第四章「円環の軌道」

朝の大阪環状線は、いつもの喧騒に包まれていた。オレンジ色の電車が、古びた線路の上をゆっくりと進んでいく。車窓から見える街並みは、まるで時が止まったかのように変わらない景色が続く。


渡橋川瀬は、揺れる車内で半ば眠りながら、この環状線の軌道が自分の人生と重なっているような不思議な感覚に襲われていた。


ガタンゴトンという車輪の音が、渡橋の耳に心地よく響く。

行き交う乗客たちの私語や、スマートフォンの通知音が車内に満ちている。

渡橋は、この環状線が毎日同じ軌道を周回し続けるように、自分もまた同じ日々を繰り返しているのではないかという思いに駆られた。


車内アナウンスが次の駅名を告げる。

渡橋は、ふと我に返り、スマートフォンを取り出した。画面には、昨夜遅くまで取り組んでいた「mark5」の企画書のメモが映し出されている。

その文字を眺めながら、渡橋は再び考えに沈んだ。


教室に着くと、すでに眠気は頂点に達していた。朝のホームルームが始まり、担任の声が遠くから聞こえてくるような感覚の中で、渡橋の意識は徐々に薄れていった。窓から差し込む陽光が、机の上に細長い影を作っている。

その影が少しずつ動いていくのを、渡橋はぼんやりと眺めていた。


「渡橋君」


顧問の声に、渡橋は飛び起きた。周りの生徒たちのクスクスという笑い声が聞こえる。教室の後ろの方では、誰かがスマートフォンで音楽を聴いているのか、かすかにJ-POPの音が漏れ聞こえてくる。


「昼休みちょっと部室に来てくれないか」


寝起きの渡橋は、ぼんやりとした頭で「あ、はい...」と返事をした。その瞬間、何か重要な話があるのではないかという予感が、渡橋の心に不安を呼び起こした。


昼休み、映画部の使用する教室に向かう渡橋の足取りは重かった。

廊下には、昼食を取りながらおしゃべりに興じる生徒たちの姿があちこちに見られる。窓の外では、校庭でサッカーをする生徒たちの元気な声が聞こえてくる。


ドアを開けると、顧問が窓際に立って外を眺めていた。

教室には、古びたビデオカメラや、使い古された三脚、そして壁に貼られた過去の作品のポスターなどが、かつての映画部の栄光を物語るように並んでいる。


「せっかくの昼休み、すまんねぇ」


顧問の声には、どこか申し訳なさが混じっていた。


「いえ、大丈夫です」


渡橋は丁寧に答えたが、内心では不安が膨らんでいた。


顧問は渡橋の方を向き、真剣な表情で話し始めた。


「映像のコンテストがいくつかあるので挑戦してみないかい?...ここだけの話、部員数とここ最近の活動状況で廃部の案が浮上していてね...賞を1つや2つ取らないと危ないかもしれない...まぁ、頑張ってくれ」


その言葉を聞いた渡橋の胸に、重たいものが沈んでいくのを感じた。映画部の存続が自分の肩にかかっているという重圧が、一気に押し寄せてきた。窓から差し込む陽光が、突然冷たく感じられた。


教室を出た渡橋は、無意識のうちに長谷川のいる教室へと足を向けていた。頭の中は混乱し、思考が堂々巡りを続けている。

その様子は、まるで朝乗ってきた環状線のようだった。同じ場所をぐるぐると回り続ける電車のように、渡橋の思考も同じ問題の周りを回り続けていた。


長谷川の教室に入ると、彼は絵を描いていた。イーゼルの上に置かれたキャンバスには、まだ完成には程遠い風景画が広がっている。絵の具のチューブや筆が散らばった机、床に広げられたビニールシート。その上に落ちた絵の具の染みが、長谷川の創作の軌跡を物語っている。


