<第十七話・決戦の火蓋>
きゅる、きゅる、きゅる。
それは上履きが廊下を滑る、独特な足音だ。上履きでツルツルに磨きあげられた廊下を歩くと、どうしてもゴムが擦れる特有の音が響くものである。
ただし、健康な人間が歩くだけならば、それはそれなりの速さでテンポよく進んでいくものだ。――今、香帆の耳に聞こえるそれは違う。奇妙なほどゆっくりで、しかも早さが一定ではない。どちらかというと、やたらと重い上履きをゆっくり紐でくくって引きずっているような、そんな音である。
『七不思議の一つ! “異次元へ繋がるエレベーター”!ほらうちの学校って普通のエレベーターないじゃん? バリアフリーだーやれユニバーサルデザインだーって言われてる昨今だけど、校舎ボロいせいで車椅子とか乗れそうなエレベーター無いんだよね。あるのは、荷物運び用の貨物エレベーターだけ。普通の生徒は使っちゃいけない使えない。動かすには確か……鍵がいるとかそんなんだったよね』
夏美の声とともに、香帆の脳裏にリピートされる怪談。
『そうそ。あのエレベーターの前って階段横でしょ? 普通に歩いているとみんな通るところでしょ? でもって操作盤には鍵がついていて、行き先ボタンが誰も押せないようになってるわけ。ところが、その鍵……というか、ガラスのカバーごとなくなってる時があるんだって。鍵があいてるだけじゃなくて、カバーごと!しかもその時は決まって、あるはずのない地下一階への行き先ボタンが出現してるって話なのさー! 面白くない?』
きっと、彼女は信じていたわけではなかったのだろう。
むしろ信じていなかったからこそ、他人事で済んでいた。面白半分に口にすることができた。
だってそうだろう、もしその怪談が事実なら――自分達は例外なく、その怪異目の前で生け贄になるのを待っていることと同義であるのだから。
エレベーターの前を通らない生徒は殆どいない。
香帆も、そして小宵もそうであったように。
『地下一階へのボタンを偶然見てしまった者は、エレベーターに誘われるようになってしまう。一人になった時、無意識のうちに貨物エレベーターの元へ向かってしまい、あるはずのない地階のボタンを押して……エレベーターに乗って異次元へ向かってしまうんだってさ! そして、二度とそのまま戻ってくることはないんだってえ……!』
昇降口から歩いてきた人物が、ゆっくりと香帆と聖の前に姿を現した。
「せ、先輩……」
思わず香帆の喉からひきつった声が出る。小さな巨人と形容としても過言ではない、いつも堂々としていて溌剌とした小宵。普段のそんな彼女とは似ても似つかぬ姿が、そこにはあった。
守彦の時は、遠目の後ろ姿だったからわかっていなかった。今ならわかる。誘われた人間の異様さが――異常さが。
彼女は誰が見ても明白に、己の意思で歩いてはいなかった。背を丸め、時折がくがくと不自然に首を揺らすその姿はまるで不出来な操り人形のよう。だらん、と垂れ下がった両の腕に、まるで引きずるようにゆっくりと前へ進む両の足。足音が歪なのも当然だ。上履きを痛めかねないほど、足はほとんど浮き上がることなく不自然な摺り足を続けているのだから。
そして、彼女の表情。呆けたように口は半開きになり、眼はぐるんと白目を剥いている。美人というほどではないにせよ、少女として十分愛らしい顔立ちであった筈の普段の小宵からは見る影もない有り様だ。
香帆が思い出したのは、有名なゲームのゾンビである。あの生きた死体達のように彼女は腐っているわけではなかったが、表情だけ見れば何ら変わりはないだろう。生きた人間が、意思を持つ存在が見せていい顔ではなかった。何かが完全に、小宵から考えるチカラを奪い去っている。
「あの女がエレベーターの前に立ったら、エレベーターが開いて侵略者が姿を現す筈だ」
こそり、と小声で聖が告げる。
「俺がそいつを捕獲すると同時に、前田小宵をお前の方に突き飛ばす。お前はあいつを受け止めて可能な限りこの場から離せ。できれば校舎から出るんだ。あいつはチビだしお前はデカいから受け止められるだろ」
「了解した。最後の一言は要らなかったけど」
何でそういちいち余計な事を言うかな。状況も忘れて腐りたくなる小宵である。まあ実際、自分と小宵ではかなり体格差があるのは事実だ。小宵が小さいのもあるが、なんといっても香帆がデカいのである。
デカい方がいいこともある、なんて言われたりするが。女はデカいというだけでモテなくなったりもするんだぞ――と香帆はこっそり思う。なんといってもそこにいる誰かさんよりも香帆の方が身長が高いのだ。
――ていうか、私が見守るのをOKした最大の理由はそれかいな。……まあ、先輩を避難させる役は必要なのかもしれないけどさ。
そういえば、他のオカルト研究会の連中などは何処に行ったのだろう。まさか聖一人で侵略者を倒せ、だなんて無茶を言うのではあるまいな。聖の実力は未知数だが、少なくとも一年生であり経験値はさほどないはずだというのに。
――……って、余計なこと考えてる場合じゃないっぽいな。
極めて遅い小宵の足が、ようやくエレベーターの前に到達する。その途端、ぞわり、と香帆は全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。
――な、なに?
