そんな国じゃなかった

@miura

第1話 そんな国じゃなかった

               1

 「狂う年か、うるう年が狂う年、上手く言ったもんだよな」と言葉を吐いたケンスケが時計を見る。

 二月二十九日まで、残り三分を切っていた。

「ウォーっ、楽しみやっ、ムチャクチャ楽しみや~」とダイスケが吼える。

「なに興奮してんだよ。電車が走りだすまでにはまだ五時間はあるんだぜ。なぁ、コウスケっ」

「それに始発電車に女子校生なんか乗ってないだろっ」

「アホかっ、コウスケな、お前は知らんやろうけど、クラブ活動してる女の子らが朝早うから結構乗ってるんや」

「女の子だからって油断しないほうがいいぜ。条件はみんな一緒なんだから、気をつけないと殺られるぞ」

「コウスケな、四年前のこと覚えてるか?

 世間は大騒ぎになったけど、ふたを開けたらどこの街も閑散としとったやろ。今日一日法律が無くなる言うても、そこらじゅうで暴動が起こる、そんな国やないんや、この国日本、そして俺たち日本人は」

「ところでコウスケは何企んでんだよ」とケンスケが割って入る。

「俺はいつも法に触れていることをやっているから今更なんだよな。後でコンビニに行くから店の前の横断歩道を赤信号で渡っとくよ。それか、せっかくだから、駅前で派手に特売会でもしようか」

「お前はどうすんねん?」とダイスケがケンスケに聞く。

「俺はお前たちみたいに単純に法に触れるようなことはしない。俺の犯した罪が、本当に法に触れるのかを検証したい。そして、罪と法、罪と罰、法と罰の関係性について考察するんだ」

「しょうもないのぉ、単純に、こどもも旦那もおる女と不倫するだけの話やろが、大げさに言いやがって」

「あっ、わかる?」

 言ったケンスケは大好きなコーラをあおってげっぷを一発かます。


               2

 美奈は日付が変わったことを確認した。

 とうとうこの日がやって来た。

興奮で思わず身震いする。

 高校の指定カバンに入れたサバイバルナイフを取り出し、部屋の灯りを集めて光る刃先を確認する。

 アウトドアショップの店員にしつこく聞かれた。何に使うのか。今度学校で屋外授業がありキャンプをすることになった。そんなの学校で用意してくれないのか。自主性を重んじる校風なんで。

 お釣りを受け取るとメンバーズカードの発行を断り逃げるようにして店を出た。

 刃先にそっと指を添える。

 本当に人間の肉を切りつけることができるのだろうか。

 いや、やらないといけない。ああいう人間には報いが必要だ。

 いつもニヤニヤと笑って近づいてきて、周りの乗客に紛れ、暫くすると、いつものあの手の感触が臀部から伝わってくる。なんと卑屈なやつだ。何としてでも、今日のこの日に仕留めないといけない、必ず・・・。


               3

一本百円もしないプライベートブランドのレモン酎ハイが空になった。

 会社からは万が一のことがあってはならないので自宅待機を命じられていた。

 法を犯そうという気などさらさら無く、それに、誰かに命を狙われるようなハードボイ

ルドな人生は歩んでこなかった。

 腰を上げると、自室を出て、リビングと廊下を隔てている扉を押す。

 妻と娘はまだ起きていたが、もちろん言葉は交わさず、冷蔵庫から、同じくプライベイ

トブランドのコクもキレもない発泡酒のビールを手に取ると自室に戻る。

 プラスチックの収納ボックスからDVDプレーヤーを取り出し、中にいつものディスクが入っているのを確認しイヤホンを装着する。

 家にある唯一のノートパソコンは娘が占領しており、妻とは十年以上体の交わりがなかった。

 再生釦を押す。

 いつもの女が出てきていつものプレイを披露し、いつもの表情で、いつもの声を上げる。

 さすがにいい加減飽きてきた。

 会社の同僚から千円で譲り受けて、もう半年がたった。

 そろそろ新しい女との逢瀬がしたい。

 しかし、この国の法に触れていることには間違いない。スポーツ新聞の求人広告欄の横に記載されている“大特価 十枚 五千円”に続けて書かれている番号に電話を掛ける勇気はない。が、ちょっと待て、今日はあの日だ。四年に一度のチャンスの日だ。オリンピックを目指すアスリートの気持ちが少しわかった気がした。よしっ、朝飯を食ったらコンビニにスポーツ新聞を買いに行こう。

 DVDプレーヤーの画面から女を消すと、部屋の灯りを消し、保は布団に潜り込む。


               4

 夫には「母の体調がすぐれないので」と嘘をついた。

「ずっと専業主婦だったから、誰かに恨みを買うようなことは無いと思うから、それに、全く見ず知らずの通りがかりの人間に殺されるような国じゃないでしょ」

「そうだな、すごくたまにはあるけど、基本的に日本はそんな国じゃないよな」と言って夫は納得してくれた。

 夫は古い考えの人間で、こどもが小学校を出るまでは家にいてくれと言われ、同期入社のみんなが出産をして暫くするとこどもを保育園に預け、職場復帰するのを横目で見ながら泣く泣く退職した。

 そして、こどもの手が離れ、十数年ぶりにパートだが働きに出て、ある日の職場の慰労会で今の“彼”と知り合った。

 カレーが出来上がり、炊飯器のタイマーをセットすると、誰もいないリビングのソファに腰を下ろし化粧を始める。

 テーブルに置かれた昨日の夕刊の見出しに“明日 HAPPY DAY”の文字が躍る。

 超高齢化が進み、出生率が0.5を切った時、この国の三権分立は崩壊した。

 元気がなくなったこの国に少し喝を入れるために・・内閣が独断でHAPPY DAYを創設したときの理由だった。

 充電器からスマホを取り外そうとした時、手にバイブが伝わりドキッとする。

“もし何かがあったらまずいので近くまで迎えに行きます”

