第5話

「何か飲む?」


 午後8時。


 なごみ庵のカウンターに座らされた私は、カウンター越しにそう問いかけた隼人に向かって首を横に振った。


「ううん。別にいらない」


「ビールは?」


「いらない」


 だって妊娠してるから。


「そう」


「話って何?」


 この時の彼は、見た事もないほどに怯えていた。

 今にも消えそうなキャンドルの炎みたいに、ゆらゆらと視線が定まらない。

 とてもやりたくない事をやらされているような、言いたくない事を言わされているような。

 とにかく、情けないほどに滑稽で可哀そうだった。


「実は、その……」


 カウンター越しに、項垂れたまま青白い顔をする。


 脳内には、康介の言葉がリフレインしていた。


 ――相談者とか殆ど仕込みらしいよ。


 


「もしかして、女子高生妊娠させちゃった。とか?」


 私は、冗談ぽくそう切り出した。


 まさか、そんなバカな! って否定して欲しかった。


「え? どうして、それ……」


 隼人は一層顔色を悪くした。


 間違いであってほしいという願望で、一旦は蓋をした疑念が、残酷なほど私の心を切り裂いた。


 収まっていた吐き気が、再びせり上がる。

 私を支配したのは、怒りと悲しみ。

 それなのに、私は何故だか笑っていた。


「で? どうするの?」


 答えは一つしかないんじゃないか。

 みそのとの関係をきっぱり清算して、やり直したい。

 そんな言葉を期待した。


「別れて欲しい。勝手な事言ってるのはわかってる。けど、彼女には、頼れる大人は俺しかいないんだ」


 完全に思考停止に陥った私の脳は、何一つ彼を貶める語彙を発する事ができなかった。


「私は、どうなるの? お腹の子供は、どうしたらいい?」


「え?」


「私も妊娠してるのよ。隼人の子供」


 両目から、同時に涙がこぼれた。


 青ざめていく隼人の顔をこれ以上見ている事ができず、涙で歪む視界はカウンターの木目ばかりを映していた。


「和佳子ちゃん……今回は、子供は、諦めてほしい」


 途切れ途切れにそう言って、鼻をすすった。


「今回はって何? どうして私が諦めなきゃいけないの?」


「ごめん」


 隼人の決意は固いらしい。

 いつからこんなにも心が離れてしまったのだろう?


「もう、私の事、好きじゃなくなった?」

 そんな質問、きっとみじめになるだけ。

 そう思っても、やはり訊かずにはいられなかった。


「ごめん」


 縁がなかったって、こういう事なんだ。

 あの縁日で、うっかり手放してしまった風船みたいに、どうしたって取り戻す事はできないんだ。


 そんな事を思った。


「責任は、取るから」


 その言葉の意味を理解した時、私は泣きくずれてしまった。

 両手で顔を覆い、大きな声をあげて、脳が痺れるほど泣いた。


 一頻り泣いて、涙が落ち着いた頃、彼はこう言った。


「明日、和佳子ちゃんの両親に、謝罪しに行くよ」


 その言葉には返事をせず、私はふらりと立ち上がった。


「帰るね。具合悪い」


「大丈夫? 送るよ」


「いらない。一人にして」

 その言葉だけがやたら明瞭に口を突いた。



 どこをどう歩いて、家にたどり着いたのかはもう覚えていない。

 私には考えなければならない大切な事があった。


 お腹の子供の事だ。


 諦めてほしいって?

 それは隼人が決める事じゃないでしょ?

 私の気持ちや想いはどうなるの?


 責任取る?

 私に堕胎させて、浮気相手の女子高生と一緒になる事が責任だっていうの?


 責任って何よ。

 どうして私だけが傷つかなきゃいけないの?


 後から後から、言いたい事が脳内を駆け巡った。


 きっと、どんな謝罪の言葉をもらっても、留飲が下りる事はないだろう。


 許すつもりもないのに、どうしようもなく愛しい気持ちが、どうしようもなく消えてなくならない。

 どうしようもなく居座って、私を苦しめた。


『明日、15時に和佳子ちゃんの実家に行くから、両親に伝えててもらえるかな』


 隼人からのラインに『わかった』と返信をして、再びベッドに体を沈めた。


 どんなに拒んでも、着々と終わりが近づいて来る。

 余命宣告されたみたいに、抗えない運命は、とても抱えきれなくて、声を張り上げて泣くしかなかった。


「大好きだったのに。初めての人だったのに」


 そんな言葉を漏らしながら、一睡もしないまま、腫れた目で朝を迎えた。

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