イェーガー家傷害事件⑤

「家父権とは親が妻子を殴ることではないのですな。そんなものを家庭に持ち込んだら、その容器の方が持たないでしょう。ばらばらになって壊れるだけですな。」


「はい。……仰る通りです。」


 アロイスは涙を流していた。これはきっと地獄が終わったことへの歓喜の涙であろうが、トレーガー警部の目には反省の涙に写っているのだろう。


「しかし、お話してみて確信しましたな。この人の反省は本物です。もう殴ることはないでしょう」


「はい。以後、気をつけます。」


「では、トレーガー警部、帰りましょう。また何かあったら彼も力になってくれるでしょう。」


「え? もう帰られるのですか?」


 魔法の発動を知らないトレーガー警部は少しびっくりしていた。

 でも、既に全てが終わっているんだ。


「ええ、彼の目を見て確信しました。彼はもう暴力を振るうことはないでしょう。長々とした説教に意味はありませんよ。」


 よっこいせ、と鈍重に席を立つ。俺もそそくさとエスコートに移る。


「じゃあ、今日のところはこれで失礼します。奥さん、お坊ちゃん、突然押しかけて悪かったね。それじゃあ「ごめんなさい」よ。」


 刹那、アロイスの顔から血の気が失せた。

 しかし、恐怖に駆られた形相がトレーガー警部のことはなかった。


「ふう。ご足労頂いてありがとうございました。なんだか本官も、奴はもうしないような気がしてきましたぞ。」


「だと良いのですが、まあ、貴官も忙しいでしょうからな、折を見て、気にかけてやってください。」


 そこでトレーガー警部とはそこで解散となった。

 黒塗りの馬車が迎えに来る。どうやって連絡を取ったんだろう。

 さっきのよりこっちの魔法の方が知りたいや。便利だもん。


 先生の家に帰ってきた。頭が痛くなる。これから難しい話が始まるのだ。

 先生の淹れた紅茶の香りが授業の始まりを告げる。


「さて、カスパル。あの魔法がなんであるか知っているかね?」


「まあ、何回か先生に見せてもらってますから。」


「うむうむ。記憶力がよいことは、魔法使いの美点のひとつだ。話はそれるが、私以外が使ったあの魔法を見たことはあるかね?」


「いいえ、無いです。なにぶん、この街に来る前のことは覚えていないのです。」


「むむ、そうか。あの魔法は記憶喪失者を何人も生み出している忌まわしきロウ魔族の魔法なのだ。さっきぼくが使ったものは【石棺】だったね。あれは僕の魔法によるものだ。」


「へえ、ということは、使い手によって現れるものが変わるんですか?」


「ああ、12枚の石板が現れることだけは共通しているがな。まあ、あそこまでバイオレンスな使い方をするのはぼくだけかもしれないがね。」


「ほかには何があるんですか?」


「ブドウの木を生やすとか、だな。」


「え? そんな平和的な?」


「まあ、そういうものもある。もっともこの魔法の恐ろしいところは、法域外の時間のを止めてしまう点だな。」


 法域、たしか魔法の影響下にある空間を指す言葉だったはずだ。


「しかし、これは、実は副産物なのだよ。十二表に時を止める呪文はない。」


「え? そんなすごい効果なのにですか?」


「ああ。確かにロウ魔族は土魔法に優れている。高級な建造物、主要街道、水道橋などの重要な構築物は周囲の物質を取り込んで自動再生する。それは今でもだ。これはもはやゴーレムだ。そして、これほどの緻密で頑強な制御機構は現在でも解明されていない。言い換えれば、ロウ魔族は、ある分野において時を超克したし、それらは今なお生ける化石として命脈を保っているのだ。しかし、時までは化石にできなかったのだろう。あの十二表魔法は、原典自体が完全には残されていない。」


「不完全なくせに、あれだけの効果を持っているんですか?」


「いや、不完全だからこそだろうな。」


「なんでそんなことが?」


「うーん。難しい問いだ。だが、一つ思い当たることがあるとすれば、十二表魔法はもともと魔法ではなかった可能性がある。」


「え? ええ? もっと謎が深くなりましたね。」


「ああ、あれはもともとただの法律だったのではないか、という説もある。後世の魔法使いが、魔導書として読んでしまった。そして、まったく偶然にも、魔法が発動してしまったのだろう。」


「そんなことが起こりうるんですか?」


「十分起こりうる。現実に発動しているからね。そしてなにより魔法使いにとって残酷だったのは、一見魔法と関係ないものであっても、魔導書として読める書物は無いかと探す必要が出てしまったのだ。それまでは魔導書だけ読んでいれば良かったのに、魔法発動の鍵となる魔法典ではないかと、すべての書物と格闘することを余儀なくされた。魔法使いにとっての地獄ではないかね? 古代の居酒屋の看板でさえも解読せざるを得なくなってしまった。」


 パイプが吐き出す煙は、所在なさげに漂うばかりであった。


「なるほど・・・。」


「おっと、紅茶が覚めてしまったな。これは魔法史の片鱗に過ぎなかったが、まあ、難しい話ではあったろう。この辺でお終いにしよう。」


 ふう、やっと解放された。俗に言うお勉強とはむず痒い話だ。


「うむうむ、今日は疲れただろう、ゆっくりと休みなさい。それと、最後に火酒をもってきてくれないか?」


「……先生、飲みすぎたら駄目ですよ。」


 まったく長い一日だった。

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