 あるサイトで購入した、これまで見たことのない下着を身に着けた紘子は“冷蔵庫にサラダが入っています”と書いたメモをテーブルの上に置き自宅マンションを出た。


              5

 さすがに二月最後の朝はまだ寒く、吐く息は白く、ホームの自販機で買った缶コーヒーがやけに美味かった。

 獲物たちはまだ現れず、ときおりホームに入ってくる電車の中も乗客はまばらだった。

 ダイスケは、小学校に入った時に両親が離婚した。

 仲の良かった妹は母に引き取られ、自分は父に引き取られた。

 しかし、父はすぐに女をつくり、その女からひどい折檻をうけた。

 中学を卒業すると、逃げるように家を飛び出て東京の街に根を下ろした。

 日雇い、風俗店、使ってもらえるところでは必死になって働いた。

 そして、十八歳になった時、狭いながら六畳一間のアパートで寝起きできるようになった。

 そんなある日、離れ離れになった妹の声を聞きたくなり、母に電話するととんでもない返事が返ってきた。

「折角入った高校を中退して、家を出ていったきり連絡が取れていない」

「お前らほんまに自分の子供のこと何とも思わんのかいっ!」と怒鳴り、その後、浴びるほど酒を呑み、無性に女を抱きたくなったのである風俗店に入った。

 出てきた女が、妹だった。

 翌日、電車の中で女子校生のお尻を触り現行犯で逮捕された。


 寒さに耐えきれずホームに入ってきた電車に飛び乗る。

 やはり、まだ獲物たちの姿はなかった。

 ケンスケの言う通り、来るのが早かったかなと思い、動き始めた電車の中で目を閉じる。


               6

 いつも行くコンビニが見えてきた。

 短い横断歩道を赤で渡ろうとした瞬間、信号が青に変わる。

 コウスケは苦笑いを浮かべて「これで終わろうと思っていたのに」と言葉を吐く。

 店内に入ると、レジに警備員が二人立っていた。

 それも、警備員のおっちゃん、ではなく、屈強な、マジの警備員だった。

 雑誌のコーナーにいき、毎週立ち読みしている週刊誌に手を伸ばした時、突然店内が騒がしくなった。

 見るからに朝帰りの若い輩が三人、わけのわからない言葉を吐きながらご機嫌の様子だった。

 レジの二人の警備員が反応した。

 何かが起こるのかと週刊誌を棚に戻したが、若い三人の輩はタバコを買うと店を出ていった。

 コウスケは東京から新幹線で一時間ほどの地方都市で生まれ育った。小さい時から優秀で、現役で地元の国立大学に入学した。

 四年間の学生生活は、たまにアルバイトをする他は学業に勤しみ、主席に近い成績で卒業した。

 しかし、世は平成大不況の真っ只中。就職活動にそれほど力を入れていなかったコウスケは地元企業を含め約二十社を受けたがどこからも内定をもらうことができなかった。

 大学という存在が“就職予備校”に変貌を遂げていることにコウスケは気が付いていなかった。

 結局、就職浪人となったコウスケは、エントリーシートの書き方から学び、解禁日までに約五十社を受けたが“入社内定”というテーブルにつくことはできなかった。地方とはいえ国立大学を出ているから大丈夫だろうと高をくくっていたコウスケは“現実”という壁に跳ね返された。地方の国立大学より入学しやすい(学力が低い、昔で言えば偏差値が低い)東京の私立の大学の方が、いろんなことを含めて就職には有利だという“現実”に。

 就職浪人からフリーターに成り下がったコウスケは暫くは地元にいた。とうちゃんかあちゃんに少し毛が生えた程度の地元の小さな会社なら入れるところがいくつかあったがコウスケは見向きもしなかった。どうして俺がそんなところに・・というプライドが邪魔をしたのだ。

 やがて地元を見切り東京に出てきたコウスケは、たまたま入った喫茶店で手にしたスポーツ新聞の求人欄に“高給優遇 日当二万円日払可”を見つけた。

 迷うことなく連絡を入れ、待ち合わせの場所に出向く。

 見るからに堅気ではない男に指示された仕事はAV女優のスカウトだった。

 二万円は固定給で、一人スカウトするごとにプラス五千円の歩合給が支給され、勤務時間は朝の五時から昼の三時まで。何らかの理由で全てを投げ捨て東京に出てきた少女をターゲットにしているのが朝の早い理由だった。

 どうせダメだろう、二、三日やって一人も引っかからなかったら辞めようと思って始めたコウスケだったが、また違う“現実”を見ることになった。

 平成大不況が続く中、物事を測る定規が“金”一択になっていた。金が全て、金があればそれでいい、NO MONEY IS NO LIFE。

 どう見てもそこら辺にいるごく普通の女性がいとも簡単に釣れた。年齢層は十代後半から四十代前半まで。

 おかげで、始めてからの最初の一カ月の収入は、本来なら自分が受け取るものだった当時の大卒初任給の五倍を超えた。

 そして、地域のリーダーを任され、固定給が三万円に上がったある朝、どう見ても地味な女性が朝六時の東京の街を一人で歩いていた。

「AVなんか興味ある?」

 肩越しから声を掛けると、女性は振り向きざまに黒い手帳のようなものを差し出した。

「ちょっと署で話聞かせてもらえますか」

 やばいと思って地面を蹴ろうと思ったが、視界の中に屈強な男三人の姿が入ってきたので諦めた。

 留置所を出ると雇い主に退職を告げ、少し蓄えがあったので暫くぶらぶらしていると、その時に付き合っていた、自分がスカウトしたAV嬢の女から今の仕事を紹介してもらった。

 無修正の作品に出演した時に知り合ったという向こうの世界の人だった。


 週刊誌を読み終えると、缶コーヒーと焼きそばパンを手にしてレジへ向かう。

「ちょっと、お客さんっ」

 屈強な警備員が声を上げた。

 彼の視線の先を見ると、一人の若い男が立ったままコンビニ弁当を貪り食っていた。

「そちらお会計まですよね?」と警備員が言いながらレジから出てくる。

「もちろんや金なんか払ってないっすよ、今日は何をやってもいい日なんだから」と若い男が言う。

「警察には捕まらないけど、うちの店にとっては迷惑なんです」と言った警備員が男の前まで行くと、いきなり男の腕に手刀を降ろした。

 若い男が手にしていたコンビニ弁当が床に散らばる。

「てめぇーっ」と言って、殴りかかろうとした若い男の腹に警備員の蹴りが入る。

 若い男は腹を抑え床の上を転げまわる。

「ちゃんとお会計してくださいね」と言うと警備員は若い男の腕を取り。決して曲がらない方向に曲げた。

 グシャリ、という音を聞くとコウスケはダイスケとケンスケにメールする。

“気をつけろよ 四年前とは状況が変わっている”


      7

「ちょっと出かけてくるから。ダイスケもコウスケも暫くは戻ってこないから部屋片づけといてくれ」

 妻に言ったケンスケは玄関にいきスニーカーに足を通す。

「こんな時に出ていって、みんな大丈夫なの?」

「あいつらとも喋っていたんだけど、法律が一日だけ機能しないからといって、国民が大暴れするようなそんな国じゃない、この日本という国は・・」

「そうなの? 最近、結構嫌な事件が増えてるけど・・」

「まあ、俺も一人も敵がいない人間ではないけどな・・」

 ケンスケの“敵”という言葉に妻が少し反応した。

 ケンスケは所謂“ドラ息子”だった。

 父親が資産家で、エスカレーター式に私立の大学を卒業すると、定職にもつかず、父親から譲り受けた5LDKのマンションに住み、学生時代から付き合っていった今の妻と二十五歳の時に一緒になった。

 そんなある日、妻が高校の同窓会で、日付が変わってから帰宅することがあった。

「おかえり」と迎えたケンスケだったが、妻が風呂に入るとスマホを覗き見して、妻とある男がツーショットで写っているフォトを自分のスマホで写し、電話の履歴に残っていた“高校同窓会”の番号も一緒に写した。

