第7話
手術は全身麻酔で行われたため、術中の記憶はない。
目が覚めた時は、心臓が頭に移動したのではないかと疑いたくなるほど、じんじんと脈打っていた。
それは全身麻酔によるものではなく、夢の中で泣き叫んでいたからだと知ったのは、びしょ濡れになっている枕と頬。
それから母の泣きはらした目に、気付いた時だった。
「随分、うなされてたけど大丈夫?」
全然大丈夫そうじゃない母はそう言って、無理に作った笑顔で私の顔を覗き込んだ。
「何も覚えてない」
「うん、お医者さんがね、麻酔が効いている間はたくさん夢を見る事はよくある事だから、心配ないって言ってたわ」
「そう。もういなくなったんだね……。私の赤ちゃん」
母は何も言わず、私の背中をさすった。
麻酔によって、随分眠っていたようだ。
小さな窓からは、真上に上った太陽が見えた。
「もうお昼よ。何か食べて帰ろうか」
「うん」
幸い、術後の痛みは少なく、すんなりと立ち上がる事ができた。
術後の診察を終え、会計で名前を呼ばれるのを待つため、待合室に入る。
そこには、相変わらず健康的な妊婦さんと、それに寄り添う旦那さんで、幸せが溢れていた。
その中に、よく知っている、見慣れた横顔を見つけてしまった。
短く刈り込んだ短髪。
その隣には、若々しく艶やかな長い黒髪。
幻であって欲しかったその二人は――。
隼人とみそのだった。
隼人はみそののお腹に手を当てたり、耳を寄せたりしながら、まるで彼女の妊娠を喜んでいるように見えた。
この場に似つかわしい、幸せなカップル。
本当は、あそこにいたのは、私だったはず。
「向井さん、向井和佳子さん。会計窓口へお越しください」
会計を知らせるアナウンスに、隼人の顔から笑顔が消えた。
私の姿に先に気付いたのはみそのだ。
悪びれもせず、斜めに頭を下げた。
「和佳子、行くわよ」
その光景に、母も気づいたようで、私の腕を引いた。
私は、母の手を振り切って、真っすぐに二人の元へと向かって歩いた。
「わ、和佳子、ちゃん」
隼人は、さっと立ち上がり、みそのと私の前に立ちはだかった。
まるで、みそのを私から守るみたいに。
「産むの?」
隼人の肩越しに、座ったまま私から目を反らす彼女にそう訊ねた。
「はい、いちよー」
そう言って、隠しきれない笑みを零す。
「そう、一応、産むんだ。おめでとう」
私はバッグから、例の50万円入りの封筒を取り出した。
「これ、お祝儀よ。少ないけど、取っといて」
金縛りに遭ったように固まる二人。
「どうしたの? 50万よ。それとも、こんなはした金、いらない?」
目線だけを泳がせる隼人。
こちらを見ようとしないみそのは
「いりません」
消え入りそうな声でそう答えた。
「そう。私もいらない」
そう言って、みそのの足元目がけて、ポンと放り投げてやった。
「いらないなら、ドブにでも捨てといて」
たった50万で償いだなんて、馬鹿にしないで。
こんな物で清算できるほど、私への気持ちは安かったって言うの?
そんな言葉を胸の中で叫びながら、自腹で会計を済ませて外に出た。
5月上旬の、新緑が燃え盛る独特の匂いが鼻先を通り過ぎる。
この先きっと、毎年この匂いを嗅ぐたびに、今日の事を思い出してみじめな気持ちになるのだろう。
「ラーメンにハンバーガー、フライドチキン。和佳子、何が食べたい?」
母は無理に作った元気を見せつける。
「なんか、気分が悪くて。お母さん、ごめん。私、まだ何も食べたくない、かな」
「そう」
不の感情は細胞分裂して、私の体中を蝕んだ。
内臓も精神も腐らせていった。
「しばらく家に帰って来たら?」
母の提案に私は首を横に振った。
「いいの。大丈夫。しばらく一人になりたいから。ごめんなさい」
心配顔の母を振り切って、自室に戻り、ベッドに倒れ込み布団をかぶった。
一度沸いた殺意は、簡単には消えてなくならない。
あの二人をめちゃくちゃに壊してやりたい。
出来る事ならこの手で――。
けれど、私はきっと、寸での所で思いとどまってしまうのだ。
自分でも嫌になるほど、心が、体が、隼人を求めてしまうのだから。
そんな、情けない自分が嫌い。
こんな仕打ちを受けてもなお、彼を求めてしまう自分が死ぬほどイヤ!
私が殺したいのは、私自身だった。
テレビボードの引き出しをひっくり返す。
確か、ここにあったはず。
不眠で一度だけ精神科に罹った事がある。
その時にもらった睡眠薬。
サイレースを求めて、引き出しを漁る。
それは『賭け』だった。
もしも、見つからなかったら、思いとどまろう。そう思っていたのに。
「……あった」
青い錠剤が、私を『死』へと導いた。
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