第壱章「揺れる心、迷う足取り」

第一章:枯れゆく情熱


大阪の某高校。赤レンガ造りの由緒正しき校舎の中に、映画部の部室は潜んでいた。新学期の喧騒が少し落ち着き始めた頃、夕暮れ時の柔らかな光が、古びた窓ガラスを通して差し込んでいる。


渡橋川瀬は窓際に立ち、遠くに広がる街並みを見つめていた。新緑の季節特有の爽やかな風が、時折彼の頬をなでる。

部室の空気は重く、誰もいない静寂が彼の心を圧迫するようだった。壁には昔の映画祭のポスターが貼られ、棚には使い古されたカメラや編集機材が並んでいる。それらは、かつての栄光を物語るように、薄暗がりの中でその存在を主張していた。


渡橋は深いため息をつくと、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面には昨年の映画コンテストの受賞シーンが映し出されている。

指先が僅かに震えているのを、彼は無視しようとした。


司会の声が響く。「受賞おめでとうございます」


表彰されるかつての先輩、土井の姿。かつての仲間たちの喜びの声が聞こえる。


「俺、これ作ってん」その歓声の中から投げられたような場違いな声が聞こえてきた。


女性の声で「うわぁ凄い」と言ったのが微かに耳をつんざく。


渡橋は画面を消すと、静かにスマートフォンをポケットにしまった。

胸の奥に、言葉にできない感情が渦巻いている。嫉妬?後悔?それとも単なる虚無感?


(俺は...)


渡橋の心の中で、もう一人の自分が問いかける。その声は冷たく、突き放すような調子だった。


(お前は本当にこれでいいのか?)


「分からない」と渡橋は呟いた。その声は、部室の空気に吸い込まれるように消えていった。


(じゃあ、なぜここにいる?)


「それも分からない」


自問自答を繰り返す渡橋の目には、深い疲労の色が浮かんでいた。彼は机に向かい、ネタ帳を開いた。

しかし、ページは白紙のままだった。ペンを手に取るが、何も書けない。

創造の泉が枯れてしまったかのようだった。


そのとき、部室のドアが開く音がした。軋むような音は、この部室の歴史を物語っているようだった。


「お、渡橋先輩。まだいたんですね」


入ってきたのは新入部員の塚本だった。

まだあどけなさの残る顔に、希望に満ちた表情が浮かんでいる。制服の襟元がきちんと整えられているのが、新入生らしい初々しさを感じさせた。


渡橋は無理に笑顔を作り、「ああ、ちょっとね」と答えた。

その笑顔が作り物だということに、塚本は気づいていないようだった。


塚本は興奮した様子で、「先輩、新しい企画考えたんです!」と言いながら、自分のノートを広げ始めた。その目は輝いており、渡橋はかつての自分の姿を重ね合わせずにはいられなかった。


(お前は本当にこの子の熱意に応えられるのか?)


心の中のもう一人の自分が再び問いかける。

その声は冷笑を含んでいるようにも聞こえた。


渡橋は黙ってうなずき、塚本の話に耳を傾けた。しかし、その目は遠くを見ているようだった。塚本の言葉は、どこか遠くから聞こえてくるようで、渡橋の心には届いていなかった。


過去の映画部の記憶が、走馬灯のように渡橋の脳裏をよぎる。


...


薄暗い部室に、熱気が充満していた。土井を中心に、部員たちが熱心に議論を交わしている。ホワイトボードには企画案が所狭しと書き込まれ、机の上には脚本の束や絵コンテが散らばっている。


「ここはもっとドラマチックに撮りたいんだが」


土井の声が響く。その目には野心が燃えていた。


「分かりました、コンテは一度僕が書いてみます」


若かりし日の渡橋が答える。その声には自信が満ちていた。


一方、部屋の隅では濱本と田中がふざけ合っている。


「お前、また適当なこと書いただろ」


「うるせーよ、面白けりゃいいんだよ」


そこへ、唯一の女性部員だった麻間菫が現れる。彼女は冷ややかな目で部室を見渡し、呟いた。


「男って馬鹿ね...まぁ嫌いじゃないけど」


渡橋は麻間の後ろ姿を見つめていた。彼女の髪に差し込まれた髪飾りが目に入る。淡い青色の小さな花が集まったような繊細なデザインで、花びらは薄く、光に透けるようだった。それは渡橋が彼女にプレゼントしたものだ。


