第弐章「後ずさりの前進」

春の柔らかな陽射しが校舎を包み込む午後。

新学期の喧騒が少し落ち着き始めた頃、映画部の部室には奇妙な緊張感が漂っていた。


窓を開けても、まだ肌寒さの残る外気が流れ込む。桜の花びらが風に乗って舞い込み、古びた机の上に静かに舞い降りる。

新しい制服に身を包んだ新入部員の塚本が、まだ少し窮屈そうな表情で部室に集まっていた。


スクリーンに「moon walk」というタイトルが大きく映し出される。渡橋川瀬は、壁際に寄りかかるようにして立っていた。彼の指先が壁の凹凸を無意識に辿っている。その仕草は、今の彼の心境そのものを表しているようだった。


映像が始まる。スクリーンには、マイケル・ジャクソンを彷彿とさせる風貌の青年が映し出された。それが渡橋演じる主人公、真池龍だ。不自然に縮れた黒髪、顔に塗られた白粉、そして身に着けた派手な衣装。すべてが渡橋を茶化すために誇張されている。


「急いで向かうぞ、ちょっとどこを向いてる」


スクリーンの中の塚本演じる、安原が焦った様子で叫ぶ。

その声には、わざとらしさが滲んでいる。


真池龍が振り返り、キザな表情で答える。

「分かっている。ムーンウォークで向かう...ポウッ!」


そう言うや否や、真池龍はぎこちないムーンウォークを始める。その動きは明らかに渡橋を揶揄するように大げさで、滑稽だ。

足の動きは不自然で、バランスを崩しそうになりながら、それでも必死にムーンウォークを続ける。真池龍がムーンウォークをしながら画面からはけていくと、安原が呆れたように呟く。

「馬鹿げている...」


この一連の流れに、二年生の濱本と田中は特に声を上げて笑い、互いの肩を叩き合っている。

その笑い声が、渡橋の耳には針のように突き刺さる。


渡橋の表情は硬く、その目には複雑な感情が宿っていた。彼の口元が僅かに震えているのは、怒りを必死に抑えているからなのか、それとも悲しみを堪えているからなのか、誰にも分からない。瞳の奥には、かつての映画への情熱が燃え尽きた後の灰のようなものが見える。


渡橋の表情は硬く、その目には複雑な感情が宿っていた。彼の口元が僅かに震えているのは、怒りを必死に抑えているからなのか、それとも悲しみを堪えているからなのか、誰にも分からない。

瞳の奥には、かつての映画への情熱が燃え尽きた後の灰のようなものが見える。


映像は続く。

画面は乱雑に切り替わり、真池龍と安原の会話や行動のすべてが、明らかに渡橋を茶化すように作られている。

シーンの繋がりも不自然で、まるで映像制作の基本すら無視されているかのようだ。

かつて 渡橋が書いた原案である企画は、内向的な主人公が自分の殻を破り、「後ろ向きでも前に進もう」と成長していく物語だった。

それが今、目の前で歪められ、後輩から自分への嘲笑の的になっている。


濱本と田中は、自分たちの「傑作」に大いに満足している様子で、時折大きな声で笑い、互いに肩を叩き合う。その笑い声が、渡橋の耳には針のように突き刺さる。

濱本が得意げに声を上げる。「見て下さいよ、渡橋先輩。俺たちの編集センス、最高でしょ?」

「そうっすね。先輩の演技も最高です。」

田中も追従するように笑う。

濱本は新入部員の塚本の方を向き、「面白いだろ?」と言った。

塚本は困惑した表情を浮かべ、視線を泳がせながら「あ...はい...」と曖昧に返事をする。

その声には明らかな戸惑いが滲んでいた。


この一連のやり取りを、渡橋は壁際で無言のまま見つめていた。

彼の目には、かつての仲間たちへの失望と、新入部員への申し訳なさが複雑に入り混じっていた。


その言葉に、渡橋は目を閉じた。

かつて抱いていた映画への情熱、仲間との絆、そのすべてが、目の前で嘲笑われているようだった。

(これが、俺たちの映画なのか)

心の中でつぶやく。その言葉に、自己嫌悪と同時に、何かを変えなければならないという強い思いが込められていた。


渡橋は静かに立ち上がる。

皆、スクリーンに集中している。誰も彼の動きに気づかないだろうと思い、彼はそっと部室のドアを開け、廊下へ出た。


廊下には、新学期特有の清々しさが漂っている。壁に貼られた新しいポスターや掲示物が、まだピンと張った状態で目に入る。窓から差し込む夕陽が、廊下の床に長い影を落としている。その光が、まるで渡橋を導くかのように廊下に伸びていた。


