第参章「慣れない、狭間」

第三章:交錯する世界


夕暮れの教室で、渡橋川瀬と長谷川蒼人は無言のまま並んで座っていた。窓から差し込む夕日が、二人の影を長く伸ばし、それはまるで小学生の頃から続く二人の絆を表しているかのようだった。その影は、二人の歩んできた道のりを静かに物語っているようで、渡橋はふと懐かしさを覚えた。


教室の空気は油絵の具とターペンタインの匂いで満ちており、その独特の香りが二人の沈黙を包み込んでいる。その香りは、長谷川の創造の軌跡を感じさせ、渡橋の心に何か切ないものを呼び起こした。


外では、下校する生徒たちの声や、部活動を続ける生徒たちの声が聞こえる。グラウンドからは野球部の掛け声が風に乗って届く。その声々は、渡橋たちの高校生活の日常を彩る音楽のようだった。桜の花びらが、ときおり窓を通して教室に舞い込んでくる。その儚さに、渡橋は自分たちの青春の一瞬一瞬を重ね合わせた。


渡橋は、その花びらを指でそっと触れ、その柔らかさを感じていた。その感触は、彼の心に微かな安らぎをもたらした。長谷川のキャンバスに描かれかけの風景画が、二人の背後でまだ湿った絵の具の匂いを漂わせている。その絵は、長谷川の内なる世界を映し出しているようで、渡橋はその深さに魅了されていた。


この静寂の中で、渡橋は少しずつ心を落ち着かせていった。長谷川の存在が、無言のまま彼に安心感を与えているようだった。二人の間には、言葉以上の理解が流れているようで、それは小学生の頃から築き上げてきた友情の証だった。その絆の強さを感じながら、渡橋は自分の中に芽生えた新たな決意を確かめていた。


やがて、渡橋はゆっくりと口を開いた。「全く、なんなんだあの映画は!」


思わず大きな声が出てしまう。その声には、これまで抑えていた感情が一気に溢れ出ていた。長谷川は、絵筆を置き、ゆっくりと振り返った。その目には、友人への深い理解と同情が宿っていた。長谷川の眼差しは、渡橋の心の奥底まで見透かしているかのようだった。


「また、どうしようもないクソ映画を作ったのか?」長谷川の言葉には、冗談めかした調子と共に、真剣な心配が滲んでいた。


渡橋は、窓際の机に乱暴に腰掛けると、髪を掻き乱した。その仕草には、怒りと共に深い挫折感が滲んでいた。教室の空気が、その感情の重さで押しつぶされそうになる。渡橋の内なる嵐が、この静かな空間を揺るがしているようだった。


「俺は後ろ向きでも前に進めば新天地があるって事をテーマにしようって提案しただけで演者以外は何もしてない‼︎」渡橋の声には、自分のアイデアが歪められたことへの悔しさが込められていた。その言葉には、彼の創作への情熱と、それが理解されない苦しみが詰まっていた。


長谷川は、静かに絵具を拭き取りながら答えた。「お前じゃなくても映画部って括りで鼻で笑われる、そういうもんだ」その言葉は冷静だったが、その奥には友人を励ましたいという思いが隠れていた。


その言葉に、渡橋の表情が一瞬曇る。彼は窓の外を見つめ、遠くを見るような目で呟いた。「あーーあれを文化祭で流すのかぁ…変装して学校行こうかな…」その言葉には、自嘲の念と共に、どこか諦めの色が混じっていた。


長谷川は、軽く笑いながら答える。「逆に馬鹿にされるぞ…それよりもクソ映画よりも向こうの方が大変なんじゃないのか?」長谷川の言葉には、渡橋の気持ちを別の方向に向けようという配慮が感じられた。


