7. 「死への恐怖」

 五分くらいした後、まず女の方が呼ばれた。女は右側の廊下から現れた、白衣を着た小太りの中年男性に案内され、廊下奥へと消えていった。更に五分くらいした後に、老人の方も呼ばれ、今度は左側の廊下へと、白衣を着た女性に連れられて消えていった。


 センター内は静寂に包まれていた。館内には音楽など流れておらず、時々どこかで扉を開く音や廊下を歩く音がする以外には、ほとんど物音一つしなかった。外の影響か、館内はやけにひんやりとしており、春の暖かさの侵入を一切許していない様子だった。更に照明もどこか薄暗いような気さえした。


 死には、こうした暗く冷たいイメージが付きまとっている。春が生の象徴であるとすれば、冬は死の象徴なのだ。多くの人間は死を恐れ、一生の間で出来るだけそれを遠ざけようとして生きる。しかし数少ない、いや、決して少ないとも言えない数の人間たちは、自ら進んで死に近づこうとする。そうした人間たちは、死を恐れていないのだろうか?

 そうではない、と僕は思っている。死を恐れるのはある種人間の本能のようなもので、この館内のような死を身近に感じさせる空気感、少し耳を澄ませば死の足音が聞こえてきそうな空気というのは実際ほとんどの人間にとって恐ろしいものなのだ。僕だって、死ぬのは怖い。それでも、死への歩みを止めないのは何故か……?


 突然、甲高い叫び声がセンター内に響き渡った。どうやら叫び声は、さっき女の進んでいった右廊下の奥から聞こえてきたようだった。受付の男も訝しげに叫び声のした方向をのぞき込んでいた。しばらくして、さっきの白衣を着た男性に肩をかけながら、女がとぼとぼと歩いて出てきた。女の顔には大粒の涙が浮かべられていた。その顔には、まさに死への恐れが表れていた。


 そこでなるほど、と僕は思った。このセンターの設計は、きっとこのためなのだ。つまり、死への歩みを進める人間に対して、死の恐怖を提示することによって、怖気づかせ、思いとどまらせ、自殺させない。それがこのセンターの、いや、この優しすぎる日本という国の方針なのだろうと僕は思った。


 今ならばハーモニーの、御冷ミァハの気持ちがわかる気がした。きっとこうしたことは今日だけでなくこれまでに何度もあったのだろう。とすると、今日このセンターで死んだ人間はまだ一人もいないのかもしれない。


 今彼女は少し落ち着きを取り戻したように見えたが、その小さな身体はまだ小刻みに震えていた。やがてキャンセルの手続きを終えた彼女は、逃げるようにしてセンターを後にした。

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