森鷗外「大発見」――どうか森Oh! Guy! と発音してください――

「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」のドイツ三部作はいずれも明治二十年代の作で、森鷗外の創作(批評や翻訳は除く)はそこから一気に明治四十二年にジャンプする。


 もちろん全くの沈黙が二十二年あったわけではなくて小説に限っても「そめちがへ」(評判が悪い江戸時代の戯作っぽい作品)「朝寢」(これは結構面白いギャグ小説)「有楽門」(これはあんまり面白くない)といった掌編をいくつか発表している。


 明治四十二年の森鷗外は物凄かった。鷗外第二形態である。

「半日」(嫁姑問題を描いた怪作。妻を非常に醜く描いたせいで妻の悪評が広がりご近所でいじめられたとされる。結果当時の妻から長らく全集収録を拒否された)

追儺ついな」(お座敷で「鬼はそと福はうち」をやる新喜楽という料亭の話)

「懇親会」(懇親会で酔っ払ってフラフラになりながら喧嘩をした話)

「大発見」(本稿に詳しい)

魔睡ますい」(妻に「魔睡術」という催眠術のようなものをかける医者の話)

「ヰタ・セクスアリス」(自己の性生活の遍歴を描いて子の性教育をしようと思うものの「我子にも読ませたくはない」から仕舞い込む話)

「鶏」(馬丁が鶏の卵を盗んでも、鶏が隣の人の畑を荒らして怒られても気にしない冷静なのか馬鹿なのかわからない軍人の話)

「金貨」(泥棒を決意したアル中が軍人の屋敷を覗く。そこでは酒盛りをしていたから泥棒は涎を垂らす。やっとのことで外国の金貨を盗むも結局銅貨だったという話)

「金毘羅」(金毘羅へ参らずに高松の講演会から帰った大学教員の子供が百日咳になる。妻は金毘羅に行った人からお札を貰い、病気の子供は弟こそ亡くなるものの姉は助かるという夢を見る。実際その通りになったという話)


 これらは全部明治四十二年に書いている。鷗外は役所から帰ってから一旦仮眠をとり、深夜から丑三つ時になるまで文章を書いていた。

「半日」「魔睡」「金毘羅」以外はコミカルに書かれている。


「金毘羅」も実は面白いところがあって

「どんな名医にも見損うことはある。これに反して奥さんは、自分の夢の正夢であったのを、隣の高山博士の奥さんと話し合って、両家の奥ではいよいよ金毘羅様が信仰せられている。

哲学者たる小野博士までが金毘羅様の信者にならねば好いが」

と締めくくる。


 それら以外の作品は基本的にコメディである。

特に「鶏」の真顔でボケているのか半笑いで書いているのかわからないふざけ方は絶妙だ。

隣に住んでいる女が猛弁を振るって攻めてきたときに軍人の主人公は半笑い(「微笑」)で対応する。これはもう鷗外の世の中に対する態度がそのまま書かれているような気すらするのである。


 言うまでもなく「ヰタ・セクスアリス」は名作だ。実に面白い。

ただ前後の明治四十二年の作品群を読まずに「ヰタ・セクスアリス」だけ読むとこの〈真顔で悪ふざけするスタイル〉について行けないかもしれない。

コメディとして読むのが肝要である。


 森鷗外のこうした作品群はいずれも〈自然主義が生み出した型にのっとって自然主義を批判するような話を書く〉というどっちつかずの立場で書かれている。


 明治四十年には二葉亭四迷が『平凡』という小説を書いている。

これは大傑作で滅茶苦茶面白い。かわいがっていた犬が死ぬところは辛いが基本的にギャグ小説である。

この小説も自然主義文学のお決まりである私小説(実は島崎藤村『破戒』など私小説ではない自然主義文学もあったのだが、この方向性は田山花袋『蒲団』のマネをする人が増えすぎてかき消された)のスタイルで書かれている。


「近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、いささかも技巧を加えず、ありままに、だらだらと、牛のよだれのように書くのが流行はやるそうだ。

い事が流行はやる。私も矢張やっぱりそれで行く」


 と書いている。鷗外的な〈馬鹿にしながら乗る〉〈真顔で(この場合は真剣に文学の流行に乗るフリをして)ふざける〉スタイルである。

二葉亭四迷にしろ森鷗外にしろ私小説という型を利用したのだが、一点だけあえて拒否している事があるようだ。


 それは「深刻さ」である。

さも深刻そうな顔をして、大事件のごとく(多くはエロティックな)生活を披露して読者の前で号泣してみせる――まるでキリスト教の「告白」とか「懺悔」とかいうやつみたいだ。


 実際、柄谷行人は『定本日本近代文学の起源』(岩波書店、二◯◯八年)で「内面の発見」や「告白という制度」について書いている。

これによると自然主義の作家の多くはキリスト教の影響を強く受けていてキリスト教の「告白」システムを基礎にして私小説を生み出したのだという。


 本書の肝はもちろん〈自然主義のみならず浪漫主義者たちもキリスト教の影響を強く受けているからこの二つの流れは実は同根なのだ〉

という脱構築ディコンストラクション(ジャック・デリダが使う二項対立を地盤から揺るがすやつ)にあるのだが、

まあそこは『起源』を読んでいただきたい。


 柄谷の「告白という制度」なんていうのにも元ネタがあってそれはミシェル・フーコーの「告白こそが告白されるべき〈内面〉を生み出した」という『性の歴史』で発表した考え方である。

