須永朝彦『須永朝彦小説全集』(国書刊行会、一九九七年)――吸血鬼で美青年貴族でゲイなんて三重苦だと言うんですか~っ!――

 権威に向かって尻を出し過ぎた結果体を冷やして風邪をひいてしまった。

風邪をひいていると頭が動かない。

今は奮発して買ったモンスターエナジーの力で文章を書いている。


 いかにして生計をたつ(立つ)田川たがわと考えたところで気が滅入佐山いるさのやまの峰に懸かれる金の月(尽き)なのである(?)。


 こんなことばかり書いていても仕方がないから本題に入る。


 須永朝彦ははじめ塚本邦雄系の歌人として出発したらしい。

その後ロマンティックとしか言いようがない奇想天外な小説を多数発表する時期に入り、

九◯年代以降は上代(奈良時代以前。『万葉集』『古事記』など)から近世(江戸時代)に至るまでの怪談奇談を収集・翻訳するアンソロジストとして活躍した。


また泉鏡花のセレクション、その名も「鏡花コレクション」も編んでいるほか、『日本幻想文学集成1 泉鏡花』の編集もしている。


 余談だが岩波の「鏡花小説・戯曲選」や「新編泉鏡花集」、種村季弘編集のちくま文庫「泉鏡花集成」に国書刊行会の「澁澤龍彥泉鏡花セレクション」と、泉鏡花は複数巻にわたる作品集が多数編まれている作家である。


岩波の「全集」があれば(いくつか遺漏があるものの)大抵の作品にアクセスできるというのにやけにセレクションが多い。


こんなに作品集が作られる作家は彼くらいではないか。

理由は色々あるに違いない。

〈「全集」だとあまりに浩瀚かつ巻数が多くて暇人以外全部読んでいられないけれど「岩波文庫」や「新潮文庫」を読むだけでは見逃してしまう傑作が非常に多い〉といった極めてリアルな問題の他、単に鏡花は読者が多く選集を出せば売れる等。


鏡花は非常にコンテンツが多いからどんな選集でも必ず〈選ばれなかった傑作〉が出てくる。


だから「今までの選集はどれもこれも俺が好きな作品を見逃していやがるから俺が最強のセレクションを編んでやる」という妄執に取り憑かれる人間が後を絶たないのだろう。

つまり「作品集が出れば出るほどその刺激を受けて新しい作品集が作られる」のである。


 ちなみに私がセレクションを編むなら「一之巻」~「誓之巻」連作は絶対に入れると思う。

非常に巻数が多い種村季弘による「集成」ですらラスト「誓之巻」のみの収録に留まってしまっているが大傑作である。


 もちろん「全集」と同じ総ルビにしたい。

文庫で総ルビだと文字が詰まって目がチカチカするから四六判しろくばんが良い。

ソフトカバー本は持ち運ぶとボロボロになりやすいからハードカバー。紙も丈夫な良いものを使う。

多少重くてもまあ良し。八百グラムを超えるとリュックサックでもキツくなるが、四六判ならそこまで重くはならないだろう。


 装丁は鏡花の好み通りに優しい色合いの瀟洒なものにするのが〈鏡花本〉のセオリーで、小村雪岱こむらせったいが手掛けた「全種」もそうした流れを汲んでいる。

しかしここはあえて最新の「決定版谷崎潤一郎全集」や北原白秋の『邪宗門』初版本のようなモダーンで派手な装丁にしたい。

「決定版谷崎全集」ははこから出せば真っ赤である。

あえて真っ赤な鏡花選集を作る、というのは奇抜で良い。かぶいていると言ってよかろう。


 話は須永朝彦に戻るが、東雅夫は須永について「異貌のアンソロジスト」という言葉を用いている。

「異貌」とはまさに須永朝彦にふさわしい言葉のように見える。


 けれども意味はよくわからなくて、各種小型中型の国語辞典はもちろん「日本国語大辞典第二版」にも立項されていない。

それでは存在しない言葉かというとそうではなくて国書刊行会から「異貌の19世紀」という叢書が発行されるなど、「異貌」の語を冠した書物は多数存在する。


 意味はわからないが須永朝彦のような人のことを「異貌」と言うのだろうと思う。


『須永朝彦小説全集』は「就眠儀式」「天使」(この二章は二冊の単行本をフル収録した上で数編増補したもの)「ババリア童話集」「いすぱにあ・ぽるつがる奇譚」(これらはシリーズ単位で一章としており単行本版とは括り方が異なる)あたりの本書前半の作品群に対し


後半の「滅紫編」(単行本一冊分に掌編を一作加えた章)や「滴瀝編」(単行本未収録かつ各シリーズに組み込めない諸作の寄せ集め)収録の「胡蝶丸七変化」「百合道成寺」あたりの作品は日本の歴史的な題材を扱っておりやや雰囲気が異なる。


