第2話

 早速、調理場に立った隼人は、サーバーから生ビールを注いだ。


「はい、どうぞ」

 君の事なら何でも知ってるよ。

 そんな事を言いたげな表情で、カウンターにジョッキを置いた。

 いつも、2杯は飲み干す生ビール。


「今日は、俺の奢りだから。好きなだけ飲んでよ」


「いいの?」

 

「もちろん! いつもお世話になってるからね。たまには恩返ししないと。俺も、今日は飲もうかな」


 隼人は、自分の分のビールも注いで、「乾杯」と、カウンター越しにジョッキを差し向けた。


「乾杯」

 ジョッキをぶつけて、すきっ腹に冷えたビールを落とし込む。


「あーーー! おいしい!」

 五臓六腑をかけめぐるビールは、その日あった嫌な事を何もかも忘れさせてくれた。


 隼人は一口飲んで、コンロに火を点けた。

 しばらくすると、肉が焼ける香ばしい匂いが立ち込めて。


「はい。お待ち!」


 カウンターには、絶妙に焦げ目を纏った地鶏のたたたきが置かれた。

 四角い有田焼の皿の端には、たっぷりとワサビが乗っている。


 通常、地鶏のたたきの薬味と言えば、ショウガとにんにくらしいが、私はワサビ派。

 そんな特殊な好みも、ちゃんと覚えていて対応してくれる事が嬉しかった。


 東京育ちの癖に、関東らしからぬ甘めの味付けも、私はすっかり気に入っていて、彼にがっちりと胃袋を掴まれていた。


 表面はこんがり。中はレア。

 新鮮な地鶏でしか味わえない濃い鶏のうまみを堪能していると、やみつきキュウリに、豚軟骨の味噌煮込み。

 自家製のゆず塩辛なんかが入った小鉢が次々に並んだ。


 私の大好物ばかり。


「さてと、隣に座ってもいい?」

 一通り料理を出し終わり、真っ白い小判帽を脱ぎながらそう訊いてきた。

「うん!」


 私は、この瞬間を待っていたような気がする。

 照明を落とした二人っきりの店内。

 普段は忙しそうでゆっくり話をする事もままならない。

 こんな日は、飲んだり食べたりするより、ゆっくりと腰を落ち着けて深い話がしたかった。


 人気者の店長を独り占めできる優越感に、自然とお酒も進んでいった。


 あれから、二年も経っていないのに、どんな話をしていたのかなんて、もう思い出せない。

 そろそろ桜が散るね。そんな話をしていたような気もする。


 鮮明に記憶にあるのは、カウンターの上の食べきれないほどの料理と、一升瓶の日本酒。


 そして――。


 深く、熱いキス。


 唇って柔らかいんだ。

 そんな事を考えていた。


 熱を帯びる唇が、いたる所にキスを落とす度、酔いが回り呼吸が荒くなる。

 初めての怖さはなかった。

 私は拒む事もせず、されるがまま身をゆだね、まんまと快楽へと落ちていった。


 カウンターから座敷の個室に場所を移して、私たちは結ばれた。

 ざらついた畳の感触。いぐさの匂い。

 優しくて、冷たい手。

 硬くつるんとした肌から発せられる男の匂い。

「好きだよ、和佳子ちゃん」と何度も何度も耳をかすめる吐息まじりの声。


 五感に鮮明に刻まれた記憶が私の宝物だった。

 初めて結ばれた痛みすら、愛おしかった。


「しちゃったね」

 彼の腕の中でそう言うと

「しちゃったね」

 とオウム返し。


「初めてだったんだから。責任取ってよ」

 冗談交じりの口調だったが、私は本気だった。


「え?」


 隼人は少し驚いたが、すぐに私を抱いている腕に力を込めた。


「俺で、いいの?」


「何それ?」

 笑い交じりに問い返すと

「いや、和佳子ちゃんはてっきり一流企業の商社マンかなんかと結婚するんだろうなって思ってたから。俺は高卒で学もないし、金も、あんまりないよ。家柄も大した事ないし」


『責任』という言葉は、隼人に重くのしかかったらしい。


「私を、名家のお嬢様か何かだと思ってる?」


「いや……俺からしたら高嶺の花でしょ」

 隼人は、恥ずかしそうに笑った。


「けど、初めて見た時から、いいなって思ってた。君とこんな風になれるなんて思ってなかったよ」


「私も、初めて見た時から素敵な人だなって思ってたよ。初めての人が、隼人さんでよかったな」


「じゃあ、改めて、俺と付き合ってください」


 淫らな寝姿のまま、真剣な顔でそう言った。


「はい。よろしくお願いします」


 月並みだけど、嬉しかったな。

 この幸せを、全世界に向けて大声で叫びたい気分だった。


『私にも彼氏ができたー!』って。


 会社員と飲食店オーナー。

 休みが合わずに、なかなかデートらしいデートができないなんて不満もあったけれど、私達は順調に関係を深めていった。


 付き合い出して、二度目の春を迎えた頃の事。


 なごみ庵には、新しいアルバイトが入った。

 訳ありで、定時制高校の通信科に通う17歳の女の子だ。

 隼人は彼女を「みそのちゃん」と呼んでいた。


 訳ありだなんて、言われなければわからないほど、みそのは可愛らしく清楚な雰囲気だった。


 華奢で小さい体。拳一つ分ほど、私より背が低い。

 長い黒髪は若々しく艶を帯びていた。


 形のいい二重瞼に、大きな瞳。

 透き通るほど白い肌。

 どこかおどおどとしている様子は、小動物みたいでかわいかった。


 隼人の話によると、家庭に問題があるのだとか。


 それを差し引いても、容姿と若さが羨ましかった。


 隼人の態度が、どこかよそよそしく感じ始めたのは、この頃の事だった。

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