渡橋の落ち着かない様子に気づいた長谷川が声をかける。


「なにしてる?」


渡橋は言葉を詰まらせながら答えた。


「部の存続危機、映画コンテスト受賞、回避」


長谷川は呆れたように言う。「語彙力どこに置いてきたんだよ。要するに廃部をコンテストで受賞して回避しなくちゃいけないってことか?別に、あんな部が潰れて誰が困る?」


「俺が困る」渡橋の声には、自分でも驚くほどの切実さが込められていた。


「なんで?」


「...なんとなくだ...」


長谷川は渡橋の曖昧な答えに首を傾げた。「ふーん...あっそ。で、何撮るの?」


「それを今考えている」


渡橋の目は、遠くを見つめているようだった。その視線の先には、まだ形のない作品の姿があるようだった。長谷川は、ふと何かを思いついたように言った。


「いい事教えようか?」


渡橋が振り向くと、長谷川は続けた。


「自分の身を削る」


「どういう事?」


「やけに自分の知らない事を題材にした所で遠くなるだけだ。もっと自分の身の事を描けば良いものは作りやすい」


渡橋は長谷川の言葉に、何か光明を見出したような気がした。「なるほど...」


長谷川は何か言いかけて、「ただ...」と言葉を濁した。


「どうした?」


「いや、なんでもない」


渡橋は長谷川の様子に違和感を覚えたが、それ以上は追及しなかった。教室の窓からは、校庭で部活動に励む生徒たちの姿が見える。その光景を見ながら、渡橋は自分たち映画部の現状を考えずにはいられなかった。


「まぁ、いいや。そろそろ部室に行きますか」


「お、おぅ...」


長谷川の返事には、どこか心配そうな調子が混じっていた。


映画部の使用教室に向かう途中、渡橋の頭の中では様々なアイデアが渦巻いていた。廊下の壁には、文化祭の準備を告げるポスターが貼られている。そのポスターを見ながら、渡橋は映画部の作品を文化祭で上映する日のことを想像した。

しかし、教室のドアを開けた瞬間、その思考は一気に冷めてしまった。


二年生たちは、相変わらずしょうもない冗談を言い合っている。渡橋が入ってきても、彼らは全く気にする様子もない。教室の隅には、使われていないカメラや編集機材が積み重ねられている。それらは、かつての映画部の熱気を物語るようでいて、今はただの置物と化していた。


渡橋は、ふと彼らに問いかけた。


「なぁ、お前達にとって映画ってなんだ?」


濱本は、何も考えていないかのように答えた。「なんかよく分からないけど面白いっす」


田中も同調するように言う。「特に見られてウケたら凄い嬉しいっすね...」


塚本だけは黙っていた。その沈黙に、渡橋は何か希望を見出そうとしていた。


「そうか...」渡橋の声には、少し落胆が混じっていた。


濱本は笑いながら言った。「急にどうしたんすか」


「なんでもない...」


渡橋は椅子に座り、ネタ帳を開いた。頭の中で様々なアイデアが浮かんでは消えていく。窓の外では、夕暮れの空が徐々にオレンジ色に染まっていく。

その光景は、朝見た環状線の車体の色を思い出させた。


気がつくと、周りには誰もいなくなっていた。


「あれ?」


「おーい、もう帰れよ」先生の声に、渡橋は我に返った。


「あ、すいません」


慌てて帰る渡橋の背中には、何か重いものが乗っているようだった。それは、映画部の未来と、自分自身の創作への思いが混ざり合った、複雑な感情だった。


夕方の大阪環状線の車窓から見える景色は、朝とは違う色合いを帯びていた。

オレンジ色の電車は、夕陽に照らされてより一層鮮やかに輝いている。渡橋は、その景色を眺めながら、今日一日の出来事を振り返っていた。


車内には、仕事帰りのサラリーマンや学生たちが疲れた様子で座っている。スマートフォンを見る人、居眠りする人、窓の外を眺める人。

それぞれが、自分だけの世界に浸っているようだった。


渡橋は、この環状線の軌道が自分の人生と重なっているような感覚を再び覚えた。毎日同じ場所を周回し続けるこの電車のように、自分もまた同じ悩みを抱えて堂々巡りしているのではないか。しかし、どこかで新しい駅に降りる勇気さえあれば、その循環から抜け出せるのかもしれない。


自室に戻った渡橋は、椅子に座り、スマートフォンを手に取った。

DECISIONUTSのグループLINEでは、メンバーたちが活発に会話を交わしている。新しい企画のアイデアや、撮影機材の話、最新の映画の感想など、創作への熱気に満ちた会話が続いている。しかし、渡橋は会話に参加する気にはなれなかった。