まだぴったりと閉まっているエレベーターの扉。その隙間から――やけに冷たい空気が、入り込んできている。いや、冷たいと感じるのも正しいのかどうかわからない。肌を刺すようなこの深い極まりない寒気を、香帆としてはそう形容する意外にないからである。
かちり、と音がした。その瞬間、外付けされているエレベーターの階数ボタンを閉じ込めるガラスケースが、溶けるように消失してしまう。そしてぼんやりと薄紫色の光が点ると、“B1”と書かれたボタンが出現したのだ。
――あれが、あるはずのない地下へのボタン……っ!
そしてそれが、まるで見えない何者かがそこにいるかのように――かちり、と押し込まれる。瞬間、ギギギギ、と錆びたような音を立てて扉が開き始めた。怖気の走るような感覚が強くなる。凍えるほど寒いわけでもないのに、ガタガタと香帆の全身は勝手に震え始める。
吸ってはいけない空気。触れてはいけない気配がそこにあると、本能的に香帆は理解しつつあった。
エレベーターが開く。どろり、と濁った泥のような闇がその向こうに淀んでいる。操られるまま小宵が一歩前に踏み出し――そして。
「!」
その瞬間は、訪れた。ぼこり、とエレベーターの向こう側の闇が膨張し、まるで水の表面張力のように膨れあがり始めたのである。
「あ、わわ、わわわ……っ!」
「ビビってチビるなよ香帆。汚いから」
「だ、誰がっ!」
腰が抜けそうになった瞬間、聖の軽口が飛んできた。反射的にそれにツッコミをいれる香帆。――今、間違いなく自分は助けられたのだろう。正気が飛ぶすんでのところで、聖のおかげで感情も理性もこちら側に引き戻されたのだから。
そうだ、ビビっている場合じゃない。いざとなったら守られなくても自力で逃げる、そう約束して自分は此処に残ることを許されたのだから。
――あ、足手纏い系ヒロインには、絶対ならないんだからっ!
香帆が誓いを立てるのと、真っ黒に膨らんだ闇から何本ものドス黒い手が伸びるのは同時だった。それらは“あちら側”に小宵を引きずり込もうとまっすぐに彼女を狙っていく。しかし。
「させるか、馬鹿め」
そこに、聖が跳んだ。彼は姿勢を低くして突っ込むと同時に、振り上げた右手を“闇”に向けて勢いよく叩き込んでいた。
「“天衣無縫・縛”!」
それは、何本もの青く光る糸。それが聖の手の動きにあわせて張り巡らせられ、小宵に伸びようとした黒い腕達をがんじがらめに絡めとっていく。
「香帆っ!」
右手で糸の端をしっかりと掴みながら、聖は左手で思いきり小宵を突き飛ばしていた。慌てて香帆は駆け寄り、倒れそうになった彼女を支える。
「せ、先輩っ!」
小宵はもう、先程のような壊れた表情はしていなかった。ぐったりと全身から力は抜けているが、その眼は眠るように閉じられている。息をする音はちゃんと聞こえてるので、気を失っているだけなのだろう。香帆はそんな彼女を背中におぶると、一目散に走り出していた。
「そうだ、そのまま昇降口から出ろ!」
遠ざかる聖の声が聞こえる。彼の事は心配だったが、振り向いている場合ではない。
ひとまず小宵の安全確保が第一だ。どこまで逃げれば安全なのか、正直それはよくわかっていなかったけれど。
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