 そして、毎月父親からもらっている五十万の生活費を持って興信所を訪れ、その男の身元を調べてもらうことにした。

 三日後、妻とツーショットで写っていた男と、着信履歴に残っていた“高校同窓会”の番号の持ち主が一致しているとの報告があった。

 ケンスケは報告書に記されていた住所を訪れインターホンを押すと、一階が駐車場になっている三階建ての戸建てから男が現れた。

 名を告げると男は「あっ、どうも」と愛想の良い顔をして頭を垂れたが、その顔をケンスケの拳が襲った。

 男は鼻から血を噴き上げながら仰向けに倒れ、ケンスケは駆けつけた警察官に身柄を確保された。

 留置所に入れられると二人の先客がいた。

それがダイスケとコウスケだった。

 たまたま釈放された日が同じで「うちに来るか?」と聞くと、二人は無表情で頷き、それから、ことあるごとに三人はケンスケの家に集まることになった。


「車で行くの?」と妻が聞く。

「歩いていくよりは安全だろ」と言ってケンスケは玄関にぶら下げている車のキーを指に通し、くるくる回しながらマンションを出る。

 妻とはあの件以来、必要なこと以外はほとんど口をきかなくなった。

 後でその男は、単なる同窓会の窓口、仕切り屋ということがわかり、妻とは何の関係もないことがわかった。

 駐車場に停まっている三台の高級車の一台に乗りこんだ時、スマホに着信があったことに気づく。

“気をつけろよ、四年前とは状況が変わっている”

 コウスケからだった。


       8

 さすがに電車は空いていた。

 女子高生の姿は自分以外にはいない。

 足元に置いた学校の指定カバンを開け、サバイバルナイフの存在を確認する。

 電車が動きを止め何人かの人が乗り込んでくる。

 中にひざ上二十センチほどのミニスカートを履いた女性がいて向かいのシートに腰を下ろす。

 彼女は周りなど気にする素振りは見せず、すぐにスマホに食らいつく。少し開いたひざの向こうに白い下着が見える。

 辺りを伺うが奴はいない。両隣の車両に目を配るが、やはりいない。

 これだけ乗客がまばらだと、やはり、行為に及ぶのが難しいと判断したのだろうか。

 電車が動き始めると、右隣の車両との連結部の扉が開き、いかにも酒に酔っているといった感じの若い男が車両に入ってきた。

 男はフラフラとこっちに近づいてくると、目の前の短いスカートを履いた女性の前で立ち止まる。

「おねぇさん、その恰好は完全に誘ってるよね。その誘いに、俺、のるよ」と言った男は空いている女性の隣に腰を下ろした。そして、すぐに女性の太ももに手をやった。

「ちょっと、なにすんのよっ!」と女性が叫ぶ。

 空いている車両に一瞬にして緊張感が走る。

「あれっ、おねえさん、知らないの? 今日は一日限定で法律がなくなる日なんだよ」

 言った男は太ももに置いた手を開いたひざの奥に伸ばす。

 バシッ!!

 女性が男の頬を張った。

 一瞬呆然とした男だったが「てめぇっ!なめてんのかっ!」と怒号をあげた。

 反射的に学校の指定カバンを開けサバイバルナイフに手を伸ばす。

 しかし、自分のターゲットはこいつではないと思いとどまった。

 男は勢いよく立ち上がると女性の髪を鷲掴みにした。

「ギャーッ」と女性が悲鳴を上げる。

 その瞬間、隣に座っていた初老の女性が、読んでいた文庫本を小さな手提げかばんに入れると、代わりに中から出刃包丁を取り出した。

 グスッ、と聞こえた。

 人間の肉を切るとこういう音がするんだと思っているうちに、男の太ももから噴き出る血が足元に迫ってきていることに気づき、慌てて席を立つと隣の車両に逃げる。

 後ろを振り返ると、男は床に倒れ体を痙攣させ、短いスカートを履いた女性はシートに黒い染みを作ってガタガタと体を震わせ、初老の女性は元の位置に戻り文庫本を読んでいた。


      9

 コンビニの周辺が騒然としている。

 パトカーが二台、パトライトを回した捜査車両が二台、あと救急車が一台、店の前に停まっている。

 店内に入ると若い男が一人、うめき声を上げながら床に転がっていた。

 そして、百八十センチはある、ガタイのいい警備服を着た男が、目つきの悪い、おそらく刑事だろう、二人の背広姿の男と何かを話していた。

 雑誌コーナーの脇に置かれているスポーツ新聞を取り、家に戻っても何もすることもなかったので、缶ビールを一本冷蔵ケースから取り出しレジに並ぶ。

 コンビニを出るとレジ袋からスポーツ新聞を取り出す。

 ネットでいくらでも無修正が見られる時代、あるのかなぁ・・と思って新聞を拡げると・・あった。

“十枚 五千円 ○○駅”

 その下に十個の数字が並んでいた。

 嬉しさのあまりスマホを手にしたが、とどまった。

 万が一、今日は法律が機能しないとはいえ、後日、販売元が警察に踏み込まれ、顧客データが押収され、会社に刑事がやってきて・・。ダメだ、それは絶対にダメだ。会社にいられなくどころか妻と娘にも愛想を尽かされ捨てられる。家のローンだけが残り路頭に迷うことに・・。

 諦めてスポーツ新聞をレジ袋に戻し、自宅に向かって歩み始めた時、いい案が浮かんだ。

 公衆電話、だ。

 公衆電話なら足がつかない。

 ところが、その公衆電話が見つからない。

 昔なら通りを歩いているといくらでも赤いのやら黄色いのやらが視界に入ってきた。

 とうとう自宅マンションが見えてきた。

 踵を返すと、来た道を戻り、コンビニにたどり着く。店の周りを見るが、ない。しょうがないので駅までの道を歩くことにする。途中、タバコ屋があった。昔なら必ずと言っていいほど赤い奴があった。しかし、今は、ない。

 コンビニにだけ寄って帰る予定だったので、スウェットの上にダウンを羽織り、足元は素足につっかけ姿だった。

 つっかけとは長時間歩くために設計されているものではないようで、指の一部や甲が生地とこすれて段々痛くなってきた。

 そして、結構な時間歩いたからか、喉に乾きを覚えた。

 レジ袋から缶ビールを取り出すと、周りをキョロキョロしたが、さすがにいつものように駅へ向かう人の姿はほとんどなかったので、プルトップを引き喉に流し込む。

 やがて駅が見えてきた。

 スウェットにダウンを羽織り、つっかけをひっかけ、手には缶ビール。普段なら職質を受けてもおかしくなかったが、今日は特別な日だ。

 駅の前の小さな横断歩道を渡る人は皆無で、信号待ちしている車も、見るからに高級車とわかる車が一台停車しているだけだった。

 横断歩道を渡り、辺りに目を配ると、あった。念願の“奴”がいた。

 ボックスの中に収められた緑の奴だった。

 中に入ると受話器を上げ百円玉を投入する。

 公衆電話なんていったいいつ以来だろうと感動しながらスポーツ新聞を拡げ十回釦を押す。

 電話ボックスの中で、スウェットにダウンを羽織った姿で、スポーツ新聞を拡げコールしている。とんでもなく恥ずかしい絵図だったが、今日という特別な日と、缶ビールの酔いが、その恥ずかしさを吹き飛ばしてくれていた。

 スリーコール目でつながる。

「あのう・・」と言いかけた時「只今、事務所を空けております。転送しますので暫くお待ちください」と生の人の声が録音された音声に遮られ、暫く待っていると、若い男の声が受話器の向こうからやってきた。