髪飾りの花は、儚げでありながら丈夫そうな印象を与え、どこか素朴な美しさを放っていた。五枚の花びらが規則正しく並び、中心には黄色い雄しべが覗いている。


その髪飾りは、二人の関係を象徴するようでもあり、同時に今は失われてしまった何かを表しているようでもあった。風に揺られるたびに、かすかに揺れる花びらが、渡橋の心に切ない余韻を残す。


そして、ある日突然、麻間が退部を告げる。


「もう...限界なの」


その言葉と共に、映画部は崩壊への道を歩み始めた。麻間の背中が部室のドアの向こうに消えていく。渡橋は声をかけることもできず、ただ立ちすくむだけだった。


...


「先輩?聞いてます?」


塚本の声で、渡橋は現実に引き戻された。記憶の中の麻間の姿が、目の前の塚本の姿とオーバーラップする。二人の姿が重なり、そして離れていく。過去と現在、失ったものと今あるもの。渡橋の心は、その狭間で揺れ動いていた。


「ああ、ごめん。ちょっと考え事してて」


渡橋は立ち上がり、再び窓の外を見た。日が沈みかけていた。オレンジ色に染まった空が、どこか物悲しく感じられた。街並みの向こうに、かつての仲間たちの姿が幻のように浮かぶ。彼らは今、どこで何をしているのだろうか。


「塚本、今日はもう帰ろう。その企画、明日みんなで話し合おう」


塚本は少し残念そうだったが、「はい、分かりました」と答えた。その声には、先輩を信頼する気持ちが滲んでいた。渡橋は、その信頼に応える自信が自分にあるのか、自問せざるを得なかった。


部室を出る前、渡橋は再び振り返った。薄暗くなった部室に、かつての仲間たちの笑顔が、幻のように浮かんでは消えた。土井の野心に満ちた目、濱本と田中のふざけ合う姿、そして麻間の冷ややかな微笑。全てが、この部室に詰まっているようで、同時に永遠に失われてしまったもののようだった。


(お前は本当に、ここにいていいのか?)


心の中の声が、また聞こえた。その声は、渡橋の不安と迷いを代弁しているようだった。


渡橋は黙ったまま、部室の扉を閉めた。重い音が、彼の心にも響いた。


廊下に出た渡橋は、ふと誰かとすれ違った。

振り返ると、肩から一眼レフカメラをぶら下げた男子生徒の後ろ姿が見えた。

その姿は、どこか凛としていて、渡橋の目を引いた。

しかし、彼がどの部活に所属しているのか、名前さえも知らない。

渡橋は一瞬、声をかけようか迷ったが、結局そのまま歩き続けた。


大阪の街に、夜の帳が降りていった。ネオンが瞬き始め、人々の喧騒が聞こえてくる。渡橋は歩きながら、自分の進むべき道を考え続けていた。映画への情熱は、まだ彼の中で燃えているのか。それとも、別の何かを求めているのか。


彼は立ち止まり、夜空を見上げた。星一つ見えない空に、彼の迷いが投影されているようだった。


「俺は、どこへ行けばいいんだ...」


つぶやきは、誰にも聞かれることなく、夜の闇に溶けていった。


渡橋は再び歩き始めた。行き先は決まっていないが、それでも前に進む。それが今の彼にできる唯一のことだった。


街の喧騒の中、一人の高校生の葛藤は、誰にも気づかれることなく続いていく。しかし、その心の中では、未来への希望と過去への未練が、激しくぶつかり合っていた。


明日は、また新しい一日が始まる。

渡橋川瀬にとって、それは新たな可能性の始まりなのか、それとも繰り返される苦悩の日々なのか。答えは、まだ誰にも分からなかった。

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