後半に収録された作品でも「聖家族」連作や「蘭の祝福」などは前半の作風と似ている。


 やはり「就眠儀式」そして「天使」の諸作が良い。

彫琢された短編が堪能できる。

「吸血鬼」や「天使」といった重要モチーフを各作品で繰り返し描いている点が特異だ。

画家だとゴッホの糸杉のように同じ対象を繰り返し描くのは珍しくないが小説家でここまで同じ物を描き続ける人は結構貴重なのではないか。


 時間をかければかけるほど字数が削られるタイプの作風だから商売としては儲からないだろう。

その分作家としては誠実だ。

私は書き手としては〈できるだけラクをして短時間で文章を沢山書く〉ことを重視するが

読み手としては反対に〈優れた作家が時間をかけて書いた作品を好む〉という人間である。

『須永朝彦小説全集』のような書物を読むのはこの上ない幸福なのだ。


「就眠儀式」は「契」という作品から始まる。

主人公「私」がチェンバロを弾きを募集する広告を出す。

「私」は仲秋の名月の夜に雇った青年を喰らう。

その夜喰われた彼は「私」によって吸血鬼になった八人の青年たちとあわせて九人目の「弟」になったのだ。


小説の結びにはこうある。

「私は十二年前、廿二歳にじゆうにさいの時、巴爾幹バルカンを旅行した。以来、今日まで廿二歳のまゝで仲秋の月を九度仰ぎ、九人の弟を得た。世俗風に倣つて指を折ると、丁度耶蘇イエスの果てた年齢としになる。しかし、十字は禁物だ」と。


「しかし、十字は禁物だ」とおどけてみせるようなユーモア精神が須永朝彦作品の隠し味である。


 続く「ぬばたまの」は『全集』随一の完成度を誇る掌編である。

書き出しはこうなっている。

「かつてありえた世界の太初はじめのやうに、あるいはこののちきたるべき世界の終末をはりのごとく美しい夕焼であつた」。


 私は書き出しに凝る作品は好きではない。

何作もそうした〈印象的な書き出し〉を読んでいると〈読者の気を惹いてやろう〉というウケ狙いが嫌らしくてかえって読む気が失せるのである。

控え目で無造作なイントロを好む。


 けれどもこの一文は見事だと思う。

どこか〈歌人らしさ〉を感じてしまうのは「世界の太初」と「世界の終末」という「創世記」や「ヨハネの黙示録」などの神話を想起させるノスタルジーのせいか。

それとも「見渡せば花も紅葉もなかりけり」というように繰り返し詠まれてきた「夕焼」のせいか。


「秋は夕暮れ」以来「夕暮れは秋」になってしまいもう〈夕暮れを出すなら季節を秋に設定しなければならない〉雰囲気すらあるが、本作は「山藤」の季節である。

女が「花菖蒲襲はなあやめがさね」の衣を着ているのだから菖蒲の節句がある五月に違いない。

しかし女の「檜扇ひあふぎ」には「この季節には似つかはしくない紅葉が、紙燭に照り映える」。

ここに描かれた五月は秋のイメージに支えられている。


 三作目「もみの木の下で」は他作でも登場するトランシルヴァニアの貴族で吸血鬼のヘルベルト・フォン・クロロック公爵初登場である。

ちなみに樅の木も色んな作品で繰り返し登場する。


 この作品は「舞姫」の逆バージョンのような話である。

「舞姫」では「父」を早くに亡くしている主人公太田豊太郎は「母」に育てられた男である(そして「母」が亡くなったから主人公太田豊太郎は自由恋愛や自我に目覚める)。そしてドイツでエリスという女に出会う。


 しかし「樅の木の下で」の主人公である「私」は「母」を早くに亡くしていて「父」によって育てられている。

そしてオーストリアの首都ウィーンで美青年の吸血鬼と出会う。


 つまり主人公を取り巻く人々の性別が対照的なのだ。


「舞姫」がエリスを捨てる結果となったのと同じく「樅の木の下で」でも美貌の吸血鬼ヘルベルト・フォン・クロロック公爵の誘惑をしりぞけ、「私」は日本に還ってくる。


その際決め手となったのは「私」を心配した「父」がクロロック公爵が百年以上前の人物であることを探り当て、とうに死んでいるはずの人間がまだ生きているという不気味な事実を突きつけたことだ。


 はじめから人ではないクロロック公爵、そして美青年を見付けるとすぐ弟のように可愛がる悪癖のあるクロロック公爵を捨てる「私」には太田豊太郎ほどの嫌らしさはない。


「就眠儀式」と章の名前になっている掌編「就眠儀式」に出てくる呪文


鳥兜とりかぶと、闘牛、熟睡うまい、インヘルノ、呪ひ、皮膚、笛、エヴァ、ヴァムパイア……やりなほし、白蟻、歌曲リート、トッカータ、タンゴ、護符、笛、エヴァ、ヴァムパイア」


は短歌かつになっていて面白い。


「とりかぶ(五)/うぎ(七)/んへる(五)/(七)/むぱいあ」


「やりなほ(五)/ろあ(七)/っかー(五)/(七)/むぱいあ(七)」


 といった具合である。


 これもまた須永の遊びの精神の一例である。


 極めて視覚的に描かれた文章は痒いところに手が届くといった具合で、隅々まで登場人物のヴィジュアルや情景を想像することができる。


 たとえば「天使」の連作で天使の翼が「金色」と明記されている点などはしっかりしている。

書いてもらわないと私は天使といえば白い翼をイメージしていただろう。

須永の天使は人の言葉を話さない。「ルルルルルン」と鳴く。

「ルルルン」とは実に天上的な擬音語である。


『須永朝彦小説全集』は絶版かつ古書価格高騰につき私は図書館で借りて読んだ。

『全集』なんて名前の本はたいてい図書館に入るから探すのにはそこまで苦労しないかと思う。

しかしこの書物は所有する価値が多いにあるから復刊を期待する。


 私は須永の諸作では「ぬばたまの」が一番好きである。

この作品が収録されているちくま文庫の『須永朝彦小説選』(筑摩書房、二◯二一年)でしばらくは我慢するとしよう。

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