第2話 ケーキのかけら

 二ヶ月くらい経ってわたしが荷物を取りに行く頃にはすっかり家は空っぽに近づいていた。それまでに何度も荷物をまとめなさいと両親から連絡があったが、どうしてもわたしは行けなかった。わたしは一日でも長くあそこにわたしの存在を残しておきたかったのかもしれない。

 見ず知らずの引っ越し業者のお兄さんたちがいそいそとお父さんに指示されるがままに荷物を段ボールに詰めていく。わたしの部屋はわたしが就職の時にここを出たときのままだった。小さくて狭い部屋。友だちなんて呼べやしない、物置のような部屋だった。帰省のたびにホコリが被らないように少しずつ整理はしていたけど、高校生の頃のわたしの匂いがまだそこで生きている。

 高校の時の卒業アルバムがそのまま勉強机に置いてある。後ろのページをめくると皆の寄せ書きが書かれていた。昨日のようなことなのに、今こうして生きている瞬間にもその時はどんどん遠ざかっていく。ぐいとその時の記憶に引き戻されそうになる。わたしは振り切るようにアルバムを閉じた。

 顔を上げて部屋を見渡した。ここは、ここだけは、あの頃の時間が凍結されているようだった。もしわたしが今、制服を着て家を出たら、すべてやり直せるだろうか。誰にも話すこともできない後悔、恥ずかしい思い出、すべて時間を巻き戻してやり直すことができるのではないだろうか。そうしたら、わたしの中の後悔も消えてくれるだろうか。

 開け放たれていた窓から春風がゆっくり部屋の中を抜けていく。

 ふうっとため息をついてベッドに腰掛ける。隣の部屋からドタドタと歩く人の足音が聞こえる。ベッドに体を横たえると天井の模様が目に入った。小さい頃はよく風邪を引いてこうして太陽が高いうちに天井を見上げていた。

「ちょっと、早くやりなさいよ。引っ越し屋の人に頼めば詰めてもらえるから。みいちゃんのものでしょ。自分の家に持って行くものがあるならちゃんと詰めるのよ」

 お母さんはそう言っていそいそと隣の部屋に戻っていった。

 そういえば、この家は引っ越した後どうするのだろう。築何年か知らないけど、祖父母の代にはあったというから、だいぶ古い。きっと取り壊すのだろう。そう思うと胸の奥がチクリと痛んだ。この家は、嫌いだったけど、わたしにとって唯一無二の家だった。

「……やるしかないか」

 とりあえず来たからにはやらないと――そう思ってベッドから起き上がり、押し入れの戸を開けた。ここにはわたしの後悔と思い出が隙間なく詰まっていた。小学生からの日誌や、配布されたプリント、テストの結果、修学旅行の写真から「あの日」友だちからもらった誕生日プレゼントまで。きっちりと整理されてすぐにどれも取り出せるようにされていた。だけど、これまで取り出したことは一度もない。

 ふと一番奥に鈍く光る缶があるのが見えた。中身は思い出すまでもなかった。わたしが幼稚園の卒園式のときに友達からもらった缶バッジだ。

「私のことをわすれないでね」

 離ればなれになる友達は最後にそう言ってわたしにそれを渡した。わたしは忘れまいと一番大事にしまっておいたのだ。わたしにとって一番親しい友だちだった。結果としてわたしはその言葉にひどくとらわれるようになった。誰もが忘れてしまっても、わたしが覚えていればきっとそれは救いになるのではないか、そんな強迫的とも言える思いがわたしの心を次第に縛り付けるようになった。

しかし、小学校、中学校とわたしの中の「後悔」が増していくに連れ、この襖はどんどん重たくなっていった。

 大量の思い出を前に、わたしはしばし立ち尽くした。そのわたしの心の枷は丁寧に隙間なく積み上げられ、狭い押し入れを内側から静かに壊そうとしていた。ファイルの背表紙に書かれたわたしの文字がゆらゆらとわたしを惑わす。

 思い切って手前の段ボールを引っ張り出す。わたしの全てはみんなここに詰め込んでしまったんじゃないかと言うほどに、ここにはものがあふれていた。素敵な思い出と共に溜まった後悔が、時折わたしの心の蓋をこじ開けて苦しめているのだ。

 ダンボールを床に置くと埃が舞った。中身に目をやると、高校のものだった。学校で受けた大学の模擬試験の結果。わたしは最後まで大学へ進学したいと願っていた。だけどうちから通える範囲に大学はなかった。周りの友だちが進学する大学の名前を、わたしも受けれたなら、と夢見ながら書いた。結果はどれもA判定。ただ家の経済状況を理解していたわたしは、両親に進学したいとは一度も言ったことはなかった。だけどあのとき、もし言っていたらどうなっていたんだろう。