「ありがとうございます」

 録音された音声と同じ声に聞こえた。

「スポーツ新聞を見て連絡をしたんですけど・・」

 緊張感が缶ビールの酔いを消す。

「十枚で五千円になります」

「駅のどこに行けばいいですか?」

「こちらから連絡を入れるんで携帯を教えてもらえますか?」

「いえ、それはちょっと困るんで・・」

「そうなんだ・・じゃあ、なんなら、今日は特別な日なんで、一日限定で△△駅の改札で派手に特売会でもやろうかと思ってるので、そこに来ていただけます」

 △△駅と言えば自宅マンションの最寄り駅、そう、今立っているこの駅だった。

「何時からですか?」

「十時ごろからやろうと思っています。今日は捕まらないから安心して来てください」

 電話を切ると、いったん自宅に戻ろうと思ったが、面倒くさかったので、十時までの一時間足らずを駅の近くにある喫茶店で保は過ごすことにした。


      10

 自宅マンションの最寄り駅から三つ向こうの駅前の喫茶店でお代わりしたコーヒーを飲み干した時、その時がやってきた。

 精算を済ませ店を出ると、少し歩いてお目当ての場所に着く。

「つまらんことしてくれるから、今日は商売あがったれだ」

 店員のおばあさんがぐちりながらシャッターを開ける。

 似た様な店が横一列に並ぶ通りは“アリバイ街道”と呼ばれていた。

 店舗には日本各地の名産品が並び、カラ出張や不倫旅行のアリバイ作りの為、いつも、サラリーマンなど多くの人でにぎわっていた。

 いつも母を訪ねた時に買う地元の銘菓が置いてあったので手に取りおばあさんに渡す。

「ありがとうね、だけど、女性のお客さんが来るって珍しいねぇ、カラ出張するようには見えないけどねぇ」

「ええ。母親が施設に入ってまして、長い間コロナで面会に行けなかったんですけど、やっと制限が解除になって、大好きだったこの地元のお菓子を持って行ってあげようと・・」

「そうですか、それはお母様喜ばれますよね。

 いえ、うちに来てくださる方は全員が全員とは言いませんけど、結構訳ありな理由で買っていかれる方が多いんです。この間も、よくご利用いただくお客様なんですけど、いつもは数がたくさん入った和菓子を買っていかれるんですけど、珍しく値段の張る、入っている数も少ない商品を買われたんです。今日は珍しいですよね、とお声を掛けると、笑いながら、週末に社員旅行と偽って、浮気旅行、今でいうと不倫旅行よね、そのアリバイ作りに買いに来たんだって」

「そうですか。皆さん色々とご事情がおありなんですよね」

「お客さんもまさか・・じゃないですよね」

「そんな甲斐性ありませんよ」と言って少し脇の下に汗を感じる。

「だけど、お客さん、気を付けてお母様にお会いに行ってくださいね。さっき、なんだか、パトカーと救急車がたくさん来ていて、聞くと、電車の中で人が刺されたんだって。国がくだらないことをするから、本当に、法律が無くたってわけのわからない人間が暴れまわるようなそんな国じゃなかったんだけどね、この国は・・」

「私も何かあったらと主人と車で向かうんです」

「それがいいわ、気を付けて行ってくださいね」

「おかあさんも気を付けてくださいね」

「ありがとう。さっき、娘に人が刺された話をしたら、すぐに店を閉めて帰って来いって。私みたいな婆さんを殺しに来るような人間などいやしないし、売上げなんかもしれてるし、大丈夫だと言ったんだけど、あんまりうるさく言うもんだから午前中で閉めて帰ろうかと思って・・」

「そうしてください。なにかあれば皆さん悲しみますから。では失礼いたします」

 おばあさんの笑顔に送られ、この駅に来たもう一つの目的を遂行する。

 スマホが震える。

「着きました」

 最寄りの駅まで迎えに来てくれるといったが、万が一、近所の誰かに見られるとまずいと思い、自宅の最寄り駅から三つ離れたこの駅を指定した。

「向かいます」とラインを返し、少し歩くと、遠くからでも高級車とわかる雰囲気を醸しだしている車の点滅しているハザードランプが目に入る。


         11

「すいませんっ」と肩をゆすられ目を覚ました。

 車掌さんだった。

「申し訳ございませんが、車内でお客様同士のトラブルがございまして、この電車は回送車になりますのでお乗り換え頂けますでしょうか」

「あっ、そうなの」と言って重い腰を上げ車両から降りる。

 ホームには警察官や救急隊員がたくさんいて騒然としている。

 すると、ある車両の扉がブルーシートで覆い隠された。

 何があったんだとスマホを手に取ると着信があったことに気づく。

 コウスケからのメールだった。

 文字を読み終えると、もう一度ブルーシートに目を移す。

 担架に乗せられ、だらーんと垂れた人の腕が見えた。

 そばにいた駅員に聞く。

「何かあったんですか?」

「ええ、トラブルがあって男性のお客様が怪我をされたんです。こんな日ですからね警察も一応事実確認をするだけでそれでおしまいです。考えたらぞっとしますよね」

 コウスケにメールを打つ。

“お前の言う通りだ。電車の中で男が一人やられた。詳細は分からないが”

 とりあえずここから離れようと改札につながる階段を降りかけた時“獲物”が目の前を通り過ぎた。

 心なしか怯えた表情をしていて、白いスニーカーに何か赤いものが付着していた。

 ゆっくりと後をつけていく。

 途中、階段を下りて改札へ向かうと思ったが、そのままホームを進んでいく。

 いよいよ、一番奥の階段を降りるかと思ったが“獲物”はその階段も通り過ぎると、ホームの一番端にあるトイレに向かった。

 そして“獲物”が中に入っていくのを確認すると、ダイスケは売店のゴミ箱に空になった缶コーヒーを捨て、大きなあくびを一つ放つ。


       12

 自宅兼事務所のワンルームが入っている五階建マンションの前に立つ。

 いつものくせで、辺りをキョロキョロと見てエレベーターに乗り込む。

 部屋のある五階の二つ下の三階でエレベーターを降り、残りは階段で上がる。

 フロアーに誰もいないことを確認すると小走りで部屋に滑り入る。

 いつものすえた臭いをかぎ、ほっとする。

 部屋の灯りをつけた時、スマホが震える。

“お前の言う通りだ。電車の中で男が一人やられた。詳細は分からないが”

 ダイスケからのメールだった。

“今日はスケベ心を捨てておとなしく家でオナニーでもしてろ”と返すと、口座に入金が確認された顧客への郵送作業にとりかかる。

 口座はもちろん自分名義のものではなく、ドヤ街で泥酔している親父から三十万で買ったものだった。呂律の回らない親父から暗証番号を聞き出すのに苦労したことを思い出す。尚、郵送業務はいたって簡単で、DVDをレターパックに詰めて送るだけだった。聞いたところによると、まだビデオテープだった時代は、分厚くてポストに入らなかったので郵便局や宅配業者に持ち込んでいて、そこで足がつくことがあったそうだ。それを思えば今はボスとに楽々投函できる。DVD様様である。

