第二章 怨讐に沈む

十二 皆様、噂話がお好きなようで 壱

『悪事千里を走る』


 とはよく言ったもので。

 特に、女達が好みそうな話題となれば、光陰の矢の如く。それが皇宮となると、人は多い上に噂話が好きなもの達が大勢いるので尚更だろうか。


『先日の道士達の中にいた白い面の女、耀光宮ようこうぐうに呼ばれたみたいよ』


 ヒソヒソと口元に手を当て声を顰め、されど目線は一人の女をじとりと見やる。


 ――陰湿ですねぇ


 青々とした秋晴れが続く隅中ぐうちゅう(昼の十時ぐらい)の頃。流麗は皇宮本殿へと続く長い回廊を闊歩していた。目的は、皇宮本殿の一角にある書庫。それも、代々の皇帝やその血筋の資料が保管されている場所とあって、流麗一人での入室は不可能な場所だ。

 その為に、流麗の眼前には先を行く隋徳ずいとくの姿があった。曲がりかけた背中を補う様に、手を後ろに回して歩く姿は老齢そのものであるが、知性は健在で耄碌もうろくの一つもないと言う。

 背中からは、老人の心情は掴めない。

  

 皇帝の目に留まった女の話は、たった一夜にして宮中に広まった。皇帝専属の侍医として勤める老人の耳だろうと、少なからずは入っているはずだと流麗は踏んでいた。が、今の所これと言って反応はない。

 流麗に視線を向ける事もなく、淡々と目的の場所まで案内するだけと言った様子で、老人を思わせない軽快とした歩調で前を歩き続けていた。


 奇異な目線、好奇な眼差しばかりが続くのにも飽きた頃、皇宮内部にある書庫へと辿りついた。本殿の中でも奥深く、ご丁寧に厳重な鍵まで掛かっている部屋。

 うっすらと日差しが差し込む部屋の中の書棚には、数多くの書物が平積みに置かれている。管理が行き届いた部屋は埃一つなく清潔性が保たれていた。


「こちらにあるものが、代々姫家の方々の記録だ。生まれや病歴。床の数まで記録されておる」

「それはそれは」

  

 隋徳は部屋にたどり着くなり好々爺然とした姿が消え、刺々しい口調と目つきを流麗へと向けていた。警戒というよりは、敵意に近い。しかし、舜からの命令とあって仕事はしっかりとこなす気があるらしく、刺々しくも冷めた口調であったが説明は適宜簡潔だった。


「剋帝陛下のものはこちらだ。先帝陛下はそちらに」

「ありがとうございます」


 流麗は取り敢えずは剋帝陛下の資料を――と、いくつか見繕うと、窓際に置いてある文机へと移動した。

 さて、早速。と、資料の一つ手にしたが、背後から否応無しに続く鋭い視線で流麗はゆっくりと振り返る。


「隋徳様、お仕事は」

「本日は呼び出されぬ限りは姚女士に手を貸すように陛下から仰せつかっている。まあ、陛下は無事健康体に戻られて早々呼び出される事もあるまいて。貴女が気にされる必要はなかろうよ」


 敵意は変わらずも、老人の舌は回る。医者ではなく、文官の方が向いていたのではないのかと思うほどだ。流麗は動じる事なく、むしろ関心しそうになって「そうですか」と老人から目をそらした。

 が、更に続いた一層厳しい口調でそれも止まった。


「本来であれば此処にある資料はどれも外部の者が閲覧する事は不可能だ」


 敵意溢れる老人の顔の皺が更に深くなる。これはもう、敵意というよりも嫌悪だ。流麗がそれを気にする気質ではないにしろ、心持ちは当然ながらに冷めていく。

 

「……私が陛下に許諾をいただいた事がご不満ですか?」

「陛下は真摯なお方だ。出来れば問題は起こさないで頂きたい」


 昨晩の事に対して真正面から嫌味でも言われると思っていた流麗は、一瞬で覚めていた気が晴れた。隋徳のそれは臣下というよりは、親心に近いのだろう。『幼い頃より余を守ってくれた』という舜の言葉のそのままの意味を、流麗は実感した。同時に、ふとした考えが浮かんでそのまま口にしていた。