告白して罪を赦してもらう。告白するには人には知られていない(内面的なプライベートな)「秘密」が必要になる。告白し続けるにはずっとこの「秘密」を「発見」していかなければならない――という堂々巡りが「秘密」を大量生産するのだ。


 告白はもちろん罪を赦してもらうためで、罪を赦してもらうのは天国に行けるような真人間になるためであろうから〈半笑いで告白する〉のは無意味である。


 なのに二葉亭四迷と森鷗外は笑うのをやめなかった。

私小説という流行には乗るけれど、真面目になったり泣いて見せたりするのだけは御免被るというのである。


のみならず、この二者には決定的に欠けているものがあった。

それは性欲である。

実際に四迷や鷗外が性的に枯れていたかはよくわからないが、この両者は間違いなく自然主義者達とくらべてジジイであった。

自然主義者達が性欲に支配されて大狂乱しては大袈裟に告解しているのを眺め、ジジイたちは「俺にはこういうのできねえなあ」と思うのである。

鷗外に至っては「ヰタ・セクスアリス」で自分の性欲が恬淡としていることを何度も認めている。


 反自然主義という不思議な言葉があって、厄介だなあといつも思う。

自然主義の流れに乗らなければ反自然主義なのである。

だから耽美的な谷崎潤一郎も反自然主義なら森鷗外のように半笑いで私小説を書く作家も反自然主義になってしまうのだ。

もはや作風を形容する言葉として「反自然主義的だ」などと言ったとしてもその内容はサッパリわからない。

鷗外みたいなのが出るのか谷崎みたいなのが出るかわからないのである。


 ちなみに「刺青」は明治四十四年に出た。「平凡」から四年後「ヰタ・セクスアリス」から二年後である。

この頃反自然主義には二筋の途があったように思う。

一つは鷗外的に半笑いで「告白」する途、もう一つは谷崎のように流行を無視して空想的で耽美的な話を堂々と発表する途である。

無論この二筋の途は度々共同戦線を張っている。

鷗外は谷崎に好意的であった上、「スバル」誌で共演している。


 なかなか本論が始まらないのである、

「大発見」の内容に入るまでにもう三千字も費やしてしまった。


「大発見」はドイツ留学中に日本大使館に行き、日本大使から「白人は日本人とは違って普段から衛生に気を配っている。たとえば日本人は鼻をほじくるが、ドイツ人はそんなことをしない」と言われる話である。


本当にそうなのかが気になって仕方がない主人公は白人が鼻をほじくる瞬間を目撃しようとして探し回る。

留学中はついに白人が鼻をほじくるのを見付けられなかった。

主人公はドイツの帰りにフランスのパリにも行っている。フランスの人も鼻をほじくらない。

最後はヨーロッパの本の中に鼻をほじくる描写を見付けて大満足して終わる。

これが「大発見」である。


「僕は此頃期せずして大発見をした。今そのお話をしようと思う。

こう吹聴したら、諸君は頭から僕を法螺吹ほらふきとせられることであろう。それも御尤ごもっともである。


大発見。ちと大袈裟おおげさかな。しかし大小なんぞというのは比較のことばである。お山の大将も大将である。

僕なんぞも文学の大家だそうだ。

ただに比較の詞であるのみでない。

大小はまた主観的に物を形容することに使っても差支ないのである。


子供に餡餅あんもちを遣ろうと云えば、大きいのをと云う。大きいと云ったって知れたものである。

僕は主観的に僕のした発見を大なりとするに過ぎないということを、前もってことわって置く」


 大発見は相対的な比較の言葉でなおかつ主観的なのだから白人が鼻をほじくることを「大発見」したと主張しても良いのである。


 森鷗外の大発見には中々高度なギャグが織り込まれている。

羅紗は洗濯が出来ないから不衛生だというので赤羽に羅紗を洗濯してくれる店があるのだという事に話が及ぶ。

けれども鷗外が店に預けた羅紗ラシャのズボンは帰って来なかった。


「要するに羅紗は穴があいて着られなくなるまで、

清めることの出来ないものである。

ブラシ位でこすったって、地質に沁み込んでしまった汗の揮発分も、

鼻洟はなみずの揮発分も、永遠に取れない。


此処ここ一寸ちょっと活版屋に注意して置くが、しみると云う字はさんずいに心という字を植えてくれ給えよ。

三ずいに必ずという字を植えるのではないよ。

分泌の泌の字を植えるのではないよ。

こないだすばるに沁みるという字の議論を書いて、誤植をせられて、何の事だか分からなくなったから、念のためことわって置くよ」


 なんたるメタネタであろうか――鷗外は活版屋に話しかけているのである。

活版屋というのはもちろん活版印刷の本を造るところのことだ。

鉄製の細かいハンコのような活字を棚から拾い上げる職人がミスをすると「誤植」が起きるのである。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の冒頭に「活字拾い」とかいうシーンがあったかと思うが、あんな感じであろう。


 

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