 ただし、中には事情があって郵送が出来ず、手渡しを求める顧客もいる。その時は過去におとり捜査で痛い目に遭っていたので直接受け渡しすることはしなかった。パチンコ屋にある無料ロッカーに商品を入れ、店の名前とロッカーのNO、そして四桁の暗証番号を顧客に伝え、顧客はのこのことそのパチンコ屋に出向き、該当するロッカーの前に立ち、スケルトンの扉の向こうに見えるお宝ちゃんに興奮し、教えられた四桁の数字にダイヤルを回して合わせ、スキップして家へと帰って行った。

 郵送作業を終えると、レターパックと一件だけ依頼のあった受け渡し用の商品と今日の“特販”用の商品をトートバックに入れ部屋の灯りを消す。

 扉に取り付けたマッチ棒の先ほどの超高性能カメラで、フロアーに誰もいないことを確認すると部屋を滑り出る。

 いつも通りエレベーターは使わず階段で一階まで降り、マンションを出る。

 スマホで時間を見ると十時まで残り十分を切っていた。

 いつものポストにレターパックを投函し、少し歩くといつものパチンコ屋が見えてきた。

 珍しく開店待ちの列ができていた。

 会社とか学校とか、休みのところが多いのだろう。

 やがて十時を迎え開店すると台を選んでいるふりをしてロッカーの前に立ち、一つのロッカーに茶封筒を入れ暗証番号を生年月日の和暦にセットする。

 喫煙ボックスで紫煙をくゆらせながら店内を見渡す。

 いつもなら、ショートパンツに黒いハイソックスを履いた若い女の子の店員が二、三名いるだけだったが、さっきのコンビニ同様、いかにもあっちの筋と思われる屈強な男たちの姿が見られた。

 店を出ると、ロッカーの中の宝物を待ちわびている顧客に電話を入れ駅に向かう。

 途中、事務所からの転送電話が二件あり、両方とも郵送を希望したので、振込先の口座を伝え、そして、今日は某駅で特売会をやるからよかったら来てくださいと言って電話を切った。

 駅前の小さな横断歩道にたどり着く。

 ほとんど人の姿はなく、一人だけ、この寒いのにスエットのパンツにダウンを纏い、足元は素足につっかけの男がいた。

 直接の受け取りを希望した電話の男だろうか。

 見た感じは“かたぎ”に見える。

 目の前をパトカーがサイレンを鳴らして通り過ぎる。

 この日に、まさか誰かに狙われることはないだろうなぁ・・買った商品が思っていたほど良くなかった・・だましやがって・・。

 つっかけの男の着信履歴を見る。

 公衆電話だった。

 信号が青に変わる。

 たいがいの客は公衆電話で掛けてくる。郵送を希望するものは代金の振込先を聞いて、送り先を告げるだけでことは済む。

 受け渡し取引を望む客は、パチンコ屋のロッカーを使う取引を聞き、携帯を教えてくれというと拒み、商談が流れるケースも多々あった。

 つっかけの男も頑なに携帯を断った。まさかこんな日におとり捜査とは思えない。

 信号が赤に変わる。

 つっかけの男は少し寒そうに背を丸めてキョロキョロと誰かを探しているように見えた。


      13

 いつもならいる薄いグリーンの作業服を着た違法駐車取り締まりのおじさんたちも今日はいない。と言うか、駐車している車が一台もない。着いた時たくさんのパトカーと救急車が行き交っていた。コウスケからのメールではないが何かが起こっているのだろうか。自分の身に危険が及ぶことなどあるのだろうか。これから会う女がまさか俺のことを襲うわけがない。久しぶりの社会復帰を手助けし、生活のモチベーションも上げてやった。他のパート社員には黙っているが、時給も彼女らの約倍の金額を払っていた。

 妻はどうだろう。あの件以来、ほとんど、まともに口を利くことが無くなった。そして罪もない同級生に危害を加えた。良くは思っていないだろうが俺から離れることは無理だろう。俺と言うよりは俺を支えている親父の財力と言った方が正解だろう。離婚しない限り生活は保障されている。一般世間の奥様よりは恵まれているはずだ。

 あるとすれば、例の妻の同級生だろうか。しかし、示談金はかなりの額を払った。今後、法的に訴えることはしないといった文言も示談書に盛り込んだ。法律が今日一日機能しないからといって殺りにはこないだろう。明日からはまた法治国家に戻るのだ。捕まらなかったとはいえ、自分の父親が人殺しだと後ろ指をさされる子供のことを思うとそんな馬鹿なことはしないはずだ。

 あるとすれば、映画ではないが、ゾンビになった日本人が大挙して押し寄せ無差別に人を・・・そんなことはない、この国はそんな国じゃない。

“コンコン”と扉がノックされる音で我に返る。

 女が満面の笑みを浮かべて窓の向こうにいる。綺麗になった。初めて面接をした時は、言葉は悪いが“干上がって”いた。だけど、体を交わらせるたびに、この女は綺麗になる。

 ドアを開けハザードランプの点滅を止める。


      14

 個室に入ると白いスニーカーの底を見る。

 あの男の血が残っていた。

 便器の中に足を入れると水を流しスニーカーの底をあてる。

 まだ若干赤い色が残っていたのでトイレットペーパーをずるずると一メートルほど引っ張り出し、絶対に血が手につかないように何回も折って分厚くしスニーカーの底を拭く。

 あの男の肉が切れた“グスッ”という音が耳に張り付いて離れない。

 便座に腰を下ろし学校の指定カバンからサバイバルナイフを取り出す。

 私にあの卑劣な男を本当に刺すことができるのだろうか。あの男の肉を切り裂くことができるのだろうか。

 サバイバルナイフをカバンに戻しスマホを見る。

 さっき起こった出来事はまだどこのサイトにも取り上げられていなかった。他にも、暴動が起きたとか無差別の傷害事件が起きたとかの記事はどこにもなかった。

 学校の歴史の授業で習ったが、昔、日本という国は自国よりも何倍も大きな国と戦って勝利し、世界中から恐れられていたそうだ。そして、太平洋戦争という戦争でアメリカと戦い、最後に核(先生は原子爆弾と言っていたはず)を二回落とされ負けたらしい。

 日本人はおとなしいという感覚を持ってきたが、本当は激しい闘争本能を持つ人種なんじゃないかと思うようになった。そんな本能が私にも備わっているのでは・・刺せる・・絶対にやれる・・いや、絶対に殺る。

 立ち上がって個室を出ると洗面台の鏡に映った顔を見て“よしっ”と気合を入れトイレから出た瞬間、足が止まる。

 目の前に奴がいる。

“獲物”が目の前にいる。ポケットに手を突っ込みスマホを見ている。

 ここでもいいか・・何もいつものシチュエーションでなければいけないことはない、学校の指定カバンを開け、震える手でサバイバルナイフに手を伸ばす・・・殺ってやる・・

「すいません」

 女性の声で伸ばした手が止まる。

 声の方に振り向くと、片手に血らしき赤い液体のついた包丁を手にした、さっき、男を刺した初老の女性がいた。薄緑色のウールのコートに返り血らしき染みがたくさんついている。

