イェーガー家傷害事件①

 では、ご相談を。そう刑事が切り出した。


 刑事さんの名前は、オットー・なんちゃら・トレーガー。役職は警部らしい。

 まあ先生も俺もトレーガー警部と呼んでいる。死と凶報の運び屋だ。


 トレーガー警部は36歳バツイチで、仕事はできるタイプだがそのせいで離婚している。堅物すぎるというか、真面目過ぎるというか、奥さんが耐えられなかったらしい。

 刑事という部署も良くなかったのだろう。人死にがあればすぐに飛び出していくから、家庭を顧みることのができないのも大きかったと思う。

 でも、奥さんに逃げられた日も平然と仕事していたというから、職場の皆さんは警部より奥さんの方に同情する始末だった。


 もう分かったと思う。彼は根っからの仕事人間だ。


「今回のご相談は、実は事件ではないんです。いや、被害者が事件化を望んでいないというか、自分が悪かったの一点張りでして。」


「ん?ということは、殺人事件ではない?」


 先生が引っかかったようだ。俺も気になった。殺人専門じゃなかったか?


「ええ、幸いにして。もしかして、お二人は本官のことを死神か何かだと思っていらっしゃるので?心外です。本官の家の近所に住む家族の件なのです。」


 先生は意外そうな顔を崩さないまま、紅茶を一口飲んで話の続きを待った。

 僕も真似をする。苦い。砂糖を持って来るんだった。


「事件はイェーガー家で起きました。よくある話かもしれませんが、夫のアロイスがその妻であるエレナを殴ったのですよ。その際に10歳になる子どものアルノーも、母を庇おうとして間に入ったところを、父のアロイスに殴られたわけです。」


「ふむふむ。夫が妻を殴るか。実に嘆かわしいことだよ。しかし、合点がいった。妻も子も父を犯罪者にしまいとしているわけかな。」


「先生のおっしゃる通りでして、どんなに激しく転んでもそんな痣にはならないんです。本官も長らく人の死体を見てきました。階段から転げ落ちるとどんな傷を負うのかは、熟知しているつもりであります。」


「では、手の打ちようが乏しいな。」


「ええ。本官もそこが悩みの種でして。」


 大の大人が何を悩んでいるのだろうか?


「あの、そのアロイスって人は悪者なんですよね?だったらしこたまぶん殴ればいいじゃないですか。」


 そう言うと二人は暗い顔をする。


「ああ、トレーガー警部。これはぼくの方から言いましょう。いいかい、ヴィルヘルム。これは何度も言っていることだが、ごく限られた状況を除いて、人は人を殴ってはいけないんだよ。」


「え、でも悪い奴は斬首刑に処しますよね?」


「それは国家が行うものだ。私人同士で勝手にやることは許されないのだよ。被害者が悪人であっても殴ってはならない。それは私刑だ。それがまかり通ったら正義は知性の光の中から、最も太い上腕二頭筋の内側へと幽閉されてしまうだろう。」


「はあ、そういうものですか。」


「やれやれ、この様子では納得はしていませんね。まあ、彼の過ごしてきたであろう境遇を考えれば妥当ですが。」


 ここでは意見の違いが死を招かない。これを把握するまでに少なからぬ時間を要した。しかし、俺がまだ子供とみなされる年齢に見えることと、今俺を取り巻く大人たちの習性によるものだろう。甘えてはいけないな。


「しかし、そのイェーガー家の主も反省はしているのですかな?警部殿。」


「はっ。残念ながら、不出来な妻を躾けただけだの、子供に関しては殴るつもりはなく、事故に過ぎないなどと勝手なことを抜かしております。ただ、痣を見る限りおきまして、あれではいつ死んでもおかしくないと確信しております。」


「ふむふむ。そうか。君は自分の仕事を減らすためにここに赴いたというわけか。まさかぼくも、警察官をその怠惰ゆえに称賛することになるとは思いもしなかった。しかし、君だって警察官なわけだ、そのくらいの注意はできるんじゃないか?」


「したんですよ。でもアロイスのやつ、家父権の侵害だの、「法は家庭に入らず」だなんて浅知恵まで持ち出す始末でして、本官では説得は不可能でありました。」


「なるほど。ぼくのところに来た理由はそれだったわけか。」


 そう言うと先生はプカプカと煙をふかし始めた。パイプだ。

 火の魔術でノータッチで火をつける様は、実に絵になる。

 医者には止められているのだがね、と苦笑しながら、燻らせる。


「ふむ、しかし、これは難しい問題だ。妻も子も夫が牢屋につながれることまでは望んでいないか。それもそうだろうな。大黒柱なわけだ。失うわけにもいかんよなあ。」


「博士、どうでしょうか?未来の殺人を防ぎたいのです。」


 煙を吐いてから、先生はこう言った。


「まあ、やりようによっては、なくもないでしょう。うん、よろしい。私が行ってみましょう。」


 穏やかな老博士が仄暗い笑みを浮かべていたことに、トレーガー警部は気が付かなかったようだった。


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