足音が廊下に響く。

かすかに聞こえる部室からの笑い声が、徐々に遠ざかっていく。渡橋の心の中で、様々な感情が渦巻いていた。怒り、悲しみ、そして何よりも、自分自身への失望。


階段を上がり、別の階の廊下に出る。そこでも、夕暮れの光が彼を迎えた。窓の外には、部活動を終えて帰宅する生徒たちの姿が見える。

まだ慣れない制服姿の1年生たちが、少し緊張した面持ちで先輩たちと話をしている。

その光景が、渡橋の胸に痛みを与える。


教室の扉の多くは閉まっているが、いくつかは開いたままだ。中には新しい教科書を広げ、予習に励む生徒たちの姿も見える。

黒板には、新学期の目標や係の名前が丁寧に書かれている。


ふと、ある教室から漏れる物音に気づく。渡橋は足を止め、そっとドアに耳を寄せる。


かすかに聞こえるのは、絵筆がキャンバスをなでる音。

そして、時折漏れる耳馴染みのある独り言。油絵特有の匂いが、ドアの隙間から漂ってくる。


渡橋は、ドアノブに手をかける。しかし、すぐには開けない。


深く息を吸い、ゆっくりとドアを開けた。


教室内には、夕日に照らされた長谷川の姿があった。

彼は、ニット帽を被りながらB4サイズ程のキャンバスに向かって油絵の具を塗りつけている。イーゼルの上に置かれたキャンバスには、まだ完成には程遠い風景画が広がっている。

絵の具のチューブや筆が散らばった机、床に広げられたビニールシート。その上に落ちた絵の具の染みが、長谷川の創作の軌跡を物語っている。


長谷川の表情は真剣そのもので、まるで別世界に入り込んでいるかのようだった。

絵筆を持つ手は力強く、繊細に動いている。その姿は、渡橋が失ってしまった何かを象徴しているようにも見えた。


長谷川は、ドアの開く音に気づいたのか、ふと振り返る。


「おう、川瀬か」


その声には、驚きと同時に、何か安堵のようなものが感じられた。

小学生の頃から変わらない、長谷川特有の優しさが込められていた。


渡橋は言葉に詰まる。どう説明すればいいのか、何を話せばいいのか、分からなかった。

ただ、長谷川の前に立っているこの瞬間、自分がどこにも属していない気がして、途方に暮れるような感覚に襲われた。


長谷川の目には、幼い頃から渡橋を見守ってきた友人としての深い理解が宿っていた。

彼は絵筆を置き、ターペンタインで手を拭きながら渡橋に近づく。


「どうした?部活の方は終わったのか?」


その問いかけに、渡橋は答えられない。ただ、俯いたまま立ち尽くす。


長谷川は渡橋の様子を見て、何か察したようだ。

彼は黙ったまま、ただ渡橋の肩に手を置いた。その温もりが、渡橋の凍りついた心を少しずつ溶かしていく。


夕暮れの教室で、二人の男子高校生が無言のまま立っていた。

窓から差し込む夕日が、二人の影を長く伸ばし、それはまるで小学生の頃から続く二人の絆を表しているかのようだった。

教室の空気は油絵の具とターペンタインの匂いで満ちており、その独特の香りが二人の沈黙を包み込んでいる。


外では、下校する生徒たちの声や、部活動を続ける生徒たちの声が聞こえる。グラウンドからは野球部の掛け声が風に乗って届く。


長谷川は、黙ったまま窓際の机に歩み寄り、静かに腰を下ろした。その仕草には、渡橋を無言で誘う優しさが込められていた。渡橋は、少し躊躇した後、長谷川の隣に座る。

二人は肩を並べ、窓の外を見つめる。夕暮れの空が、オレンジ色から紫色へとゆっくりと変化していく。その美しい光景を、二人は無言のまま共有していた。


長谷川のキャンバスに描かれかけの風景画が、二人の背後でまだ湿った絵の具の匂いを漂わせている。その香りが、二人の沈黙を包み込むようだった。

時折、風が吹くたびに桜の花びらが舞い込み、二人の間に落ちる。渡橋は、その花びらを指でそっと触れ、その柔らかさを感じていた。


この静寂の中で、渡橋は少しずつ心を落ち着かせていった。

長谷川の存在が、無言のまま彼に安心感を与えているようだった。

二人の間には、言葉以上の理解が流れているようで、それは小学生の頃から築き上げてきた友情の証だった。


やがて、渡橋はゆっくりと口を開こうとする。

そのとき、長谷川は優しく目を閉じ、聞く準備ができていることを無言で伝えた。

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