「手を洗いたいんですけど、お手洗いはどちらにあるかご存じですか?」

「あっ、そこです」とカバンから抜いた手で出てきた場所を指差す。

「ありがとうございます。指がヌルっとして気持ち悪いので・・」と言ってお辞儀をしてトイレに向かう女性を見送ると、カバンのファスナーを閉じ“獲物”をちらっと見て足早にホームに戻る。


       15  

 スエットだけの下半身と素足につっかけの足元が寒い。

 約束の十時を十分が過ぎた。

 辺りにそれらしい人がいない、というか、人の姿がほとんどなかった。

 もう一度公衆電話を掛けに行こうと思った時、横断歩道の向こうに若い男が一人現れた。

 トートバッグを肩にかけて辺りに目を配っている。

 この人かと思ったが、信号が青に変わった瞬間、スマホを手に取り横断歩道から離れていった。

 しかし、よく考えてみると法律が機能しないのは今日一日だけ。駅前で大々的に違法DVDなんかを販売していると警察に目をつけられ、明日になると捕まってしまう。そんなリスクを負ってまでやるだろうか。

 答えはNOだ。

 諦めて、冷たくなった両掌を丸め息を吹きかけ擦りあった時、目の前の信号が赤に変わり、また、別の男が横断歩道の向こうに立った。

 くわえタバコで茶色い封筒を手にしている。

 ただ、さっきの男と違って、辺りの様子をうかがっている感じはなかった。

 信号が青に変わる。

 男がゆっくりと横断歩道を渡ってくる。

 ひょっとしてこの人かなと思っていると、横断歩道を渡り切った男が突然立ち止まり、そして、辺りをきょろきょろと見まわし始めた。

 間違いない。

 そっと近づいていき、作り笑顔で男の顔を見る。

「電話したものなんですけど・・」

 男はハッ?という顔をした。

「駅前で十時頃から販売されるって・・」

「いえ、多分、人違いです」

「あっ、そうですかっ、すいません」と頭を垂れると男はどこを見るでもなく感情のない笑みを浮かべ立ち去って行った。


16

 助手席のドアを開けてもらう。

 芳香剤の香りが鼻腔を満たす。

「すいません、迎えに来ていただいて」

「そんな、いいですよ」と言った彼のスマホが突然鳴る。

 アリバイ街道で買ってきた商品を「置いていいですか?」と後ろの席を指差すと、彼は二度頷いてスマホにでる。

「いや、今日は帰らない・・えっ?それは無理だ・・だって、あいつにはちゃんとしただろっ」

 彼の語尾が熱い。

「だから、それは無理だって言ってくれよっ・・えっ?そんなこと知らないよ・・とにかく今日は無理だって伝えてくれっ」

 彼は電話を切った。

 後部座席にアリバイ街道で買ってきた商品を置いて助手席に戻り、シートベルトを伸ばした時、また彼のスマホが鳴った。

「なんだよっ・・えっ・・直接?・・なにがやりてえんだよっ・・どうしても今日にって?・・わかったよ、うっとうしいからこっちから電話を入れるって言ってくれ」

 電話を切った彼に「何かあったんですか?」と聞いた途端に又彼のスマホが鳴る。

「あっ、ご無沙汰しています・・ええ、さっき妻から・・言ったんですけど今日は無理です・・ちょっと待ってくださいよ、あの件はもう済んだことですよね・・で、どうして今日中なんですか・・えっ・・明日じゃまずいんですか・・まさか、まだあの時のことを根に持たれていて、今日中に殺してやろうと思っているんじゃないですよね、今日は何をやっても無罪ですから」

 ここまで言った彼は「ハハハっ」と笑って「やめてくださいね、もう少しは生きたいと思っているんで」と言ったが、暫くして顔色が変わった。

「えっ・・車ですか・・そうですけど・・」と言って彼は後ろを振り返った。

 暫く、呆然、といった表情をしていた彼は電話を切るとハザードランプの点滅を止め「すいません、お待たせしました。とにかくこの場から離れましょう」と言って車を急発進させた。

 何気なく後ろを振り返ると、一人の男が、遠くからでも口元に笑みを浮かべているとわかる表情でポツンと立っていた。


17

 トイレから出てきた“獲物”は改札につながる階段を下りていくと思ったが、そのままホームをまっすぐ進む。

 救急隊員と警察関係者はまだ少し残っていたが、自分が乗っていて男が刺された車両はホームから消えていた。

“獲物”に気づかれないように少し距離を取ってホームを進む。

 恐る恐るといった感じで電車がホームに入ってきた。

 さっきの電車よりは乗客の数は増えていたが、満員には程遠い状況だった。

 扉が開くと“獲物”は辺りをキョロキョロと伺い電車に乗り込む。

 一つ隣の扉から車両に滑り入る。

“お客様対応により列車に遅れが生じております。発車までもう暫くお待ちください”

 車内アナウンスが虚しく響く。

 空いているスペースに腰を下ろす。

“獲物”は斜向かいの扉にお尻をこっちに向けて張り付いていた。

 なにか、誘っているように感じる。さぁ、触ってみなさい、と。

 手にはカバンを提げている。まさか中に刃物なんか入ってないだろうなぁ。

 何気なく隣の車両に目をやる。

 ひざ上二十センチの制服のスカートを履いた、見るからに教養のかけらもない女子校生三人が口を大きく開けなにやら騒いでいた。

“お待たせいたしました。まもなく発車いたします”

 車内アナウンスが流れ、ホームに発車を知らせる電子音のメロディーが流れる。しかし、今日のこの日は駆け込み乗車をしてくる乗客など一人もいない。

 扉が閉まり電車がゆっくりとホームを離れていく。

 窓の外を流れる景色に目をやっていたが、やがて、そっと立ち上がる。

“獲物”はピクリとも動かない。

 周りに目を配りながらそっと近づき、定位置につく。右手で持っているカバンで左手の動きが見えないようにカバーする。しかし、端から見るとチョンバレだろう。混んでもいない車内で女子校生の後ろにペタリと貼りついてこそこそと何かをしている。だけど、今日はこの国には法律は存在しない。何ならカバンで動きを隠す必要もないところだ。だけど、そこは違う。こそこそとやるところに快感があるのだ。

 左手を“獲物”の尻に添える。

 一瞬、ビクッと“獲物”が反応した。

 しかし、後ろを振り向いたりはしない。

 やはり、ハニートラップか? 俺はまんまと罠にはまったのか?