「隋徳様のご出身は、もしや丹州たんしゅうですか?」

「そうだ。先帝陛下に望まれて、燈玉ひぎょく様――陛下の母君が後宮へと入宮する際に丹州諸侯は私に共に皇都へと行くように命じられた」


 しゅ燈玉ひぎょく。先帝の側室の一人・貴嬪きひんであり、丹諸侯たんしょこうの息女でもある。その息女を送り出す際の親心で優秀な医官を側に置いたという事だろう。


「けれど、後宮に男性は入れませんよね。医官とは言え、何をどうお助けしていたんですか?」

自宮じきゅう(自ら去勢する事)しただけだ。詳細を知りたいか」


 自宮の方法は言わずと知れたものだ。流麗は笑顔で、結構ですと返した。

 皇宮に入る事が許される男は皇帝のみである。しかし、も、後宮に足を踏み入れる事は可能である。

 医官も例外ではない。現在も去勢した男が後宮で勤めをまっとうしているが、理由は何であれ、覚悟なくしては出来る事ではないだろう。

 それだけで、隋徳の覚悟と舜へと向ける親心にはっきりとした形が見えた。 


「隋徳様は、今も朱家にお仕えしているのですね」

「剋帝陛下が生きておらねば、私も自らの命を絶っていた。貴方を此処へと招いたのは私だ。だからとて、漸く安寧となった宮中を貴女が乱すというのであれば対応を考えねばならん」


 隋徳の目には覚悟がある。奇しくも、流麗も昨晩に舜へと覚悟を捧げたばかりだ。立場は違えど、隋徳は舜の為の道を選ぶ者。流麗は居住まいを正して、隋徳へと向き直った。


「隋徳様、私を皇宮へと呼んだ事を後悔されているのでしょうが、昨晩は何もありません。陛下は後宮の安寧を思案したからこそ、私を宮に招いて避雷針の代わりにしたのです。まあ、陛下のお心が後宮に無いのは確かでしょうが」


 隋徳は苦い顔をする。舜が妃嬪の誰一人として、思いを寄せていないのは火を見るよりも明らかだった。これまでは体調を言い訳にしてはいたが、妻達に些かも興味を抱いていないからこそ言い訳として利用していたのは明白。だからこそ、舜は『種無し』なる噂があろうとも、自ら宮中に不調を広め続けたのだ。その姿はまるで、先帝の行いを否定して後宮自体を疎んじているようでもある。ただ、舜の思惑自体は隋徳も――誰も知り得ないものなのだろう。隋徳に反論する様子は無かった。

 

「私は確かに、陛下に拝謁を許されて僅か数日の身です。ですが、陛下を御守りしたいという想いは隋徳様と同じにございます」

「今、これ以上陛下御自身の悪質な噂は出来れば増やしたくはない。娘を後宮に入れた官吏達が、いつ迄も陛下のご機嫌伺いをしているとは限らないからな」

「心得ておきます」


 はあ、と白い頭を掻きむしりながら、隋徳は流麗の隣へと、どかっ――とわざとらしく音を鳴らして腰掛ける。胡座をかいて、流麗を真っ直ぐに見据えると、またも大きく、それも嫌味たらしい程に「はああぁ」と溜息を吐いた。


「貴女を皇宮へと呼び出したのは、陛下のお身体の不調は私では手に負えないと思ったからだ。陛下の今のご様子は一時的とは聞いている。して、何を調べる」


 流麗は柔らかい笑みを携えて、文机の上に置いた資料を手に取った。はらり、はらりと次々に一葉いちようずつが捲られていく。


「……本当に知りたい事は、此処に記録されているとは限りません。何より、調べたところで本当に解決できるのは、陛下御自身です」

「貴女が治すのではないのか」

「定期的に私が診る事で、症状が出ないようにする事は可能です。ですが、本当の禍根は、陛下御自身の御心。陛下は、何か思い詰めていらっしゃる。それをとり除ければ完治もできるかと」


 思い当たる節はあるのか、隋徳の顔が歪む。

 

「では、姚女士は何を調べると言う。調べて何が出来る」

「陛下の禍根を取り除く一因になれば……手助けは出来るかと」

「自信が無いとも取れるが」

「はい、ありません」

「貴女の仕事であろう」


 流麗は、困ったように笑う。誤魔化しても意味はないと悟ったように、「はは」と渇いた笑いを見せて、隋徳から目を逸らした。


「……専門的な話をしますと、陛下でなければ既に手遅れです」


 隋徳は驚きの声と共に、目を見開く。

 

「いずれ、このままでは手遅れになるかもしれない。だからこそ、何としてでも治して差し上げたい。いえ、最悪、私の身がどうなろうともお助けするつもりです」


 皇帝を救えなかったらと、罰に怯える者の姿ではない。進む道が定まった確固たる信念を持つ者の瞳だ。力強く、使命感すら思わせる。

 その意思は隋徳にも見えただろう。隋徳も同じく、確固たる意思を持ってして、今も剋帝の側にある。

 

「姚女士、貴女は何故そこまで」


 それまで姚流麗という人物を疑っていた隋徳は、しかとみた流麗の姿に真実を見た気がしたが、どこか意表を突かれたようで眉根を寄せて訝しんだ。しかし、隋徳にどう思われていようが、流麗は目を細めて静かに笑うだけだった。

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