「ん?」渡橋は一瞬考え込む。その表情には、何か気づきかけたものがあるようだった。


「あぁ、あっちか?まぁ、撮影も順調に終わったし後は編集…それがまた大変でさぁ、水しぶきや爆発CGでやろうって…」渡橋の声には、少し誇らしげな調子が混じっていた。


長谷川の眉が少し上がる。「あぁ、わかったからわかったから、それって本当に出来んのか?」その言葉には、友人の能力を信じつつも、現実的な懸念も含まれていた。


渡橋は少し誇らしげに胸を張る。「理屈だけは分かってる」その言葉には、自信と不安が入り混じっていた。


「すげぇな、お前は」長谷川の声には、半分冗談、半分感心した調子が混ざっていた。その言葉は、渡橋の心に小さな自信を灯すようだった。


渡橋は肩をすくめる。「でも理屈と現実は違うからなぁ…あ、今日はもう帰るわ」その言葉には、現実に直面する覚悟と、同時に逃げ出したい気持ちが混ざっていた。


「ん、あぁまたな」長谷川は、友人の背中を見送りながら、何か言いかけて止めた。その瞬間、二人の間に流れる沈黙は、言葉以上に多くのことを語っているようだった。


渡橋が美術室を出ていくと、長谷川は再びキャンバスに向かう。しかし、筆を持つ手は止まったままだった。友人の悩みを、彼なりに受け止めようとしているかのようだった。長谷川の心の中で、渡橋の言葉が反響し続けていた。


夕暮れの街を歩きながら、渡橋の頭の中では様々な思いが渦巻いていた。映画部での挫折。その痛みは、まだ生々しく彼の心に刻まれていた。


DECISIONUTS(デジショナッツ) は、昨年卒業した元映画部長の土井が立ち上げた自主制作映画チームだ。卒業した土井をきっかけに、麻間の後の部内分裂によって次々と映画部から離れた才能あるメンバーたちが集まり、独自の作品制作に挑んでいた。その存在は、渡橋にとって憧れであると同時に、自分の居場所を失ったという感覚を強めるものでもあった。


DECISIONUTSでの新たな挑戦。渡橋は、かつての先輩や同級生たちが作り上げたこの新しい環境に、期待と不安を抱きながら足を踏み入れていた。その一歩は、彼にとって大きな勇気を必要とするものだった。


両方の世界の狭間で揺れる彼の心は、まるで暗闇の中を彷徨うようだった。映画部での居場所の喪失感と、DECISIONUTSでの新たな可能性。この相反する感情が、渡橋の中で激しくぶつかり合っていた。その葛藤は、彼の歩みを時に遅らせ、時に加速させた。


街灯の明かりが、彼の影を長く伸ばす。行き交う人々の中で、渡橋はますます自分の孤独を感じていた。しかし、その孤独感の中にも、何か新しいものを生み出す可能性を感じていた。それは、まだ形のない、しかし確かに存在する希望の芽のようだった。


土井勇輝の自室に着くと、すでにDECISIONUTSの会議は始まろうとしていた。部屋には独特の緊張感が漂っている。壁には映画のポスターが所狭しと貼られ、机の上には古今東西の小説や映像に関する書物が並んでいた。その光景は、渡橋の心に創作への渇望を呼び起こした。


「という事で本チーム初の長編プロジェクトの一作目の『明日の神話』は編集を残すだけとなった…しかし、これからが正念…」土井の言葉が途切れたところで、渡橋は部屋に入った。彼の姿を見て、土井の目に一瞬鋭い光が宿る。その眼差しに、渡橋は少し身を縮める。その瞬間、彼は自分がまだこの場所に完全には馴染めていないことを痛感した。


「こんばんわ」渡橋の声は、自分でも驚くほど小さかった。


一同が振り返り、「よう」と声を掛ける。その瞬間、渡橋は二つの世界の違いを痛感した。ここには、彼の情熱を理解し、共有できる仲間がいた。しかし同時に、この場所が本当に自分の居場所なのかという疑問も湧いてくる。その矛盾した感情が、彼の心を揺さぶった。


坂元拓哉が眠そうな目をこすりながら言う。「じゃあ、そろそろ始めようか」その言葉とともに、会議が本格的に動き出す。


会議が始まり、「明日の神話」の編集、特にエフェクトや3DCGに関する熱い議論が交わされる。小林和也が熱心に意見を述べる中、宝持健太は黙々とコンセプトアートをスケッチしていた。その様子を見ながら、渡橋は自分の立ち位置を探っていた。


「ここの爆発シーンだけど、もっとリアルにできないかな」小林が言う。その言葉に、渡橋は自分のアイデアを重ね合わせた。


坂元が眠そうな目を少し輝かせて答える。「ああ、新しいVFXツールを使えば、もっと迫力が出せるはずだ」その言葉に、渡橋は技術の進歩と自分の知識のギャップを感じた。


渡橋は、その議論に加わりながら、徐々に自分の居場所を見出していくような感覚に包まれていった。彼の提案に、北浦明が音楽の観点から意見を述べる。


「その爆発のタイミングに合わせて、音楽にも衝撃的な要素を入れられそうだな。ちょっと実験的な音を使ってみたいんだ」北浦の目は輝いており、その表情からは音楽への情熱が伝わってきた。


