神の法・人の法⑪
「博士、殴ってしまってごめんなさい。」
俺は先生の家にいる。
アントニオ神父の治癒の奇跡の甲斐もあって、怪我はすぐ治ったし後遺症もなかった。
「いやいや、まあ黙っていたぼくにも落ち度はあるからな。あまり気にせんでくれ。一般的には傷害の罪になることが分かっていればそれでよいのだ。少なくともぼくは怒る気にならんよ。」
「ふふふ。子どもでもないのに、師弟とは似るものなんですね。」
エリーゼさんが紅茶を淹れてくれた。イチゴの香りの紅茶だ。あまり得意な紅茶ではなかったのだが、懐かしい味がする。
「似るとはどういうことですか?」
「あら、先生、言っちゃっていいのかしら?」
「ああ、いや、僕の口から言うべきだろう。」
そう言うと恥ずかしそうに先生は口を開いた。
「実はぼくも若い時分にね、といっても君より年上の頃なんだが、親父の浮気相手を殴ってしまってね。そのまま家出をしていたんだよ。」
遺伝か。遺伝と言うやつか。
「血は争えんな。と言えばそれまでなのだが、ぼくもやはりあの父の子だったわけだ。だから不思議と怒りはなかった。あるいは老いたのかもしれんな。ただただ懐かしくなってしまったのだよ。」
「そうだったんですね。」
「そういうことだ。だから今回のことを怒ってはいないし、怒るつもりもないのだ。」
一拍を置いてから、先生は言った。
「だから、どうだろう。君さえよければ、ぼくの弟子でいてくれるかい?もちろん、嫌ならほかに預けるべきところも見繕おうじゃないか。」
是非もない。
「いえ、先生さえよければ、ここにおいてください。」
「そうか。君は素直だな。ぼくはしばらく父と距離を置いていたんだ。まあ、恐ろしかったのもあったがね。」
そういうと先生は笑っていた。
エリーゼさんもほっとした様子で笑っていた。
めでたしめでたしだ。
うん?そうだろうか?俺にはよくわからないことが一つある。
というより、気になることがある。
「先生、魔術は自分の持っている属性以外は使えないんですよね。例えば火と地の属性しか持っていない俺には水の魔術は扱えない。でも、先生はなぜ風の魔術を使えたんですか?」
「む、好奇心旺盛なのは良いことだ。だが、答えは簡単なのだ。あれは魔法だよ。偉大なる魔法使いにして詩人、ゲーテ先生のね。」
「もしかして、魔法の元って法律だけじゃなかったりします?」
「ご名答。人間は、悟性、理性、そして情熱を持っている。かのゲーテ先生はこの情熱をもって魔法を作られた。だから風属性を持たないぼくにも風を扱えたわけだ。」※1
「ケルビーノの魔法をぶっ飛ばしてましたよね。あれには何か理由があるのですか?」
「ああ、魔法同士でぶつかり合うと押し合いが発生するのだが、あれは怒りをぶつける理不尽だ。魔力量による力攻めと言ったところか。これによって法域競合を行わないという知恵だな。あれこれ考えているとほかがおろそかになる場合は、多少魔力消費が多くとも、全て吹き飛ばし、洗い流してしまうのが一番だ。無人の地に法などないのだから。」
「でも、あの状況でほかに考えることありました?」
「ふむ、鋭いね。なかったよ。【
「ん?もしかして、ゲーテ先生って存命の方?ルソーはルソーでしたよね。」
「あれ、言ってなかったかな?そうだ。今もお元気にしているはずだ。なんでも60歳年下の御嬢さんに恋をしたような話も聞いたが、噂には尾ひれがつくものだからな。まあそれくらい元気と言うことだろう。」
魔術講義に耳を傾けていると、トレーガー警部がやってきた。
「おお、トレーガー警部か入ってくれ。」
「失礼します。」
「どうしたのかな?なにか進展はあったのかね?」
「はい。ケルビーノはもう諦めたのでしょう。最初は知らぬ存ぜぬででたらめなことをべらべらと喋っていたのですが、教華響から破門状が届きまして、観念したようです。」
「そうかそうか。それで、事の真相くらいは教えてくれるかい?まあ、君が話さなくとも枢機卿から聞くがね?」
「ははは、ツァイラー枢機卿ですな。まあ、どのみちお知りになること。お話ししますと、ケルビーノは男色の気があるようですな。といっても本質はそこではなく、相手の嫌がることをするのが趣味のようで、なんでもよかったそうです。権力をチラつかせ、あるいは罪状をでっち上げるなどして脅していたようです。被害者は数え切れませんな。幸い奴の私室から加害日記が出てきましたので、証拠としては十分でしょう。教会も事態を重く見て全面的に協力してくれています。強制調査はさすがに聖域の神聖不可侵を理由に名目上は認められませんでしたが、見たいものは全部見せてもらいました。死刑は確実でしょう。女神も彼を許さないでしょうが、我々とて彼を許さない。二重に罰を受けてもらいますよ。本当は火刑に処したいところですがね。」
「警部、紅茶です。」
一息で喋るものだから、紅茶を勧め損なってしまった。今さらながら勧める。
「ははは手厳しいね。だが火刑はやりすぎだ。だからその刑罰は削除したのだよ。気持ちは分かるがね。ところで、アゼリオ神父とアントニオ神父はなにか問題があったかな?」
「いいえ。アントニオ神父は本人があいつのタイプだったらしく、狙われてしまったようですね。子どもを人質に取られたそうです。アゼリオに関しては、黒ミサのお目こぼしを受けていたそうです。」
「黒ミサ?」
「ああ、黒ミサっていうのは、正式の祭礼以外の儀式を言うんだ。アゼリオは治癒の奇跡に長けていたのだが、異教の治癒の方法も研究していたようなんだ。その代わりに研究成果の一部をケルビーノに教えていたらしい。ケルビーノはその方法も用いて今の地位を得たと言っていたから、不都合な人物の抹殺に利用したんだろうなあ。」
「なるほど。アゼリオ神父も無念でしたな。差し詰めこのまま死ななければ、子どもたちを巻き込むとも脅されたのでしょう。」
「ええ、無念でなりません。だからこそ、奴を捕まえられてよかった。お手柄だよカスパル君。」
わしゃわしゃと頭をなでられた。
「あ、ありがとうございます。」
俺はどんな顔をしたらいいのかわからなかった。
事件を片付けたトレーガー警部は、いつも晴れやかな顔をしていたはずだったから。
※1人間は、悟性、理性、そして情熱を持っている。
「人間は、悟性、理性、そして情熱を持っている。」109頁
『陪審制度論』
著者 パウル・ヨハン・アンゼルム・フォイエルバッハ
訳者 福井 厚
日本評論社 2019年3月25日 初版
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