第6話
全くベッドから起き上がる事ができない。
まるで、体ごと鉛になったみたいに。
この世の全てを拒絶するみたいに。
私は深くベッドにもぐりこんでいた。
「姉ちゃん、入るよー」
鍵をかけ忘れたマンションの玄関から、康介の声が聞こえる。
「んーーーー」
なんとか絞り出した答えがそれだ。
気付けば、カーテンの向こうで朝だった空は、すっかり夕日に変わっていて、通常運転の康介の声が別世界の人みたいだ。
普通の人と、不幸な人。
健康的な人と病的な人。
私は見事に病んでいた。
ガシャガシャとレジ袋の音を立てながら、康介が入って来る。
「また飯食ってないな」
ガシャガシャ音は更に大きくなり、買って来た総菜をテーブルに並べてるんだと察した。
「3時ごろだったかな。隼人さんが、来たよ」
「うん」
私は、その場に行かなかった。
というより、行けなかった。
どうしたって、体が動かなかったのだ。
「どうだった?」
うつ伏せのまま、そう訊いた。
「うん。まぁ大変だった」
康介は、私を刺激しないようにしているのか、割と普通のトーンでそう言った。
「お父さんが、暴れちゃって。止めるのが、大変だった」
「そう……」
「それから、これ」
ベッドにうつ伏せになっている私の顔の横に、長方形の封筒が置かれた。
厚みのある封筒の中身は、何となく予想できた。
「隼人さんが、姉ちゃんにって。50万入ってるって」
じーーーんと脳が痺れる。
全血液が脳内に集結して、沸騰した。
「ふざけるな!!!」
思わずその封筒を床に投げつけた。
康介に八つ当たりする気は毛頭ない。
その言葉は、その封筒を寄越した相手に、だ。
「50万? これが責任? 誠意? なにこれ、なんなのこれ?」
温かく大きな手が背中をさする。
「姉ちゃん」
うあああああああーーーーーーー
枕に顔うずめて咆哮した。
怒りはどこまでも私を突き動かす。
ベッドから這い出し、昨日着ていた服のまま、キッチンへ向かい包丁を握った。
「姉ちゃん! どこ行くの?」
迷いなく玄関に向かう私の体はがっちりと康介に拘束されて、すぐに自由が利かなくなる。
「放して、放して! 殺す! あいつを殺す!」
康介の腕から逃れようと、抵抗する私を、抑え込みながら
「ちょっと待って。落ち着いて! そんな事して何になるの? あんな男のために人生捨てるのかよ?」
そう、耳元で叫んだ。
手から力が抜け、包丁は床に転がった。
我を取り戻したわけでもなかったが、その時確かに脳内を過ったのは、家族の姿だった。
娘が殺人事件を起こした家族の姿。
私の不幸に、家族を巻き込むなんて。
力なくその場に泣き崩れた私を、康介がずっとさすってくれていた。
「とにかく、連休明けたら、病院行こう。お母さんが付き添うって言ってたから」
「赤ちゃん……どうなるの?」
「……おろすしか、ないだろ」
一番恐れていた言葉だった。
お腹を抱きかかえるようにして、蹲り
「ごめんね、ごめんね」
何度も、お腹の中の子に詫びた。
康介は背中をさすりながら
「子供ってね、流れても、また同じ魂を持った子が戻って来るらしいよ。姉ちゃんがまた元気になって、幸せになる準備ができたら、きっとこの赤ちゃんもまた姉ちゃんのお腹に戻って来るよ」
「本当?」
「うん。だから、またねって、送ってあげよう」
私はまた声を上げて泣いた。
そんな私を康介はずっと優しく抱きしめていた。
せめて、お腹にいる間は幸せにしてあげたい。
そんな想いで、もう泣かないと決めた。
眠れない夜は、お腹をさすりながら子守歌を口ずさみ、大好きなお酒も絶ち、体に優しい物を食べた。
また、このママの元へ――。
そう、思ってもらえるように、優しく強い母になろうと頑張った。
この子は、隼人の子である以前に、私の愛しい子供なのだから。
それから一週間が経ち、母に連れられて産婦人科を受診した。
随分待たされた待合には、幸せそうな妊婦さんが溢れていて、別世界を映し出した。
凛としたきれいな女医さんが、エコー写真を見せながら5週目に入ったところだと教えてくれた。
堕胎するならできるだけ早い方がいいと、手術の日取りを明日に決め、帰宅すると、封印していた涙がまた零れた。
母は言った。
「幸せになるための通過点だと思おう」
母もきっと辛いのだ。
娘のこんな姿、見たくなかったに違いない。
「お母さん、ごめんなさい」
母は私を抱きしめながら
「あなたは何も悪くない。自分を責めないで」
と言った。
そして、事件は次の日に起きる。
お腹の赤ちゃんと、さよならする日だ。
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