神の法・人の法①
魔法の特訓を終えただけでへとへとになってしまった。
まだ魔術の特訓へと至れては居ない。
「さて、今日はこの辺で終わろう。エリーゼも帰って来るしな。おっと噂をすれば。」
先生の懐にある白い石が震えた。石から奥様の声が聞こえる。
「ああ、先生。私です、エリーゼです。今郵便局なんですけど、奥様からの手紙を預かりましたから、持ち帰りますね。」
奥様がこれから帰って来るという会話だったけど、「奥様からの手紙」?
奥様はいったい何人いるんだ?
「あああ、カスパル君?近くにあなたもいたのね?ごめんなさい気が付かなかったわ。」
ただならぬ気配を白い石越しに察したのだろう。エリーゼさんはそそくさと会話を終了した。
「先生? お話があります。」
俺はきっと怖い顔をしていたと思う。
「ああ、カスパル君。嘘をついていたことは謝ろう。13歳くらいの君にはまだ早いと思っていたんだ。だが、魔術師として鍛えようというのなら、そのときに告げておくべきだったかもしれない。これはぼくの落ち度だ。」
「歯ああああ食いしばれえええええ、この腐れ外道があああああああああ!!!!!」
渾身の力で拳を振りぬいた。先生は避けなかった。俺が殴るタイプだと思ってなかったのかもしれないし、反応が追いつかなかったのかもしれない。
「何をぬけぬけと不倫しおってからに。俺はここを出る。こんな歪んだ愛の巣なんぞにいられるか。」
衝動に任せて家を飛び出した。
先生は動かなかった。茫然とした表情で俺を見つめていた。なにが驚かせたのか、俺には分からなかった。
「はあはあ。やべえ。やっちまった。」
抑え込んでいた暴力性の発露。
今や自分がかつての俺ではなく暴力の権化に乗っ取られたのかとさえ思えた。
しかし、冷静に考えてみると、俺は法服貴族の最大の権威でもある先生を殴ってしまった。顔面を思いきり。
あれ、刑事訴追待ったなしじゃない? 身に付けてしまった法知識が俺を追い詰める。
うわあ。臭い飯は確定かなあ。水とパンだけの食事がごちそうに思えたのは、昔の感覚なのだ。記憶をなくす前は極貧生活でもしていたのだろう。全く覚えてないけど。
俺の失われた記憶は、無意識の言行にその片鱗を覗かせるだけだ。
俺が何者で、本当は何歳で、故郷はどこなのか? 何も覚えていない。
逃げる当てがないな。どこの街に逃げようか。そもそも俺はこの街をあまり知らない。
先生に頼まれたお遣い以外で外に出ることがなく、それは街の中心部の貴族街でたいてい完結していた。このあいだのイェーガー家へのお出かけで初めて中産階級のエリアに立ち入ったくらいだ。
だが、貴族街では目についてしまうだろう。ここはあまりなじみのない貧民街にでも行こう。
どこにあるのかは知らない。でも、街の中心部から少し外れたところにあるだろうことは想像に難くなかった。
どれだけ走っただろう。あと一歩で街の城壁を出るところで門番に引き留められてしまった。子どもを一人で外に出せるわけないだろうと。
やれやれ子ども扱いしないでほしいな。どうやってこの街まで逃げおおせたと思ってるんだ。
ん? 逃げおおせた? やはり俺は街の外からやってきたのか? まあ今はいい。保護者を呼ぶと言っていた門番の詰め所を脱走し、裏路地へ細道へと入っていく。もともと城壁の外にできてしまったスラムを覆うように第二第三の城壁ができたのだろう。貴族街に比べるとあまりに雑然とした街並みだ。
しかしなぜだ。一欠けらのノスタルヂアが俺の脳裏を過ぎった。
まあ、俺は怒りに任せて殴ってきてしまうような品性下劣な人間だから、場末のスラム街のほうがお似合いなのだろう。
博士にあつらえてもらった上等な服は脱ぎ捨てる。少し大きいが、酔いつぶれている少年のコートを拝借して、外面をなじませる。うん。完璧な擬態だ。さて、名前も年齢も聞かれない良いアルバイトはないだろうか?
そんなふうなことを考えながら、街を歩いていると、賛美歌が聞こえてきた。
おお、この汚い壁の建物は教会だったのか。花音教の賛美歌は調和のとれた純正律。平均律と違って和音が軋まない。敬虔でない者には、平均律の歪つな和音が重層的な調べに聞こえるようだが、あんなのはノイズだ。そして、なんでこんな言葉が俺の脳髄から湧き出てくるのかは分からなかったが、賛美歌へのノスタルジアは、スラム街のそれを容易く上回った。
しかし、俺は犯罪者だ。調和の破壊者なのだ。この歌に涙する資格などもはや無い。涙をこらえきれぬまま、またぽつりぽつりと歩き出した。ここはすこしばかり心にしみる。
さらに未知の道を行くと人だかりに出くわした。なんか野次馬がわらわらと集まって来る。これは孤児院だろうか?
よく考えると俺も今只の野次馬なわけだが、今一瞬トレーガー警部が見えなかったか?
孤児院内で殺人事件。世も末だな。選りにもよって女神様の聖域内で殺人を犯すなんて。
いや待てトレーガー警部が居るからと言って殺人事件と決まったわけではない。彼は確かに死と凶報の運び屋ではあるが、それは博士と俺にとってであって、現場においては事件性を判断するために呼ばれることもあるだろう。
まあ表情からすると殺しの線が消えて無さそうだけどな。
「失礼。ちょっと通りますよ。」
後ろから野次馬をかき分けてきたのは、僧侶の衣装に身を包んだ小太りのおっさん。装飾の意匠が派手なことを考えると、大司教クラスか。かなりのお偉いさんだったはずだ。そんなおっさんがなぜこんな辺鄙なところに?という疑問を抱いたが、そのおっさん。おれを一歩前に突き飛ばしやがった。
「おっと少年ごめんなさいよ。」
悪気はないんだろう。体幹が鍛えられてないから、人とぶつかったときに姿勢を維持するのが難しいんだろうが。
あ、一瞬トレーガー警部と目が合った。警部はその後すぐにおっさんが大司教と気づいて慌てて対応していたから、俺だと気づかれてないといいけど……。俺がここにいるとばれるとまずい。悠々と踵を返して、人ごみの中に紛れて帰ろう。咄嗟に体の向きを変えると、ばれる可能性がある。
違った。帰る場所は、もうないんだった。
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