第伍章「新緑の風に乗せて」

新緑の香りが漂う季節。柔らかな日差しが、映画部の使用教室の窓から差し込んでいた。古びた木製の窓枠が、長年の歴史を物語るように、かすかにきしむ音を立てている。渡橋川瀬は、その音に耳を傾けながら、深呼吸をした。胸の中で、期待と不安が交錯する。


「mark5」の企画書を広げる渡橋の手に、かすかな震えが走る。紙の端が少し折れ曲がっているのが気になったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。彼は喉の奥がカラカラに乾いているのを感じながら、声を絞り出した。


「次の映像作品はこういうのを作ろうと思う」


渡橋の声には、春の陽気とは対照的な緊張感が漂っていた。教室の空気が、一瞬凍りついたように感じる。部員たちの視線が企画書に集中する。その視線の重さに、渡橋は少し身を縮めそうになる。


教室の隅に置かれた古びたビデオカメラが、まるでその場の空気を記録しているかのようだった。そのレンズに映る光景は、きっと今の渡橋の不安と期待が入り混じった表情を映し出しているのだろう。


「これは、ある高校の写真部を舞台にした物語なんだ」渡橋は説明を始めた。言葉を選びながら、彼は慎重に話を進める。「主人公の椿山翔真は、写真に情熱を持つ高校2年生。でも、自信がなくて悩んでいる」


その言葉を口にしながら、渡橋は自分自身の姿を重ね合わせているような気がした。まるで鏡に映った自分を見ているかのような感覚に襲われる。


隣に座る濱本が、首を傾げながら言った。「へぇ、なんか結構込み入ってそうだぞ」


その言葉に、渡橋の心臓が一瞬早鐘を打つ。しかし、濱本の目には興味の色が浮かんでいるのを見て、少し安堵した。少なくとも、完全な拒絶ではないようだ。


田中は、窓の外の満開の桜を見つめながら呟いた。「うーん、なんか難しそう...」


その言葉に、渡橋の心に小さな失望が忍び寄る。しかし、すぐに濱本が田中の肩を軽く叩いた。


「おい、聞けよ。面白そうじゃないか」


濱本の言葉に、渡橋は心の中で小さく感謝の言葉を呟いた。彼はそんな二人のやり取りを見て、少し微笑んだ。教室に漂う古い機材の匂いと、新しい季節の香りが混ざり合う中、彼は勇気を振り絞って説明を続けた。


「物語は、写真部が廃部の危機に瀕していることから始まるんだ」渡橋は続けた。窓から差し込む陽光が、彼の表情を明るく照らしている。その光が、彼の言葉に力を与えているかのようだ。「部員はたった3人。顧問から『全国高等学校写真選手権大会で結果を出さなければ廃部』と言われて...」


塚本の目が輝いた。その瞳に映る光に、渡橋は自分たちの未来を見たような気がした。塚本の反応に、渡橋の心に小さな希望の火が灯る。


「それで、3人の部員がそれぞれ違う考え方を持っていて」渡橋は息を整えながら続ける。言葉を選びながら、慎重に話を進める。「技術や構図を重視する部長、SNS映えを気にする女子部員、そして『本当の瞬間』を捉えたいと考える翔真。この3人が衝突しながらも、互いを理解していく...」


渡橋の言葉が進むにつれ、部室の空気が少しずつ変化していった。田中の表情も、桜から企画書へと移っていく。外から聞こえる部活動の声が、彼らの物語にBGMを添えているようだった。その声に、渡橋は自分たちの青春を重ね合わせる。


「絵コンテは俺が描く」渡橋は少し躊躇いながら言った。その瞬間、長谷川の顔が脳裏をよぎり、胸に小さな痛みを感じた。実際には長谷川に頼んでいる絵コンテのことを思い出し、罪悪感が込み上げてくる。その事実を隠していることへの後ろめたさが、渡橋の心を重くする。


しかし、その事実を口にすることはできなかった。渡橋は自分の弱さを隠すように、咳払いをして続けた。「台本も書いてもいいんだけど、書きたい人いるか...?」


その言葉を発した瞬間、渡橋の心臓が高鳴る。誰かが手を挙げてくれることを祈りながら、部員たちの顔を見つめる。


しばらくの沈黙の後、塚本がおずおずと手を挙げた。その仕草に、春の柔らかな日差しが重なる。塚本の勇気ある行動に、渡橋は心の中で感謝の念を抱く。


「やれるか?」渡橋の声には、期待と不安が混ざっていた。塚本の答えが、この企画の運命を左右するかもしれない。


塚本は決意を込めて答えた。「はい、精一杯頑張ります」


その言葉に、渡橋の心に温かいものが広がる。


渡橋は少し迷った後、「わかった。任せてみよう」と答えた。その言葉には、塚本への信頼と期待が込められていた。「ただ、来週の金曜日までに形にならなかったら教えてくれ。一緒に考えよう」


塚本は力強く頷いた。その瞬間、渡橋の胸に小さな希望の芽が吹き始めた。それは、まるで校庭に植えられたばかりの若木のようだった。この希望を大切に育てていこう、と渡橋は心に誓った。