カメラを手に取り、じっと見つめる渡橋。「そうか...写真も映像だよな...」


その瞬間、渡橋の中で何かが動いた。スマートフォンの画面に映る土井のメッセージ。「映画コンテストで賞を取ろう」


渡橋は、そのメッセージを見つめながら、自分の立ち位置について考えを巡らせた。映画部と DECISIONUTS、その両方の狭間で揺れる自分。しかし、その葛藤の中にこそ、新しい創作の芽があるのではないか。


翌日、長谷川の教室で再び二人は顔を合わせた。朝日が教室に差し込み、黒板や机に長い影を落としている。


「調子はどうだ?」長谷川の声には、昨日の心配そうな調子が残っていた。


「題材がやっと決まった。多分写真部が全国大会を目指す物になりそうだ。丁度面白そうな大会があって色々とやれそうだ。お前のおかげだよ」


長谷川の表情が少し明るくなる。「そうか、なら良かった。ところで、台本や絵コンテはどうする?」


「できれば台本は後輩に...いや、でも絵コンテはお前に手伝ってもらう」


「まぁそうなるか...」


渡橋は、長谷川のスケッチブックに目をやった。

そこには、昨日見た風景画が少し進んでいる。色彩が加わり、より生き生きとした景色が広がっていた。


「それにしてもお前は相変わらず下手な絵を...うまいんだから、もっと上手く描けよな」


長谷川は少し不機嫌そうに答えた。「絵は最高の自己表現だ。ごますりの絵なんて必要ない」


「もう、何十回も聞いたよ」渡橋は呆れたように言った。


「そういうお前も描いたらいいのに」


「俺は描かないんじゃない、絵が描けないの」


長谷川は少し驚いたように渡橋を見た。「結構いい味あるんだけどなぁ...」


「いつの話だよ」渡橋は笑いながら言った。


この会話の中で、渡橋は自分の中に眠っていた何かが少しずつ目覚めていくのを感じていた。写真部を題材にした映画。それは単なるコンテスト用の作品ではなく、自分自身を見つめ直す機会になるかもしれない。


教室の窓から差し込む陽光が、二人の影を長く伸ばしていた。その光の中に、渡橋は新たな可能性を見出していた。映画部の存続、コンテストでの受賞、そして自分自身との対話。これらすべてが、彼の前に広がる未知の道のように思えた。


渡橋は、カバンの中の「mark5」の企画書に手を触れた。

そこには、まだ形にならない思いが詰まっている。しかし、それらの思いが少しずつ形を取り始めているのを感じていた。


「よし、行こうか」渡橋の声には、新たな決意が込められていた。


長谷川は黙ってうなずいた。二人が教室を出る頃には、夕暮れの光が廊下を赤く染めていた。その光の中を歩きながら、渡橋は自分の歩むべき道を見出したような気がしていた。


放課後の校舎は、部活動に励む生徒たちの声で賑わっていた。音楽室からはピアノの音が漏れ聞こえ、体育館からは部活動の掛け声が響いてくる。それぞれが自分の道を必死に歩んでいる。渡橋は、その空気に触れながら、自分もまたその一員なのだと実感した。


映画部の部室に向かう途中、渡橋は立ち止まり、窓の外を見た。校庭では、陸上部の生徒たちがトラックを走っている。その姿を見ながら、渡橋は自分の作品のイメージを膨らませていった。


写真部の物語。それは単に写真を撮る技術を競うだけの話ではない。一瞬を切り取ることの意味、そしてその一瞬に込められた思いや感情。それらを映像で表現する。その過程で、主人公は自分自身と向き合うことになる。それはまさに、渡橋自身の姿でもあった。