 左手に少し力を入れ“添える”から“触れる”そして“触る”に行為を変えていく。

 と“獲物”は床に置いていた、何の主張もない青いキャンパス生地の、口が開いたままになっているカバンを左手で持ち上げ、右手をそっと近づけた。

 そして暫くすると“獲物”が突然こっちを振り向いた。

「うわっ」と思わず声を上げる。

 彼女は右手に、切先がきらりと光るサバイバルナイフを手にしていた。

 ヤバいっと思った瞬間、違う方向から女性の悲鳴のような声が飛んできた。

 声の方向に目をやると、隣の車両からさっきの教養のかけらもない女子校生二人が血相を変えて駆けてきた。二人の白い制服のブラウスには赤い、どう見ても血の斑点がいくつも付いていた。

“獲物”もサバイバルナイフを握っていた右手を止め、隣の車両を見入る。

 そこには、五十歳くらいのスーツを着た、見た目サラリーマンの男が、血の付いた出刃包丁を手にして、何かを叫びながら、こっちに近づいてこようとしていた。


18

 コンビニのトイレに駆け込み、何とか一息つく。

「今度のはちゃんとしてんだろうなぁ」が奴の第一声だった。

「ちゃんとしているってのは・・」

「このあいだ買ったやつ、全然女が可愛くなかったんだよ。可愛い女の子のやつって俺頼んだよな」

「人によって“可愛い”の基準は違いますよね。お客さんが可愛いと思っても私からしたらそうとは思わない。その逆もしかりですよね」

「屁理屈はいいんだよ、今度のは大丈夫かって聞いてんだよっ」

「ええ、まあ・・」

「今、お前、横断歩道の前にいるなぁ・・ちゃんと見てるんだからな」

 しまった、リピーターかどうかのチエックをするのを忘れていた。パチンコ屋のロッカーをどこからか見ていて後をつけてきたのだろう。

「今から事務所に連れて行って俺の好きなやつを選ばせろよ」

「それはできません」と言うと、横断歩道から離れ、目に入ったコンビニのトイレに駆け込んだ。

 事務所へ連れて行けと言っているが、ひょっとしたら会った瞬間に殺られるかもしれない。今日はこの国に法律は存在しない。

“トントン”

 扉をノックする音に心臓が止まりそうになる。

 息を潜める。

“トントン”

 いつの間にか掌に汗がにじんでいた。

「すいませんっ、娘がどうしても我慢できなくって・・」

 女性の声にほっとする。

「すぐ出ますんで、もう少し待ってください」

 わざとらしくトイレットペーパーを三回ちぎり、水を流し、咳払いを一つして、そっと扉を開ける。

 三十代前半くらいの女性が、今にも泣きだしそうな顔をした三歳くらいの女の子の手を引いて立っていた。

「すいません、無理申しまして」と女性が頭を垂れる。

「いえいえ、お互い様ですから」

 洗面所から出ると辺りに目を配らせる。背中に嫌な汗を感じる。

 コンビニを出ると、とにかく駅から離れようと自宅マンションの方向に小走りで向かう。

 暫くするとズボンの後ろポケットに入れてあるスマホが震える。

 画面に“公衆電話”という文字が浮かんでいる。

 あいつか?

 周りを見るが、公衆電話のボックスなどは無い。

 視線を上に向け、四方を見るが、こっちを見ながらボックスに入っていない公衆電話を掛けている人間などどこにもいない。

「ちゃんと見てるんだからな・・」の科白におびえながら電話に出る。

「あっ、すいません、今朝電話したものなんですけど、駅前で十時からだったと思うんですけど、やっぱり、中止ですか?」

「あっ、いえ、ちょっと色々あって、そっちに行くのが遅れていて・・」

「そうなんですか。じゃあ、もう少し待っていればいいですか?」

「え、ええ・・ところで周りに人っていますか?」

「いえ、全くいないです。さっき男の人が一人横断歩道を渡ってきただけですね」

「男の人ですか?」

「ええ。てっきりおたくだと思って聞いてみたら人違いでした」

「その男の人はもうその辺りにいませんか?」

「ええ、今、私の視界の中には人っ子一人いません」

「そうですか、じゃあ、今、駅の近くにいますのですぐに向かいます。

 それだけ人がいないんじゃ、大即売会をやってもしょうがないのでお客さんに商品を渡したら今日は終わりにします」

 外見の特徴を伝え電話を切ると駅前の横断歩道まで恐る恐る進む。

 いた。やっぱりあのつっかけのおっさんがそうだったのだ。

 横断歩道を挟んで目が合いお互い軽く会釈する。

 信号が青に変わる。

 辺りを警戒しながら太い白線を一つ、また一つとまたいでいく。

 早く済ませこの場から離れたかったので、肩に掛けたトートバッグから十枚のDVDが入った封筒を取り出そうとした時、つっかけのおっさんの向こうに一人の男の姿を確認した。

 男は、遠くからでもわかる重く深い笑みを浮かべ、こっちを凝視している。

 ヤバいと思い、慌てて横断歩道を渡りきるとつっかけのおっさんに声を掛ける。

「お釣りが無いですから、一万円は勘弁してくださいっ!」


19

 どうして、よりによってこんな日にあいつは俺と何を話したいのだろう。と言うか、どうして俺の居場所を知っているんだ。偶然にしては出来過ぎだ。いくら人影がほとんどない街角で、目立つ車ではあるけれど、たまたま目にしたということはどう考えてもおかしい。

 まさか、妻とかかわりをもっているのか。

「ちょっとすいません」と助手席の彼女に断りハザードランプを点滅させ車を止める。

 スマホを手にして妻の携帯番号をタップし最後の“1”に指を添えようとしてやめた。

「少し待ってくださいね」ともう一度彼女に断りを入れると車を降り後ろに回ってトランクを開ける。

 入れたままになっていたゴルフバッグを開けクラブを確認する。そして、いくつかある収納ポケットも全て調べる。しかし、怪しそうなものは何も見つからない。

 トランクを閉めると後部座席に入りシートを確かめる。裏側にも手を伸ばし探るが触れてくるものは何もない。

 大きなため息をつき運転席に戻る。

「何かあったの?」と彼女が聞く。

「いや、この間ゴルフに行った時に手袋をなくしたことを思い出して、どこかに落としていないか探したんだけど・・」

「後ろのシートに落としたって可能性なんかあるんですか?」

「呑んでたんで友達に運転してもらってたんだよ。

 で、すごい高級な手袋で、はめても素手みたいな感覚でクラブが握れて、その感触をもう一人の友達に試させてやってたんだ」

「そうなんですか」

「車の中には落としていないようだから、ウェアとかと一緒に鞄に入れてしまったかもしれない。家に帰ってから探すよ」

 勘のいい女だ。さっきの電話の会話を聞いていて何かを感じ取ったのか。

「お待たせしました。それじゃあ行きましょう」

 アクセルを強く踏み込むと二十分ほどでいつもの場所に到着する。

 車一台分の車庫が横一列に並んでいる。

 シャッターが降りているところは“利用中”開いているところは“空室”で所謂モーテルに似た様なもので、車で車庫に入っていくとシャッターが自動的に降り、そのまま部屋に入っていくことができた。

