第一章
「お兄ちゃん、私は地球に残る!」
妹の叫び声が、むわっとした夜の部屋に響き渡った。佑太は困ったように陽菜を見つめる。
「わかってくれ、陽菜。このままじゃ地球に未来はないんだ」
佑太は冷静に説明を試みるが、陽菜の表情は曇ったまま変わらない。
「お兄ちゃんは勝手に行けばいい。でも、私は最後まで地球のために戦う」
目に涙を浮かべた陽菜は、そう言い捨てると部屋を飛び出していった。ドアの強い閉まる音が、佑太の胸に重くのしかかる。
佑太と陽菜の口論は、その日から始まったわけではない。火星移住計画が持ち上がってから、二人の意見の食い違いは日に日に大きくなっていた。
佑太と陽菜が火星移住計画について意見が割れたのは、二人が置かれた立場の違いが大きかった。
佑太は、優秀な植物工学者として、火星でのテラフォーミングや植物栽培の研究に携わる機会を得ていた。彼は、火星移住が人類の生存に不可欠であると考えていた。
地球環境の悪化を食い止めるには、一刻も早く新天地を確保する必要があると感じていたのだ。
一方、陽菜は環境問題に強い関心を持つ中学生だった。
幼いころから兄と一緒に、地域の環境保全活動に参加してきた彼女にとって、愛する地球を離れることは受け入れがたい選択だった。陽菜は、人類は地球環境の再生に全力を尽くすべきだと考えていたのだ。
佑太は科学的なデータを基に移住の必要性を説明したが、陽菜の心情的な訴えも一理あった。
火星移住か、地球環境再生か。二人の意見の対立は、地球の未来をめぐる人類の葛藤そのものの様であった。
佑太も、妹の純粋な思いは理解できた。だが、科学者としての理性が、移住の必要性を訴えずにはいられない。
「お兄ちゃんは、私たちの思い出も全部捨てるつもりなの?」
ある時、陽菜はそう問いかけた。幼いころ、二人で植えたベランダのミニトマト。親を亡くし、たった二人で過ごした団地の一室。佑太の記憶の片隅には、陽菜との大切な思い出が数多く刻まれていた。
「忘れるわけない。でもな、もっと大きな視点で考えなきゃいけない時もあるんだ」
佑太は精一杯、冷静に答えた。だが、陽菜の瞳からは理解の色が消えない。
あれから数週間。佑太は、幾度となく陽菜を説得しようとしたが、妹の決意は揺るがなかった。
話し合いの度に、二人の溝が深まっていくのを、佑太は痛いほど感じていた。
「こんなはずじゃなかった…」
ベッドに横たわり、佑太はささやく。幼いころ、いつも佑太の後をついて歩いていた妹。二人はどんな時も、心を一つにして乗り越えてきたはずだった。
窓の外では、むわっとした夜の空気が蒸し暑さを増している。佑太は、明日こそは妹の気持ちを汲み取り、歩み寄れるよう心に誓った。
その翌日、佑太は陽菜を近所の公園に誘った。子供の頃によく遊んだブランコに腰掛け、二人は無言で夕焼けを眺めていた。
「陽菜、君の気持ちはよくわかってる。地球を大切に思う気持ち、私だって同じだ。だけど、今のままじゃ、いつか地球は住めなくなる。火星移住は、その先の未来を切り拓くチャンスなんだ」
佑太は、精一杯の思いを込めて語りかけた。
「…わかってる。お兄ちゃんの言いたいこと、わかってるよ」
陽菜は小さな声で呟いた。
「私、ずっと考えてた。自分が地球に残って何ができるのかって。そしたら、私にもできることがあるんじゃないかって思えてきたの」
佑太は驚いて妹を見つめた。陽菜の瞳は、夕焼けに照らされてキラキラと輝いている。
「お兄ちゃんには、火星で頑張ってほしい。私は地球で、自分にできることを精一杯やる。二人で力を合わせて、人類の未来を守っていこう」
その言葉に、佑太の胸は熱くなった。妹は、自分なりの答えを見つけたのだ。
「陽菜…」
佑太は妹の小さな肩を抱き寄せ、力強く頷いた。
遠く離れた場所でも、二人の思いはつながっている。信じ合い、支え合いながら、それぞれの道を歩んでいけばいい。
その日の夕焼けは、いつまでも佑太の心に焼き付いて離れなかった。
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