どうせ死ぬなら

神楽耶 夏輝

第1話

 もしもあの時、こうしていたらとか。

 もっと、ああしていたらとか。

 今、この瞬間、もっと幸せだったんじゃないか。

 せめて、もっとスッキリした気持ちでこの瞬間を迎えていたのではないか、なんて。


 そんな風に思った事、ない?


 自分の中の誰かに、そんな風に問いかけながら、私はカッターの刃を左手首に当てた。


 もしもあの時、あいつをひと思いに殺していたら。

 せめて、胸倉を掴んで一切合切の恨みつらみを耳元で叫んでやっていれば。

 差し出された札束を、あいつの顔面目掛けて投げつける事が出来ていたら――。


 あたしはもっと晴れ晴れとした気持ちで、今日この命にさよならを告げる事ができたのではないか。


 もう枯れはてたと思っていた涙が、またせり上がって来て頬を濡らした。


 なみなみとぬるま湯を湛えたバスタブ。ぺたんと座り込んだ床には湯水があふれ出している。

 空になった銀のブリスターパックが笹船のように、排水溝に向かって流れていく。

 10錠のサイレースを一気に呑み込んだ私に、もう怖い物はない。


 朦朧とする意識の中で、青く浮き出す手首の筋を断ち切った。

 じりっと灼けつくような痛みと共に、じわっと膨らむドス赤い血液は、バスタブの中でぬるま湯に溶けていった。

 こんな時でも、痛みって感じるんだ。

 斜め上辺りで浮遊する意識の中で、そんな事を思う。


 脳裏には、走馬灯のように幼い頃の記憶が映し出された。


 夏まつりの縁日で、父がしぶしぶ買ってくれた大好きだったキャラクター付きのギラギラした風船は1000円もした。

 命を宿しているかのように、空へ空へと逃げたがる。

 ヒモを握る手は小さくて不器用で、逃げていかないよう、しっかりと掴んでいたのに。

 数分と経たないうちに――。


「あ!」と言った時にはもう遅く。

 勢いよく空に舞い上がった。


「いやーーー!!!」

 騒ぎ立てる私を、父は抱きかかえ空に向かって高く持ち上げた。

「届くか?」


「届かない」


「仕方ない。縁がなかったんだ。諦めろ」

 その声は優しくて温かい。だけどその言葉はとてつもなく冷酷に感じた。


 ―—縁がなかった。



 隼人は初めての男だった。

 後生大事にとっておいたわけではなかったが、たった一つの操を捧げた相手だ。

 当時、私は23歳だった。

 大学を卒業し、新卒で勤めた旅行代理店にもようやく慣れて、順風満帆な人生を送っていた。


 彼氏がほしい。

 恋がしたい。

 女子同士で集まれば、そんな言葉が自然とこぼれだす。

 本気でそう思っていたわけではなかったのかもしれない。

 周りがそんな事を話すから、調子を合わせたに過ぎなかった。

 別に男なんていなくたって、毎日が楽しくて充実している。

 そんなKYな異論で友達の枠からはみ出すほど、強くない。


 隼人に出会ったのは同僚に誘われて、初めて行った居酒屋『なごみ庵』だった。

 その居酒屋の店長をしてたのが、当時28歳だった隼人だ。


 彼は東京育ちだったが、両親は鹿児島の人らしく、彫が深く目鼻立ちのはっきりした洋顔で、黙々と包丁を捌く姿はどこか近寄りがたさを感じた。


 ふとした瞬間に見せる、ふにゃんと笑った顔は人懐っこく、たまらなく可愛らしい。

 いつの間にか私はその店の常連になった。


 最低でも週に3回は通う。そんな日が3ヶ月ほど続いたある夜の事。


 会社で小さなミスが続き、上司に散々嫌味を言われ、私のプライドは地の底に落ちていた。

 もう辞めてしまおうか、とも思うほどに、打ちひしがれていた。


 こんな日は、なごみ庵で和もう。

 都合よく理由をこじつけて、足取り軽くなごみ庵、いや、隼人の元へと向かった。

 彼の事を考えると、不思議と気持ちが晴れ渡るのだから不思議だった。


 いつもは賑やかな声が外まで聞こえていた店の前は、7時という繁忙時間帯にも拘わらず閑散としているように感じた。

 暖簾は出ているが、灯りがいつもより暗い。

 看板の電気は消えている。


 引き戸を開けようと、手をかけた瞬間、ガラガラガラっと音を立て、まるで自動ドアのように開かれた。

「うわっ! びっくりした」

 突如現れた白衣姿の隼人に、一瞬仰け反る。


「うおっ! 和佳子ちゃん!」 


 お互いの不意に驚く顔が面白すぎて、馬鹿みたいに笑ったっけ。


「ごめんごめん。驚かせた」


「こっちこそ、ごめんなさい。急に来ちゃって」


「え? いつも急じゃん。どうぞどうぞ」


 彼はそう言いながら、暖簾を下ろした。


 店内は誰もいない。

 半分電気が消えていて、調理場と繋がっているカウンターだけが、ぼんやりと照らされている。


「どうしたんですか?」


 いつもと違う雰囲気に、戸惑った。


「それがさぁ、バイトが急にやめちゃって。もう一人の男の子もインフルで休むって。一人じゃどうしようもないからね。今日は閉めようと思って」


 カウンターの上には『臨時休業』と書かれた、A4サイズのコピー用紙が置かれていた。


「あ、じゃあ、出直そうかな」


 そう言うと


「いや、いいよ。せっかく来てくれたんだから、座って」

 そう言って、カウンターの椅子を引いた。


「鹿児島から地鶏を仕入れたんだ。たたきにするから食べてよ。あ、生物大丈夫?」


「大丈夫! 地鶏のたたき、大好き」

 私は遠慮なく足つきの悪い椅子に腰かけた。


 その時。

 ふにゃんと、嬉しそうに笑った彼の顔が、まだ脳裏にやき付いていて、どうしようもなく胸を締めつける。


 大きくてゴツゴツした手はいつも冷たくて。

 私に触れる時はいつも優しかった。


 どうせ死ぬなら――。


 もう一度あの手に抱かれたかった。

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