硝子がかすかに光を放ちはじめる。外が暗くなり、カーテンが見えなくなったが、完全な暗闇というわけではない。テレビジョンに映る闇のような、淀んだ灰色だった。

 出し抜けに、窓の外に何かが現れた。

 赤い柘植の持ち手、埋め込まれた柔い棕櫚の繊維――見覚えがある。ビルのブラシだ。

「おい、これ……」

 ハリーはうつろな笑いを浮かべるばかりで、何も説明しようとしない。

 色々なものが流れてくる。最初は日用品だった。パン。林檎。ニシンの缶詰。清潔なシャツ。刑務所で無くなったホチキスやペンを俺の眼がとらえた。それから、もっと大きなものも……自転車。ガソリン車。プレハブ小屋。モーターボート。どれだけ盗んできたんだ、と呆れていると、ハリーが「どこにいても、窓さえあれば眺めることができるんだ」と言って窓に手をついた。

「眺める? 取り出したらいいだろ」

「水に手を入れたって何も掬えない。硝子を殴っても怪我をするだけ。おれには触れないんだ」

 ハリーが節くれだった指を指揮者のようになびかせると、ゆらゆらと浮かんでいた盗品たちが音もなく視界の外へと散り、遠くから人が近付いてくる。

 長くもつれた髪に遮られて顔はよくわからないが、服装でそれぞれ男と女であることがわかる。二人ともまだ若く、ひどく痩せている。女が男の腕に自分の腕を絡めているが、睦まじいポーズとは裏腹に、色のない唇はうつろな半開きのまま動かない。

「両親だよ。紹介するね」

 ハリーが少しだけぼくを持ち上げた気がした。まるで二人にきちんと見せようとするみたいに。

「おれはまだ小さかったし、薬を途中で吐き出しちゃったんだろうな。気付いたときにはもう、二人とも虫の息だった。それが、今じゃおれのほうが年上なんだもんな。なんか、妙な感じだよ」

 ハリーが窓越しに手を振ると、二人は海藻のように髪をなびかせながら遠ざかっていく。入れ替わりに視界の左のほうから人が流れてくるのが見える。

 頭を撃ち抜かれた人。

 首に縄の巻きついた痕がある人(舌を出している)。

 両手の指の爪を失っている人。

 人、人、人。……全部、死体だ。

「おっと。あんまり気持ちがいいものじゃないだろ」

 遮るように、窓の前に物が流れてくる。書類やレコーダー、ネガフィルム、銃火器、血の付いたナイフや服。

 あるいは空になった鞄や、アタッシェケース。何に使ったものか、おれにはわかる。盗んだ中身を抜き取ったあとの「皮」ほど処理に困るものはない。

 つまりこれは、証拠隠滅が行われたという証拠が、群れをなして泳いでいるのだろう。

「しょっちゅう団長から『どうにかしてくれ』って言われたよ。『どうにかしてくれ、ハリー』『また頼むよ、ハリー』『困ってるんだ、ハリー』ってね。『ハリー、頼むよ。おまえの奇術しかないんだ』」

「あんたは悪くない」

 ぼくは反射的にそう返していた。

 どうしてサーカスに拾われたのかなんて、ぼくにはわからない。でも、たぶんハリーはまだ子どもだったに違いない。悪い大人に見せてしまったのだろう。それが何に重宝されるかなんて、知りもせずに。

「そうかな」

「悪いのはあんたをゴミ箱扱いした、悪いやつらだ」

 ぼくを抱える腕に、少し力が入った気がした。ややあって、首筋にごわついた髭の感触を感じた。

「ありがとう。でも、これを見てもそう思ってくれる?」

 死体やアタッシェケースが流れ去り、窓にはふたたび深い闇が映された。

 カーテンはどこに行った? 何も見えなかった。互いの呼吸と、ハリーの鼓動しか聞こえなかった。宇宙に投げ出されて漂流したら、こんな気持ちなんだろうか。……いや、宇宙なら星があるはずだ。ここには、光なんて何ひとつ見えない。じゃあ、ここは深海なのか。でも、あぶくひとつ見えないのに?

「ハリー。ハリー……教えてくれ。ここはあんたの何なんだ」

 ハリーはくすくすと笑って、ぼくの首元に鼻先を埋める。

 遠くから、何かがゆらゆらと近づいてくる。

 最初は傘だと思った。赤と青に塗り分けられた、ボール回しにでも使うような。でも、距離が近付いてくるにつれて、間違いに気付いた。傘だと思ったものは、天蓋だった。その縁から、側面を覆うようにベージュ色の布が幾重にも垂れている。ひとつの面が捲れ上がって、そこからすり鉢状に並んだ座席が見えた。

 夜逃げなんかじゃない。囮役を押し付けられたわけでもない。

 ハリーは、サーカスを丸ごと盗んだのだ。

 宇宙船が入口の中へと分け入っていく。誰一人いない座席の底に、古びた舞台が据えつけられている。乗り手のいないブランコの下を通って、バックヤードへと入る。大道具やジャグリングの道具、それから高さも大きさもまちまちな檻たちが、ゆっくりと浮遊している。動物たちはみんな眠っているようだった。

 裏側へと抜けると、ハンモックが幾重にも吊り下がる小さなテントが並んでいる。その中では団員たちがメイクも落とさずに寝ていた。

 少し離れたところに、外側にペルシャの豪奢な絨毯を吊り下げたテントが立っている。その中に、毬のような体型をした男が浮かんでいる。頭蓋に、斧が突き立っている。それはちょうど左右の脳を両断するような形で、切っ先はほとんど眉のところまで沈み込んでいる。フロックコートの肩口が赤く湿っている。

「あの血、ずっと乾かないんだ」 

「あんたがやったのか」

「ちがうよ」ハリーが苦笑する。「最初に見つけただけだ。明け方に起こそうとしてね。団長の世話をするのはおれの役目だった」

「じゃあ、誰が」

「わからない。心当たりはありすぎるから」

「だったら、どうしてあんたはこんなことをしたんだ。あんただけ逃げればよかったじゃないか!」

「そうしたらきっと、みんな追いかけてきただろうね。そしたら、ぼくは一人ずつここにしまっていったと思うよ」

 目の前でテントがぐらりと揺らぎ、流されて、小さくなっていく。

「あらゆるところに」テントに手を振って、ハリーは語りはじめる。「おれがこれまで消してきたものが見えるんだ。ショーウインドウの向こうに。鏡の中に。バスタブに張った水のおもてに。ブエノスアイレスでも、ローマでも、北京でも、どこにだって現れた。それってすごいことだと思わない? 父さんも母さんも、どこにだって行けるってことだろ」

 テントが見えなくなると、窓に映るのは、どこまで広がっているのかもわからぬ茫漠した闇だけだった。ハリーがぽつりと呟く。

「刑務所に入れば安全だと思ってた。でも、そうじゃなかった。きみが酷い目に遭うくらいなら、消してしまったほうがいいと思った」

「ハリー。何を言ってるんだ?」

 おもむろにドアが開く。

 腕がゆるみ、ぼくの身体がふわりと浮き上がる。ハリーはぼくの横をすり抜けて宇宙船の外側に出る。ぼくもついていこうとしたところで、中に押し留められる。

「つまり――おれはおれを、ここにしまうべきってことだよ」

 よせ。

 そう声を出そうとして、呆然とする。空気がない。肺がきゅうと絞られる感覚に、ぼくは思わず喉に手を回す。

 閉じゆく扉の向こうで、ハリーが目を閉じる。ぼくは、目を開けていられなくなる。

「おれは、こっちにいるべきなんだ」

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