第8話

 救急車のサイレン。


「姉ちゃん! 姉ちゃん」


 康介の叫び声。


「和佳子! 和佳子」


 母の涙声。


 虚ろな視界には、見覚えのない天井の照明が、流れては過ぎる。


 ユニフォームにマスクという出で立ちの、見知らぬ顔がこちらを覗く。

 とても緊迫した顔だ。


 そんな光景が、消えては映り、また消えた。


 睡眠薬のせいなのか、意識は朦朧としていて自分が今どういう状況にいるのか、よくわからない。


 ガラガラと滑車が転がる音に連動して、全身に伝わる振動。

 じりじりと痛みを訴えてくる左手首。


 そうか。

 私は、死に損なったんだ。

 そう理解した途端、猛烈な吐き気に見舞われ、嘔吐した。


 意識、喪失。



 ◆◆◆


「あと一歩遅かったら、後遺症が残るところでしたよ」


 意識を取り戻した直後、そんな言葉が聞こえた。


 重い瞼を持ち上げると、若く精悍な顔つきの医者が見えた。

 ベッドの脇に立つその医者の反対側には、私の家族が勢ぞろいしている。


 目を覚ました私に、いち早く気付いたのは医者だ。

 胸に下げたプレートには『Dr.御堂大和』と書かれている。


「お! 目が覚めましたね。お名前言えますか?」


「はい、向井和佳子です」


「生年月日は?」


「1997年5月20日」


「え? 5月20日? 僕と一緒ですね」


 そう言って笑った。

 笑った後、なぜか紅潮する頬。


 無反応の私に気付き、更に耳まで赤くした。


「どうして、自殺なんて?」


「言いたくありません」


「そっか。えっと、意識ははっきりしてますね。腕の傷も致命傷ではありませんでしたし、胃の中はきれいに洗浄してます。もう、帰っても大丈夫なんですが、2,3日はご家族の監視下で安静にしてください」


「わかりました」

 医者に傾倒しながら父がそう言った。


「それから、体が回復したら、精神科の方に」


「はい! わかりました」

 父は白目を血走らせ、食い気味で返答した。

 母は目頭を押さえた。


「紹介状、書いておきますので」


「ありがとうございます」


 医者は仕事を終えたようで、ベッドであおむけに横たわる私に視線を落とした。


「和佳子さん。死にたいっていう感情は何も特別な事じゃないからね。生きてたら、誰だって一度や二度、死にたいって思うものだよ。生きてる物は必ず死ぬんだ。死は皆に平等に与えられた人生のビッグイベント。どうせ死ぬならさ、思いっきり幸せになってからでも遅くない。そう思わない?」


 医者は真っ白い歯をニカっとむき出しにして、目元に盛大な笑い皺を作った。

 そしてまた、赤くなった。


 医者なんて勝ち組の若造に、そんな事言われてもちっとも刺さらない。

 死にたいなんて思った事もないくせに。


「それでは」

 医者は愛想よく、家族に頭を下げると、こちらに背を向けた。


 家族は皆同じように、その若い医者に深々と何度も頭を下げていた。



 ◆◆◆


 ゴールデンウィークが過ぎても、両親は私を監視下に置いた。

 精神科への受診は、拒否した。

 この感情に名前を付けられるなんて真っ平だ。


 体は回復していくが、心はちっとも回復しない。

 モヤモヤとした闇に覆われ、119番通報した康介を心から恨んでいた。


 死にたい死にたい死にたい。


 いや、殺したい。


 死ねないなら、殺すしかない。

 常に脳裏に浮かぶのは、産婦人科で見かけた隼人とみそのの姿だ。


「姉ちゃん、ラーメンできたよー。博多の生麺。これ絶対うまいやつよ。チャーシュー大盛にしといた。食べよう」


 実家のリビング。

 縁側で膝を抱える私に、康介がそう声をかけた。


 今日は、両親は仕事に出かけ、康介は有給を取り、私の見守りをしている。


 どんぶりから立ちあがる、濃い豚骨の湯気の向こうで、康介が笑っている。


 無反応の私に向かって、いつもこうして声をかけ、笑いかける。


 ふらりと立ち上がった。


「姉ちゃん? どうした? トイレ?」


 無言でキッチンに向かった。


「姉ちゃん?」


 ラーメンを啜る音。


 まな板の上に出しっぱなしにしてある包丁が目に付いた。

 チャーシューを切るのに最適な、刃渡りの長い刺身包丁。

 ぎらついた刃先に吸い寄せられた。


「姉ちゃん?」


 気が付いたら、包丁を握りしめていた。


「殺す! 殺す! 殺す!!!」


 そう叫びながら玄関に向かった。


「姉ちゃん! やめろ!」


 刺身包丁の先端の先に、康介が立ちはだかった。


「どいて!」


「やめろ! 落ち着けって! 包丁、置いて!」


 穏やかだった康介の顔は、険しく変貌し、呼吸を荒くした。


「どいてーーーーー!!! お願い。行かせて」


「どうしても行くなら、俺を殺してからにしてくれ!」


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 その場に座り込み、包丁を自分の喉元に当てた。


 瞬間。


「やめろーーーーーー!!!」


 飛び掛かってきた康介の頬を刃先がかすめた。


 両手は康介によって制圧されたが、彼の頬からは血が流れた。


「康介……」


 この瞬間、私は初めて我を取り戻した。


「ごめん、ごめん、なさい……。あなたを、傷つけたく、なかった」


 グシャンという音と共に、包丁は床に転がった。


 その音は――。


 安堵の音だった。

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