても孤独感は日に日に増すばかりで、足りない穴のようなものが大きくなるばかりだったからだ。
期待も絶望もしない。無の状態で風車の丘まで向かった。見たこともないようなピカピカの服を着て、豪華な馬車に乗って丁重に扱われた。王都から派遣されたらしい大人たちはみんな私に親切だった。
そんな彼らには丘の入り口まで連れていかれた。その後、そそくさと彼らは私に別れを告げて足早に帰っていく。今なら、丘から発生する強大な魔力を恐れていたことがわかる。
風車の丘はとても綺麗な場所だった。辺り一面は発色の良い緑に囲まれ、小さな赤い花がそこら中に咲いている。丘の上には大きな大きな風車があって、そこから気持ちの良い風が吹いてくる。私がその風を全身に感じていると魔女は姿を現した。
「風、気持ち良いでしょう。あの風もこの風も、そこの緑も風車も。ここの全てが貴方のものなのですよ」
魔女はふっと今にも風に吹かれてどこかへ行ってしまいそうな感じがした。
病弱そうな白い肌に細い四肢。
幼子のようなあどけなさと年配の方のような聡明さ。
男の人のようにも女の人のようにも見える。
その年齢不詳で性別不詳な外見に私は目を奪われた。
「もちろん。この私もです」
彼女はそう笑うと膝を折って私と目線を合わせる。そして、私の髪に一輪の赤い花を挿した。恐る恐る手を伸した先は私の頬。その時の笑顔はあまりに優しく、儚げであった。
「おやおや。まだ早かったようですね」
私は魔女の魔性の前に、ただただ体を固めることしか出来なかった。
「私はヒナゲシと言います。人間からは風車の魔女と呼ばれていますが、そんな大層な者ではないです。今日からは貴方の……」
彼女は私から目線を外して、少し考えるそぶりをする。その数秒の間ではあるが、私は確かに寂しさを感じる。もっと自分を見ていてほしい。そう思った。
「お母さん。魔女でも贄でもありま……。いえ、それは貴方のお母様に失礼ですね」
「いません」
「……」
「生まれてすぐにいなくなりました」
私がそう打ち明けると彼女はハッと大きく目と口を開いた。とても間抜けな顔だ。それから私を抱きしめた。ほのかな甘い香りが私を包む。
「いえ、それでも貴方は確かな愛の元に生まれてきたはずです。そうに違いありません」
首の後ろから後頭部に移動する手は恐ろしいほどに優しい。
「なので私のことは誰でもない。ただのヒナさんとでも呼んでください」
「……ひ、なさん」
「はい。ヒナさんですよ。貴方だけのヒナさんです」
「──何ですかそれ」
口から次いで出た言葉であった。不思議な心地のせいで心の声が漏れたのだ。
「ふふふ、言ったでしょ。貴方のものだって。これはプレゼントです」
「はじめてです。プレゼントなんて」
「それでは、これまでの分。沢山あげなくてはなりませんね」
私は風車の魔女の生贄として、これ以上ないほどの深い愛情を受けて育った。
♦︎
二人で丘に転がって空を見上げる。私は左手の大切な感触を確かめる。
「どんな夢だったのですか?」
「恐ろしい夢です。何もない場所に投げ出されて、何者かわからない者に狙われて」
「楽しそうですね。私眠れないので夢、見たことないのですよ」
「……楽しくなんかないですよ。だって──」
言葉が詰まった。ヒナさんと離れているからだなんて言えなかった。口にしてしまうと会えない現実を認めてしまうようだからだ。
「りっちゃんの小さな頃を思い出します。悪夢にうなされている貴方をこうやって」
ヒナさんは体を横向きにして、私の頭に手を伸ばす。虚像の優しさが胸を抉るようだ。幻だと分かっていても心を跳ねさせてしまう自分が情けない。
「もう子供じゃないんですよ。それに悪夢なのはいつだって現実の方です。いつも私から何もかもを奪って!」
「そうですね。りっちゃんにはこの世は少し厳しい世界かもしれません。それでも私だけは貴方のそばにいますから」
「何にも知らないで! それなら何で私を置いてヒナさんは眠ってしまったのですか!」
夢の世界の彼女に言っても伝わらないことである。目の前の虚は驚いた顔をする。こんなことをぶつけても全然スッキリとしない。
「ごめんなさい。何でもありません。忘れてください」
私は彼女の手を離して立ち上がる。彼女は寝たまま、視線だけをこちらへ向ける。
「どうやら私は眠れたみたいですね。良い夢は見れていると思いますか」
「さぁね! 私を置いて寝こけるのですから、よほど良い夢なのでしょうね!」
「うふふ、りっちゃんの怒った顔は久しく見ていませんでしたから。嬉しさがあります」
彼女は穏やかな顔をずっとこちらへ向けてる。目の前の彼女は私の願望を写し出しているだけかもしれない。だが、一層に眼を覚ましたヒナさんにどんな夢だったかを聞きたい気持ちは高まった。
「今決意が固まりました。さっさと陥没穴から出てヒナさんのことを叩き起こしにいきます!」
「はい。待っていますよ」
彼女は体勢を起こして座り込む。私は彼女に近づいて目線を合わせる。
「いってらっしゃい」
ヒナさんは私のおでこに口を落とす。
「──はい! いってきます」
私の視界は暗転する。
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