ショウカフリョウ。

夜桜くらは

ショウカフリョウ。

 液晶画面に映る文字の群れ。私は手を動かして群れを増やしていく。

 手元のメモに目を向ける。文字の群れ。いや、群れというよりは塊だ。

 私は塊をほどいて、液晶画面へ文字の群れにして放り込んでいく。

 辺りは騒がしい。コール音に交じって、人の声が絶え間なく聞こえてくる。

 私はそちらに耳を傾けない。ただ液晶画面だけを見て、文字の群れを増やしては、また塊をほどいて液晶画面へ放り込む。


「やぁ三谷みたにクン」


 頭上から声が降ってきた。たっぷりした声。私は手を休めて、顔を上げた。

 声の主は、私の上司である熊川くまがわだった。多分。熊川の顔は、いつもと同じ、のっぺらぼうだった。


「調子はどうだい?」

「……まぁまぁですね」

「そうかい。三谷クンのまとめてくれる議事録は、いつも見やすくて助かってるよ」


 熊川の顔は、腹話術人形のように口だけがパクパクと動いている。私は笑顔の化粧を顔に施して、「ありがとうございます」と返した。


「そうだ。この前頼んだ資料は、まとまったかな?」

「……資料、ですか?」

「そう。次の会議で使うやつなんだけど」


 熊川の言葉。つぎ。かいぎ。次の会議。ぼやけた頭に会話のピースがはまる。

 しまった。


「あ、すみません。まだまとまってなくて」

「そうかい。急ぐものではないけれど、なるべく早く頼むよ」


 しまった。だめだ。ああ、間違えた。間違えた。ああ、これはいけない。しくじった。ああ失敗した。

 熊川の、言葉。


「いやぁ、珍しいこともあるもんだね。三谷クンが忘れるなんてさ」


 熊川は、口をパクパクとさせる。


「三谷クン?」

「ああ、いや。熊川さん、すみません」


 私は笑顔を顔にはりつける。喉の奥で言葉が絡まる。無理やり声を絞り出す。


「……少し、休憩してきます」


 席を立つ。熊川は何か言ったようだが、うまく聞き取れなかった。



 ああくそ、失敗した。間違えた。ああじゃなかった。私は『三谷クン』じゃないといけない。それが一番良いのに。

 のっぺらぼうが私の口に『三谷クン』をねじ込む。いらない。いらない。言う間に私の喉へ落ちていく。どろりと落ちて、私の中で私の体と混ざる。混ざれ。いやだ。いやだいやだ。息が出来なくて呑み込む。次々。入れられる、やめて。やめて、やめ……。


「う゛」


 だめだ。トイレだ。トイレはどこだ。私は駆ける。


「おえ゛」


 えずく。便器にしがみつくようにして、えずく。呑み込んだ『三谷クン』が、あがってくる。


「おぇ、うげえぇ」


 ひどい声だ。頭の中で、私以外の誰かが喚き散らしている。私だ。透明な液体だけが口から垂れる。吐き気は治まらない。気持ち悪い。だめなのに。苦しい。苦しい。


「誰?」


 人の声。くりくりした声。


「何か、あったの?」


 声を探る。私は口の中のものを呑み込んで、個室から出る。

 トイレに入ってきたのは、私の後輩の鹿島かしまだった。多分。鹿島の顔は、いつもと同じ、バーヴィー人形だった。


「三谷先輩? 大丈夫ですか? 何か変な声が……」


 鹿島は近づいてくる。私は笑顔の化粧を顔に施す。


「ちょっと休憩してただけだから」


 私が言うと、鹿島は「そうですか」とだけ答えた。

 私は鹿島の横を通り過ぎる。洗面台で口をゆすいで、鏡の中の私の顔を確認する。大丈夫。私は、三谷明希あきだ。三谷明希だ。

 ああ、よかった。


「あ、三谷先輩」


 後ろから鹿島の声がする。私は振り向く。


「髪、乱れてますよ。後ろの方」


 鹿島の手が伸びて、私の髪に触れる。私は、笑顔を顔に貼り付ける。


「ああ、ありがとう」

「いえいえ。先輩の髪、綺麗だなって、前から思ってたんです」


 鹿島は長い睫毛をぱちぱちと動かす。私は息が出来なくなる。

「それに、」鹿島は続ける。

「先輩は落ち着いててスマートだから、黒が似合うなって」


 声を、声を出さないと。


「そう……かな」


 詰まった喉から声を絞り出す。息が苦しい。喉が締まる。奥が、揺れる。揺れ、て。


「三谷先輩?」


 ちがう。


「……ごめん。私もう戻るね。また」


 トイレを出る。廊下を駆けて、逃げるようにエレベーターに乗る。上って、上へ。上へ。もっと上へ。深くまで。深く、深くまで……。

 鹿島の言葉。頭で、響く。響いて、響いて、私は滲む。

 バーヴィー人形は『三谷先輩』を吹き込んだ。私の開けた口へ、無理やりねじ込んだ。ちがう。そうじゃない。私が開けた。『三谷先輩』は私の喉を通った。器官が震える。やだ。なんで。ちがう。ちがうのに、私は。

 エレベーターが開く。私は逃げる。知らない空気に押されて、私の中の『三谷先輩』が私の喉を這い上がってくる。


「え゛ぅ」


 やだ、やだ、もう吐きたくない。もう、やめて。私の中をかきまわさないで。

 私はトイレに駆け込む。個室の鍵を閉めて、便座へ縋りつくように這いつくばる。大きくえずく。苦しい。苦しいのに、何も出てこない。気持ち悪いのに、苦しいのに。私の中の『三谷先輩』は外へ出てくれない。出しちゃいけない。