「あら、テストの結果?」

 お母さんがまたやってきてわたしが持っていた模試の結果を覗き込む。とっさに隠そうとするもお母さんの表情が曇っていくのがわかった。

「……ごめんね。もし行きたいなら今なら――」

「……もういいから」

 お母さんは静かにわたしの側から離れて自分たちの荷造りに戻っていった。時は戻せない。あの高校の友だちと一緒に過ごすわたしの大学生活は、お金じゃもう手に入らない。

 窓から入ってきていた風が今度は逆に窓へと抜けていく。舞い上がっていたホコリがゆっくりと外へと逃げようとしている。

 わたしは静かに模試の結果を割いて丸めてゴミ箱に投げた。放物線を描いて、それは縁に当たって床に落ちた。わたしはそのとき、その黒いゴミ箱に貼られたシールに気がついた。小学生の頃流行ったパンについてくるキャラクターのシールだった。百円ちょっとのそのパンがどうしても欲しいとスーパーで駄々をこねたのを覚えている。みんな持っているから、わたしだけ持っていないから、と。結局買ってもらえなくて、掃除の時間に教室のすみっこで拾った誰かが落としたであろう埃だらけのそのシールを大事に拾ってこうして貼っていたのだ。

「ううう……ちくしょう……」

 思わず口から漏れた言葉は過去への呪詛だった。きっと誰もこんな小さなことを覚えてもいない。わたしと、わたしの部屋の物だけが記憶している。だったら――

 わたしは床に落ちた模試の結果を拾い上げ、そしてそれが入っていた段ボールの中身をすべてゴミ箱にぶちまけた。溢れたゴミ箱から滑り落ちるようにわたしの一部が流れていく。部屋の入り口のゴミ袋を開いて手当たり次第押し入れの中のものを入れていく。修学旅行の写真も、林間学校のしおりも、父からのお下がりのリコーダーも、全部、全部。

 ほとんど空っぽになった押し入れはこんなにも広かったのか、と驚いたと同時に、自分の中身をすっぽりとくり抜かれたという錯覚に陥った。体の力が急に抜けてわたしは座り込んだ。これで良かったのだろうか。袋のそこで窮屈に横たわる缶を横目にわたしは押入れの奥のしみを見渡していた。

 ふと押し入れの奥の隅っこに銀色のトレーがあるのが見えた。屈んでそれを拾うとあの日の記憶がよみがえる。あの日、小さな誕生日ケーキに怒った日――あのケーキのトレーだった。

 思わず口から息が漏れた。わたし、こんなものまで取っていたんだ。もう十年以上経っているのに、こうしてあの日のケーキのかけらをわたしは後生大事に仕舞い込んでいたのだ。あの日、お母さんに対して怒った日の夜、食後に一切れだけケーキが出てきた。この銀のトレーに乗って。丸かったケーキはすっかり小さく痩せ細っていた。両親はそんな小さなかけらにロウソクをたくさん立ててもう一度祝ってくれた。純粋にうれしかったことを覚えている。誕生日を一日に二度も祝われるなんて、と。

 トレーを裏返すと頭だけ溶けたロウソクがきっちりとセロハンテープで貼られていた。世界は広いと言うけれど、こんなことをしているのはわたしだけなんじゃないだろうか。カビ臭い押し入れに寝転がってふうっとため息をつく。

「……随分捨てるのね。って、みいちゃんなんでそんなところに――」

 部屋に入ってきたお母さんが押し入れを覗き込む。わたしはひらひらと手にしたトレーを見せた。お母さんの表情が一瞬強張った。ゆっくりと膝を追って座ると、覚えてるわよ、と小さく言った。その言葉にわたしははっと息を飲んで頭を起こす。

「あの日、お母さん、もっと大きなケーキを買っておけばよかった。みいちゃんに恥ずかしい思いをさせちゃったよね」

 トレーに目をやりながらお母さんは続ける。

「今でもどうしても、お母さんは忘れられないの。みいちゃんのあのときの顔が、どうしても」

 このトレーの思い出はわたしだけじゃなかった。お母さんも覚えていた。お母さんは立ち上がって押入れの枠で切り取られたわたしの視界から消える。わたしはうつむいてろうそくを貼り付けている黄ばんでボロボロになったテープを指でなぞった。

「お父さんが異動になって、引っ越そうとなったときこの家をどうしようか迷ったのよ。お父さんはもう古いから壊しちゃえって。だけどお母さんにとってこの家は家族で過ごした大事な思い出が詰まった家だからどうしても嫌だって」

 わたしは言葉に詰まった。

 お母さんはわたしがさっき詰めたゴミ袋を縛りながら続けた。

「みいちゃんが出て行って、そしてみいちゃんもこうして、過去の出来事を絶とうとしてる。だからお母さんも見倣わないとね」

「ちがうよ」

 わたしはゆっくりと押し入れから出て言う。お母さんは顔を上げようとしなかった。

「わたしの中にあるわたしを苦しめる思い出を整理したかった。それがこれだった。絶とうとしてるわけじゃない」

 世界でわたしだけだと思っていた。些細な過去にとらわれ、縛られ、苦しめられるのは。だけどこの人もわたしと同じような思いを抱きながら生きてきたのだろう。わたしは嫌な思い出も押入れに押し込んで蓋をして、たまに漏れ出てくるそれに苦しんでいた。しかし同時にこの思い出に何か執着を抱いていた。だから、思い出の山の整理がつかなくなって、このありさまが続いていた。

「お母さんも捨ててみなよ、少しだけ、楽になるよ」

 わたしは持っていた銀色のケーキのトレーを差し出した。お母さんは裏に貼り付けられたロウソクを見て、

「……そうかもね」

 少しだけ笑って、丁寧にトレーをゴミ袋にしまって口をきつく縛った。

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