翌日の朝、大阪の街は春の陽気に包まれていた。新緑の香りが漂う中、通勤・通学の人々で溢れる駅、開店準備に忙しい商店街、そして校庭で朝練に励む部活動の生徒たち。その活気あふれる光景の中を、渡橋は少し重い足取りで学校に向かっていた。


映画部の部室に近づくと、ドアの隙間から声が聞こえてきた。渡橋は思わず足を止めた。廊下に置かれた植木鉢の若葉が、そよ風に揺れている。その葉の揺れが、渡橋の心の揺れと重なって見えた。


塚本の声が聞こえる。「やっぱり、このままだとキャラクターの輪郭がぼやけてしまいそうで...」


それに続いて濱本が言う。「じゃあ、このシーンでこんなセリフはどうだ?主人公の内面をもっと表現できそうじゃない?」


笑い声が聞こえ、田中が続けた。「おお、それいいじゃないか。なんか、俺たちみたいだな」


塚本が少し困ったように言う。「でも、渡橋先輩の意図とズレてないでしょうか...」


濱本の声には余裕が感じられた。「まぁ大丈夫っしょ」


渡橋は複雑な表情を浮かべながら、そっと立ち去った。胸の中で、期待と不安が入り混じっていた。それは、まるで春の空のように変わりやすい感情だった。部員たちの熱心な議論を聞いて嬉しく思う反面、自分の意図とは違う方向に進んでいくのではないかという不安も感じる。


その日の夕方、DECISIONUTSの定例会が土井の部屋で行われていた。完成したワンシーンの上映が終わると、部屋中が興奮に包まれた。


「おぉー」

「すごいな、これは」

「さすがだ」


メンバーたちの感嘆の声が飛び交う中、渡橋はそれを遠目に見ていた。彼の心の中では、映画部での出来事と目の前の光景が重なり合い、複雑な感情が渦巻いていた。それは、まるで五月の空に浮かぶ雲のように、形を変えながら流れていく。


ふと、渡橋は映画部のLINEグループを開いた。そこには相変わらずの他愛もない会話が続いている。しかし、その中に「mark5」についての話題を見つけ、渡橋は少し安堵の笑みを浮かべた。部員たちが真剣に作品について考えてくれていることが伝わってきて、心が温かくなる。


「渡橋くん」


土井から声をかけられ、渡橋は我に返った。「あ、はい」


メンバーたちの熱のこもった議論が続く中、渡橋の心は少しずつ「mark5」の世界へと引き寄せられていった。それは、まるで写真に焦点を合わせていくように、ゆっくりとだが確実に形を成していく感覚だった。


夕暮れ時、渡橋は長谷川の教室に向かった。夕日に照らされた廊下を歩きながら、彼は「mark5」の主人公、椿山翔真の気持ちを想像していた。自信のなさと情熱の狭間で揺れる翔真の姿が、まるで自分自身のように思えた。


「帰ろうぜ」


長谷川は少し驚いた様子で答えた。「お、おう...」


二人は並んで下校路を歩き始めた。夕日に照らされた街並みが、オレンジ色に染まっている。新緑の木々が、その光景に深みを与えていた。その美しい風景に、渡橋は「mark5」のワンシーンを重ね合わせる。


長谷川が突然口を開いた。「なあ」


「ん?」


「今の映画部で、お前が思い描くような作品が作れると思うか?」


渡橋は言葉に詰まった。長谷川の鋭い質問に、自分の本当の気持ちを整理する。「それは...難しいかもしれない。でも、みんなそれぞれの形で頑張ってるんだ」


長谷川の表情に心配の色が浮かぶ。「無理はするなよ。必要なら手伝うから」


渡橋は黙り込んだ。頭の中では、DECISIONUTSのメンバーたちの顔が浮かんでは消えた。そして、映画部の仲間たちの顔も。二つの世界の狭間で揺れる自分の姿が、鮮明に感じられた。


「...ありがとう。でも、まずは自分たちでやってみるよ」


長谷川は不思議そうに渡橋を見た。「何かアイデアでもあるのか?」


「ああ、なんていうか...」渡橋は言葉を選びながら答えた。「今やろうとしている作品の物語と、俺たちの今の状況が重なって見えてきたんだ」


渡橋の心の中で、新たなビジョンが形を成し始めていた。「mark5」の物語と、自分たちの現状が重なり合う。写真部の危機と映画部の危機。そして、それを乗り越えようとする主人公たちの姿。


渡橋は、自分たちもまた「mark5」の登場人物たちと同じように、試行錯誤を重ねながら前に進もうとしているのだと気づいた。それは、まるで写真のピントを合わせるように、少しずつ自分たちの姿がはっきりしてくる過程なのかもしれない。


夜空に最初の星が瞬き始めた頃、渡橋は自室で再び「mark5」の企画書を広げていた。

椿山翔真の姿に、自分自身を重ね合わせる。写真に対する情熱と自信のなさ。仲間との衝突と理解。そして、最後に見出す本当の瞬間。


渡橋は、ペンを走らせながら考えた。この物語は、単なる架空の話ではない。それは、まさに今の自分たちの姿そのものなのだと。


春風の風が窓を揺らし、新たな季節の訪れを告げているようだった。

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