「え゛ぇっ……うう゛ぅう」


 唾液だけがこぼれる。吐きたい。混ざってしまえ。混ざれ混ざれ。いらない。いらないのに、吐きたい。混ざれ、混ざれ、早く……。



 昼休み。私は一人、屋上でパンをかじっていた。

 食欲なんてなかった。でも、腹は空いていた。何も入っていない胃は、ぐるぐるとうなり続けている。

 味のしないパンを、ただ口に運ぶ。混ざって混ざって分からなくなった私が戻ったらな。なんて考える。

 のっぺらぼうの目の前で、鼻をほじってやりたい。バーヴィー人形の目の前で、大きくゲップでもしてやりたい。そうしたところで、また口に注がれるだけ。『三谷クン』と『三谷先輩』が、私の中でぐちゃぐちゃに混ざり合うだけ。

 私はただ、私でいたい。平穏でいたい。誰だよ、名前をつけた奴は。呼んだ奴は。つけなくたってよかったのに。そうしたところで、どうなった。のっぺらぼうじゃないか。バーヴィー人形じゃないか。

 あーあ。あーあーあ。なんだろうな。いやだなあ。まったくなあ。明希だあ。あー、私は、三谷明希だあ。はは。

 屋上の扉が、ぎいと音を立てた。汗がわく。私は顔に笑顔の化粧を施した。


「お、三谷?」


 のべっとした声。同期の村山だった。多分。

 村山は私の方へ歩み寄ってくる。村山の顔は、いつものように、度の合わない眼鏡で見たように歪んでいる。


「……どうも」


 私はそれだけ言った。村山は私に構うことなく、隣まで来てどかりと腰を下ろした。


「飯?」

「ええ、まぁ」


 村山は「ふぅん」と言って、ポケットから煙草を取り出す。ライターで火をつけると、煙を吐き出した。

 私はもそもそとパンを口に運ぶ。村山は何も言わず、ただ煙草をふかしている。空気が黒くなる。


「三谷はさ、いつもここで飯食ってんの?」


 村山が私の方へ顔を向ける。歪んだ顔。私は笑顔の化粧を顔に施す。


「いえ。たまに、ですよ」

「ふぅん」


 村山は煙草をふかす。灰が落ちる。空気が黒い。私はパンをかじる。味がしない。喉に落とす。


「なぁ」


 村山は煙草をくわえたまま言う。私は笑顔を貼り付けたまま、村山の方を見た。


「なんですか?」

「さっき、なんか歌ってたよな」


 うた。歌。頭の中が回る。


「歌、ですか」

「そう、歌。歌ってたろ。あーあーとか」


 村山は煙草をまたふかす。黒が濃くなる。私は、頭の奥が揺れるのを感じた。

 うそだ。歌ってなんか、うそだ。聞いていた?


「……すみません、覚えてなくて」

「そうか。でもさ、なんか意外だな」


 村山の言葉。私はぐっと喉を詰まらせた。うまく、呑み込めない。


「三谷って、なんかそういう感じしねぇもんなぁ」


 歪んだ顔の村山が言う。『三谷』、が。いやだ。間違えた。私の喉が、波を打つ。むせそうになるのを堪えて、声にして吐き出す。


「……そう、ですか」

「あぁいや、悪い。違うんだ。えっとな……」


 村山は頭をかいた。それから「うーん」と唸った。煙が歪みを広げる。


「なんか、三谷はさ、真面目な奴って感じなんだけど……なんつーかこう、人っぽいとこもあんだなって」

「人っぽいって……なんですか、それ」


 分からない。私は分からない。ちがう。ちがわない。何? 私は。


「いや……こうやって一人で飯食いたくなったり、歌ったりすんだなって思ってよ。そういうとこがさ、なんつーかな……人間っぽい」

「……はぁ」

「でもまぁ、なんだ」


 村山はそう言うと、また煙草をくわえた。むせ返るほどの黒の中で、村山の顔が歪む。歪んだまま、私を見る。


「俺はそういうの、別に良いと思うぜ?」


 村山の、言葉。私は息が止まった。ずっと歪んでいた村山の顔。一瞬、その顔が、目が、口が、笑顔を形作ったように見えた。


「良いっつーか……何言ってんだって感じだよな。まぁ、忘れてくれ」


 村山は煙草を離す。また歪んでいく。顔だけじゃない。私も、歪んでいるような気がする。頭が揺れる。めまいがする。


「やべ、俺もう戻んねぇと」


 村山はそう言って、立ち上がった。村山の足が、揺れて映る。私は「そうですか」と絞り出す。


「じゃあな三谷。お互い頑張ろうぜ」


 村山はそれだけ言うと、屋上から出ていった。扉が閉まり、村山の姿は見えなくなった。

 私は一人、屋上に残った。村山のいた場所をしばらく見つめていた。歪みのない顔。それが、私の頭にこびりついていた。言葉は溶けて、私の胃の中へ。ほんの少しの不快感と、ほんの少しの快感。


「なんで」


 私はつぶやいた。言葉が漏れる。やっぱり、気持ち悪い。胃の中で溶けた言葉は、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。混ざって混ざったものが、また私の中へ戻っていく。その繰り返しを、私はただ見ていた。

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ショウカフリョウ。 夜桜くらは @corone2121

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