第3話 思い出をあの日に返して
すっかり部屋が片付く頃には日も傾いていた。春の夜の、やっぱり冷たい風が部屋をかき回す。思い出も、後悔も、懐かしさも、そして寂しさも、みんなこの部屋の窓から外へと抜けていった。
この部屋はこんなに静かだっただろうか。開け放たれた押入れからは何も出てきそうにない。かつてベッドがあった場所にわたしは腰を下ろす。この部屋の姿はわたしの記憶にはなかった。ただ見慣れた天井の模様だけが、わたしとこの部屋の最後を見守ろうとしている。
これでよかったのだろうか。
勢いに任せてすべて捨ててしまったが、少し心残りがある。わたしの過去がなくなってしまうのではないか、そんな不安に駆られる。天井のちらつく蛍光灯が生み出すわたしの影がぼんやりと薄らぐ。蛍光灯の紐を引っ張って明かりを消すと、わたしの影は夕闇に溶けてなくなっていった。
お父さんが最後の段ボールがトラックに乗ったのを見届けると空っぽの家を見て満足そうにため息をついた。
「飯でも行くか」
わたしたちは近所にある食堂に赴いた。ここに来た記憶はほとんどなかった。なんだか久しぶりの家族での外食にちょっと心が弾んだ。
「好きな物を頼んでいいぞ!」
お父さんは得意げに言う。お母さんも「はいはい」と笑いながら餃子を注文する。わたしは唐揚げを注文した。別にそんな高い店ではない。だけど、こんなセリフをお父さんの口から聞ける日が来るとは思ってもみなかった。
注文を終えてふと店の中を見ると向こうのテーブルに見覚えのある顔があった。あの日、誕生日ケーキを囲んだうちの一人だった。こちらに気づく様子もなく、友達と思わしき人たちと食事をしている。薄い笑みを浮かべ、唐揚げの皿のパセリをつつきながら一言二言だけつぶやくようにしてその場にうまく溶け込もうとしていた。
あの日、彼女は例の同級生と違ってただぼそっと「いい誕生日だね」と言っていたのを思い出す。彼女は幼い頃に母親を亡くしていたらしく、小さくても母親が用意してくれたケーキを羨ましく思っていたのかもしれない。そんな気も知らずお母さんに当たっていた自分を今になって恥じる。
わたしはその思いを流し込むようにぐいっとビールを煽った。運ばれてきた唐揚げのパセリをつまんで口の中に入れる。
「みいちゃんパセリ食べるの?」
お母さんが意外そうな顔をする。
「今日から食べることにしたんだよ」
わたしもまた彼女と同じ薄い笑みを浮かべているんだと思う。そんな自分を想像しながら食事を終え、気づいたら自室のベッドの上に横たわっていた。パセリが入ったお腹がぐぐぐと動くのが感じ取れる。残さずに食べた料理はゆっくりと時間をかけて消化されていく。
今までのわたしだったらあの店の焼き鳥の串ですら全部大事に取っていたかもしれない。そしてどこかに仕舞い込んで、突然思い出して、なんであんなことしたんだろうって苦しむ。でも今日、わたしは全部あの店に、あの街へ置いてきた。
なんだか心がすっと軽くなっているような気がした。やっぱり、ずっとあの部屋の押し入れの記憶がわたしの重荷になっていたのだ。
仰向けになってゆっくりと息を吐く。アルコールの匂いに混じって微かにパセリの香りが鼻を抜けた。わたしはそのまま目を閉じてゆっくりと眠りについた。
引っ越しから随分時間が経った。長袖の服をカラーボックスから取り出そうかと考えていた時、お母さんからメールがあった。来週、わたしの実家は取り壊される。お母さんも土地を売却することを決意したらしい。お母さんはわたしよりも長くあの家に住んでいたから、なかなか決意できなかったようだ。ただ、最後に一枚家族で写真を撮るということで納得したようだった。それがお母さんなりの決別の印だったらしい。
わたしはあの引っ越しから数年して結婚をした。子供もできた。日々の記憶も、過去の物にしてきた。昔ほどの苦しみはもう襲ってこない。時折チクリと胸を刺す痛みも、懐かしさと形容できるものになっていた。わたしは結局、誰よりも過去を恐れて苦しんでいたのに、誰よりも過去に執着し、思い出に縋って生きていた。だけど今はできるだけ未来を見つめるようにしている。過去の思い出を、あるべき場所に返すのだ。
「お母さん行ってきます!」
玄関から駆け出す息子を慌てて引き止め、水筒を持たせて送り出す。息子と夫が出ていった後の家に訪れる静寂な時間。わたしは内職の仕事をしながら今夜の晩ご飯の献立を考えていた。
窓の外はすっかり夏模様で、今年で三十五回目の夏をわたしは迎えることとなる。近所の学校のプールから聞こえてくる歓声から、あの教室の静寂と塩素の匂いが浮かび上がってきた。久々のあの感覚。まぶたの裏に浮かぶ情景に、しゃっくりを上げる少女はもうどこにもいなかった。
思い出をあの日に返して 桜川 なつき @sakurakawa_natsuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます