思い出をあの日に返して

桜川 なつき

第1話 過去と私

「あーっ!」

 わたしは星ひとつない夜空に向かって叫ぶ。時刻はおそらく深夜一時。叫び声はきっと誰にも届かない。右手に力が入って、空き缶がぺこんと情けない音を立てる。春が近いとはいえ、この時間の風は冷たかった。

 河川敷で酔いを覚まそうとやってきたはいいけど、ずっとぐるぐると同じ思いばかりが胸の中を回り続ける。いつぞやの失敗だ。最悪だ、もう。同じ失敗をこうして何年も何年も引きずっている。大きな失敗や失恋を何年も引きずる人はたくさんいるという。わたしもいっそ失恋だったらいい。むしろそうした大きな出来事を引きずるのであれば周りにも愚痴れるし、新しい恋人を探すとか、そうしたことで気を晴らすことができる。

 でもわたしの場合は違う。本当に些細な出来事、普通の人からすると失敗とも呼べないような些細な「モヤモヤ」の集まりが時たまに、突然わたしの中に浮き上がってくる。そしてわたしの心を繰り返し蝕んでいく。

 先程浮かび上がってきたものは「小学生の頃の担任が作っていた学級通信の配布の余りをくしゃくしゃにしてゴミ箱に捨てるところを担任に見られてしまった」というものだった。休みの人の分だったのか、多く刷っていたのかは覚えていない。ただ配り終えたときに手に持っていたそれを何も考えずに丸めてゴミ箱に入れてしまった。ふと振り返ると担任の年季が入ったジャージが目に入った。担任はそれを見て何も言わなかった。そのときの彼の表情も覚えていない。ただわたしの中にはそのときの「しまった」という後悔が深く深くわたしの心の中に根を下ろしてしまっているのだ。どうしたら取り除けるのだろう。あのときなんでそんなことをしたのだろう。そんなことをもう何度も繰り返し思い出してはこうして右手の空き缶のように心がベコベコと音を立てる。

 こうしたものは他にも数え切れないほどある。あれは高校の数学の授業中のことだ。プールの授業の後のやけに眠たい時間。皆が心地よい眠気と微かな塩素のにおいに包まれてうとうとしているとき――わたしは突然止まらないしゃっくりに襲われた。それまで教室を支配していた数学教師の手から放たれるチョークの音に呼応するように何度も繰り返し反響するわたしのしゃっくり。止まってくれと強く願うほど大きく胸はけいれんを起こす。前でうつ伏せで寝ていたはずの男子生徒の肩がプルプルと震えているのを今でも思い出す。今でも塩素系漂白剤を使うたびに彼の震える背中がどうしても浮かんできてしまう。

 あるいは、パセリ――中華料理屋などで彩りとして良く使われるあのパセリ。私はあれをただの飾りだと思って食べることはなかった。だけどある時ぼんやりとテレビを見ていたらパセリ農家が取材を受けていて「美味しく作れたと思うんですけどねえ」と悲しそうな顔をしていたのを思いがけず見たとき。

 そうした、ほんの些細なこと、誰かに愚痴ろうものなら「だからどうしたの?」で終わりなような出来事にわたしは延々と縛られ、苦しみ続けている。そしてその些細なささくれはわたしが生き続けている限り今日も明日も明後日も心に根を張り続け、心を縛り付けるのだ。

「うっうぁぁ……」

 また情けない声をあげて座り込んだ。酔いもあって、頭の中でくしゃくしゃの学級通信と河川敷のゴミが混ざり合う。違う、あのときの学級通信はゴミじゃなかった。ううん、今日だって、明日だって、わたしはこうしてくよくよ過去を悔いて生きていくしかない。もう仕事もやめて人里から離れて暮らしたい。暮らすといえば、高校を卒業してすぐに就職してお金を貯めて実家を出た。古くさくて小さなあの家が嫌だった。小学生の頃、友だちの家で誕生日パーティーをする「ルール」のようなものがわたしたちにはあった。初めてわたしの家に友だちを呼んだとき――本当は呼びたくなんてなかったんだけど――お母さんがわざわざ用意してくれた精一杯の小さなホールケーキを見たわたしの同級生は「今日誕生日って伝えたの?」と、こそっとわたしの耳に囁いた。あのときわたしはすごく恥ずかしくてお母さんに「なんでこんな小さなケーキなの!」ってすごく怒った覚えがある。ホールケーキなんて買ってもらったのはそのときが初めてだったのに。ごめんね、みんな今日はケーキじゃないお菓子もあるからねとお母さんは悲しそうな顔をして戸棚から別のお菓子を取り出していたのをよく覚えている。

 今となっては本当に申し訳ないことをしたと思っている。もう十年以上前の話だ。今更蒸し返しても、という気持ちもある。お母さんも覚えていないだろう。だからこそ、この気持ちのはけ口がない。苦しい。

 先週、久々にお母さんから連絡があった。

「みいちゃん、元気にしてる?」

 お母さんは最近忙しくしていると聞く。お父さんの仕事がお偉いさんの目に留まって本社への異動が決まったとか。年収も昔よりだいぶ増えると嬉しそうに話す。

「お母さんたちね、あの家出てもう少し都心に近いところに部屋を借りることにしたのよ」

「……そうなんだ、大出世じゃん」

 引っ越しという単語を聞いて、一瞬息が詰まる。頭がかっと白くなる。わたしは平静を装いながらも自分の心臓が跳ねるのをただ見つめるしかなかった。

「そうね、だからみいちゃんの荷物取りに来て欲しいの」

 電話の向こうのお母さんは少しなんだか寂しそうな様子だった。だけどそれに対して何も言葉が浮かばなかった。ただわかったとだけ言って電話を切った。

 子供ころのわたしは周りの友だちが住んでいたような大きくて綺麗な家に住みたかった。せめて二階建てであってほしかった。実際にもっと大きな家が欲しいとせがんだこともあったけど、両親は困った顔をしただけだった。

 だけどその家がなくなるなんて考えもしなかった。あの家はいつまでも、わたしがこうして家を出た後でもずっとあるものなのだと思っていた。あのときのホールケーキの舞台がわたしの手の届かないところに消えてしまう。小学校の頃によく遊んだ近所の公園が駐車場になったときに感じた、あの胸をかすかに締め付ける疼きが胃のあたりに登ってくる。決してわたしがどうにかできた問題ではないけれど、「取り返しがつかないことをしてしまった」と近くを通るたびにやるせない思いがこみ上げてくる。そんな感情に似たものが、また漠然とわたしの心を支配し始めていた。

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