渡橋は、仲間たちのアイデアを聞きながら、自分もこのチームの一員であることを実感し始めていた。それは、彼にとって新しい希望の光のようだった。


土井は、メンバーたちのアイデアを聞きながら、時折「なんか、違うんだよねぇ」と呟く。その度に、チームは新たなアプローチを模索する。その様子を見ながら、渡橋は土井のリーダーシップの強さを感じると同時に、その裏に隠された何かを感じ取っていた。それは、渡橋自身の中にある創作への欲求と重なるものだった。


夜が更けていく中、渡橋の心の中で何かが変化し始めていた。映画部での挫折は、彼に新たな道を示唆しているのかもしれない。後ろ向きに見えても、実は前に進んでいる。その逆説的な真理に、渡橋は少しずつ気付き始めていた。それは、彼の中で芽生えた新たな希望の形だった。


会議が終わり、夜道を歩きながら、渡橋は空を見上げた。星空の下で、彼は自分の未来について思いを巡らせた。映画への情熱は消えていない。ただ、その表現方法が変わろうとしているだけなのかもしれない。その思いは、彼の心に新たな可能性の扉を開いていった。


家に帰り着いた渡橋は、部屋の机に向かった。そこには、彼が一年生の時から構想を練っていた企画書が置かれていた。

「mark5」と名付けられたその企画は、写真部を題材にした物語だ


タイトルはまだ決まっていない。「mark5」仮名という名は、この企画が大きな変更を4回繰り返し、今の形になったことを示している。


渡橋は企画書に目を通しながら、自分の成長を感じていた。

一年以上前に書いた最初の構想と比べると、物語の深みが増している。主人公の心の動きがより繊細に描かれ、写真を通じて見る世界がより鮮明になっている。


企画書の隅には、小さなカメラのスケッチが描かれていた。それは、主人公が愛用するカメラであり渡橋自身が愛用しているカメラでもあった。

渡橋は、そのスケッチをなぞるように指でなぞった。

「写真って、不思議だよな」

彼は独り言を呟いた。一瞬を切り取り、永遠に残す。

それは、映画とはまた違った魅力がある。渡橋は、自分がなぜ写真部を題材に選んだのか、改めて考えていた。


渡橋は、しばらくその企画書を見つめていた。かつての自分の情熱が、そこには詰まっている。写真を通じて人々の心を捉える主人公の姿。それは、渡橋自身の理想でもあった。


彼はペンを手に取り、企画書に新たな要素を書き加え始めた。

映画部での経験、DECISIONUTSでの学び、そして今の自分の心境。それらすべてを織り交ぜながら、物語は少しずつ形を変えていく。


夜が明けるころ、渡橋はようやくペンを置いた。疲れた表情の中に、小さな満足感が浮かんでいた。彼は窓を開け、朝日を浴びながら深呼吸をした。


新しい一日の始まり。渡橋の心の中で、何かが動き出していた。後ずさりするように見えて、実は大きく前進している。

そんな不思議な感覚と共に、彼は新たな一歩を踏み出す準備を始めていた。


朝日に照らされた街を見下ろしながら、渡橋は自分の歩むべき道について考えを巡らせる。

映画部での挫折、DECISIONUTSでの新たな挑戦、そして自分自身との向き合い。

これらすべてが、彼を新しい方向へと導いているような気がしていた。


「後ろ向きでも前に進む」という言葉が、彼の心の中でリフレインする。それは単なる映画のテーマではなく、彼自身の人生哲学になりつつあった。


渡橋は、机の上に置かれた「mark5」の企画書を見つめる。

そこには、彼の思いが詰まっている。

しかし、あと一つ二つぐらい何かが足りてない様にも思えた。


それでも映画部での道が閉ざされたように見えても、新しい道は開かれている手応えを感じる。


彼は、新たな決意を胸に、朝の準備を始めた。

今日から、彼の新しい物語が始まる。


後ずさりしながらも、確実に前へと進んでいく物語が。

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