部室のドアを開けると、塚本が一人で座っていた。彼は何かメモを取っているようだった。


「お、渡橋先輩」

塚本の声には、少し驚きと期待が混じっていた。

「塚本か。何してるんだ?」

「あ、これは...」塚本は少し躊躇した後、続けた。「映画部のこれからのことを考えていたんです。

顧問の先生から聞いたんですが、部の存続が危ないって...」

渡橋は驚きながらも、複雑な思いを感じた。塚本もまた、部の危機を感じ取っていたのだ。


「そうか。何か思いついたのか?」

塚本はうなずき、メモを見せた。「まだ漠然としたアイデアですが、私たちの日常を題材にした作品はどうかと思って...」


渡橋はそれを聞きながら、自分の「mark5」の企画との共通点を見出していった。塚本のアイデアには、彼なりの視点と感性が詰まっていた。

「なるほど、面白いな」

渡橋の言葉に、塚本の顔が明るくなった。

「本当ですか?」

「ああ。実は俺も似たようなことを考えていたんだ。写真部を題材にした物語なんだが...」


渡橋は、自分の「mark5」の企画について簡単に説明した。

塚本は熱心に聞き入り、時折うなずいていた。


「先輩の企画、すごくいいと思います!それに、僕のアイデアとも組み合わせられそうですね」

二人は熱心に話し合い始めた。


窓の外では、夕日が沈みかけていた。その赤い光が、部室内を温かく照らしている。

渡橋は、この瞬間に自分が大きく前進したことを感じていた。それは、環状線の軌道から一歩外に踏み出したような感覚だった。

まだ不安はあるが、確かな手応えがあった。


その夜、渡橋は再び「mark5」の企画書を開いた。

塚本とのやり取りを思い出しながら、新たなアイデアを書き加えていく。

一瞬一瞬を切り取る写真。そして、その瞬間と瞬間をつなぎ合わせて物語を紡ぐ映画。

二つの表現方法の間で揺れ動く主人公の姿が、徐々に明確になっていった。


夜が更けていく中、渡橋の心の中では新たな物語が形を取り始めていた。それは、後ろ向きに見えて実は前に進む物語。自分の内側を深く掘り下げることで、新たな世界を切り取る物語。写真のシャッターを切るように、自分の人生の一瞬一瞬を捉えていく物語。


渡橋は、その物語の先に広がる景色を想像した。それは、まだぼんやりとしか見えない。しかし、確かにそこにある。彼の目指すべき光景が。


窓の外では、夜の街が静かに息づいていた。遠くに見える街灯の明かりが、まるで星のように瞬いている。渡橋は、その光景を見ながら、自分の作品もまた誰かの心に小さな光を灯すことができるのではないかと思った。


そして、彼は再び環状線のことを思い出した。毎日同じ軌道を周回し続けるその電車は、決して同じ場所に留まっているわけではない。

一周するごとに、少しずつ前に進んでいる。それは、螺旋のような軌跡を描いているのだ。


渡橋は、自分もまたそのような軌跡を描いているのかもしれないと感じた。一見すると同じ場所を回っているように見えても、実は少しずつ前に進んでいる。そう考えると、これまでの日々も無駄ではなかったように思えた。


彼は深呼吸をして、再び企画書に向かった。これから始まる新しい挑戦。それは、自分自身との戦いでもあるだろう。しかし、その先には必ず何かがある。渡橋は、その「何か」を見つけるために、ペンを走らせ続けた。


夜が明けるころ、渡橋はようやくペンを置いた。疲れた表情の中に、小さな満足感が浮かんでいた。彼は窓を開け、朝日を浴びながら深呼吸をした。


新しい一日の始まり。渡橋の心の中で、何かが動き出していた。後ずさりするように見えて、実は大きく前進している。そんな不思議な感覚と共に、彼は新たな一歩を踏み出す準備を始めていた。


朝日に照らされた街を見下ろしながら、渡橋は自分の歩むべき道について考えを巡らせる。映画部での挫折、DECISIONUTSでの新たな挑戦、そして自分自身との向き合い。これらすべてが、彼を新しい方向へと導いているような気がしていた。


彼は、新たな決意を胸に、朝の準備を始めた。

今日から、彼の新しい物語が始まる。後ずさりしながらも、確実に前へと進んでいく物語が。


そして、渡橋は再び大阪環状線に乗り込む。

オレンジ色の車体が、朝日に照らされて輝いている。車窓に映る自分の姿を見つめながら、渡橋は静かに微笑んだ。

この円環の軌道の中で、彼は確実に前へと進んでいるのだ。

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