 車を降り部屋に入るとすぐにシャワーを浴び、備え付けの冷蔵庫から缶ビールを取り出しソファに腰を沈める。

彼女がシャワーを浴びに行き、缶ビールを一口舐めると腹が空いていることに気づき、備え付けのタブレットから“ポテトフライ”と“本格的壺焼きピザ”をオーダーする。

 そして、缶ビールが空になった時、彼女が戻ってきた。

「朝ご飯食べてきました?」

「いえ、コーヒーを飲んだだけです」

「そうですか。ポテトフライとピザを頼んだんで。俺も朝から何も食べてないんですよ」

「そうなんですか」と言ってソファの横に腰を下ろした彼女と軽く唇を重ねる。

「何か去年の今日とは少し雰囲気が違ってきてますよね」

「さっき拾ってくれた駅の売店のおばさんに聞いたんですけど電車の中で人が刺されたそうです」

「そうなんですか、日本て、そんな国じゃなかったと思うんですけど」

「そうですよね。何か少しずつ変わってきているんですよね。えらそうなことを言っている私のこの振る舞いもどうかなと思うんですけど・・」

「あれ?お風呂で呑んできました?」

「いえ、まだ素面です」

「そうですよね」と言ってもう一度唇を重ねた時、部屋のインターホンが鳴る。

「おっ、早いな」と言ってガウンを羽織り、ガレージから入ってきた扉とは違うもうひとつある扉に向かう。

 ロックを解き扉を開けると、トレーを手にした初老の女性が立っていた。いつもなら、若い、いかにもアルバイトといった感じの若い男の子が持ってきてくれていた。

「お待たせしました」と初老の女性は無表情でトレーを差し出す。

 おそらく、お客様の目は決して見ない、表情は無表情、間違っても愛想笑いなどは絶対にしてはいけないといったマニュアルでもあるのだろう。

 トレーを受け取ると「ありがとう」と声をかける。

 すると、初老の女性は何も言わずぺこりと頭を下げ、扉の向こうに消えていく瞬間に「精が出ますよね」と言って意味深な笑みをケンスケに向けた。


20

 血の付いた包丁を手にした男が連結部の扉を押し開け車両に入ってきた。

「俺はなーっ!!」と怒号を発する。

「やってもいない罪で逮捕され、人生が狂ったんだーっ、仕事も家族もすべて失ったんだーっ、俺は絶対にやっていないって何度も言ったんだっ! だけどバカな刑事どもは、もっとバカななんの教養もない女子校生の言ったことを信用して俺を犯人に仕立て上げたんだっ!!俺の人生を返せっ、そして、謝れっ、あなたは痴漢などしていなかったってっ!!」

「ヤバいぞっ」と言ってダイスケは美奈の目を見る。

「そこのおまえーっ」と男が怒声を上げ、美奈を指さした。

「お前だーっ 俺の人生を台無しにしたやつはっ!!」

 美奈は恐怖のあまり体がフリーズしてしまった。

「ヤバいっ、逃げよっ」

 言うとダイスケは美奈がサバイバルナイフを握っていない左手を強引に引っ張ると、隣の車両に向かって駆け出した。

「待てーっ」と男は血の付いた出刃包丁を手にして、二人を追う。

 ダイスケと美奈はパニックと化した乗客をかき分け車両を移っていく。そして、進行方向に向かって最後尾の車両にたどり着いたとき、電車が駅に到着し動きを止めた。

「よっしゃ、助かったっ」とダイスケは思わず大声を発した。

 しかし、止まった電車の扉は開かなかった。

「どうなっとんねん!!」

 ダイスケは声を上げると手で扉を開けようとしたが、もちろんびくともしなかった。

 ひとつ向こうの車両から男が隣の車両に移ってきたのが目に入った。

「くそーっ、早う開けんかいっ!」と怒鳴ったダイスケの視線の先にとんでもない光景が飛び込んできた。

 車掌が腕を組み、ニヤニヤしながらスマホに夢中になっていた。

 ダイスケは扉の横の非常通報装置のボタンを押し、たくさん開いている小さな穴に向かって声を張り上げる。

「なにしとんじゃっ! 早う開けんかいっ!こらーっ、しばきあげんぞーっ!!」

 しかし、車掌は何の反応も示さなかった。

 もう一度ダイスケは同じセリフを繰り返す。

 すると、そのたくさん開いている小さな穴から声が漏れた。

「今日は法律が無い日だよ。知ってるだろ?」

 ダイスケが視線を車掌に向けると彼は人を小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。

「このぼけがーっ」と声を上げたダイスケは、出刃包丁を持った男が自分たちのいる車両に入ってきたことを確認した。

「ちょっと、それ貸してっ」とダイスケは美奈に手を差し出す。

「これ?」と美奈は右手に持ったサバイバルナイフを左手で差す・

「そう」

 美奈からサバイバルナイフを受け取ったダイスケは「ちょっと下がって」と言って、そのサバイバルナイフの柄を思い切り扉の窓に打ち付けた。

 小さなひびが斜めに入る。

「おらーっ!」

 二度、三度と打ち付けられた窓は四度目のダイスケの攻撃に根を上げた。

 粉々にガラスが砕け散った窓の縁にダイスケは着ていたダウンを添えた。

「先出てっ!」

 美奈は頷くと、ダイスケのダウンを肌に感じ車外に滑り出た。

 続いてダイスケも車内から滑り出ると、窓に張り付いたダウンを剥ぎ取り、手にしていたサバイバルナイフを美奈に差し出す。

「もう、そんなのいらない」と言って、まだ少し震えている美奈の体にダイスケがダウンを掛けると、ガラスでズタズタになった切り口から白い羽根が舞った。


        21

「あーっ、やっぱりあなたですか、朝に電話したものです。えっ、お釣りがない、ちょっと待ってくださいね」と言って保はダウンのポケットをまさぐった。

「ちょっと、早くしてくださいっ」とコウスケが保をせかす。

「あーっ、ごめんなさい、一万円札しかないです」と保が言うとコウスケは視界の中にさっきの男が入ってきたことを確認する。

「あーっ、もうお金はいいですっ、これっ、はいっ、商品です」とコウスケは十枚のDVDが入った封筒を保に差し出すと渡ってきた横断歩道に踵を返した。

「あっ、それはだめですよっ、どこかで両替してきますので」と保が言ったとき信号が点滅を始めた。

 コウスケは横断歩道を駆け、保も「ちょっと待ってくださいよ」と言って後を追う。

 そして、男が横断歩道にたどり着いたとき、信号が赤に変わった。

 コウスケは後ろを振り返り、その光景を見てホッとした。

 しかし、これは一瞬だった。

 そう、今日は法律が無い日、赤信号で渡ってもおまわりさんに笛は吹かれないし、もちろん罪にも問われない、おまけに街に車がほとんど走っていない。

 男は赤信号の横断歩道をゆっくりと渡る。

 コウスケは歩く速度を上げる。保は「ちょっと待ってくださいよ」と必死に後を追う。

「お客さん、本当にお金はもういいですから、とにかく俺今すごくヤバい状況なんでっ」と言うとコウスケは“歩く”を“走る”に変えた。

「いえ、それはやっぱりまずいですよっ」と言った保が後ろを振り返ると男の手にナイフを確認する。

「うわっ、どういうことかわかんないですけどヤバそうですよね」

 言うと保も“歩く”から“走る”にモードを変え、コウスケとの間を詰める。

 ナイフを手にした男は小走りで二人を追う。

「タクシーでも来ないかなぁ」と呟いた保が動きを止める。

「お客さん、ヤバいですよっ」とコウスケが声を上げる。

「もう無理です、これ以上走れません」

 保の言葉にコウスケも走るのをやめる。

 男が近づいてくる。

「あっ、そうだっ」と保は声を上げると、おもむろに、さっきコウスケから受け取った封筒を開け、中からDVDを一枚取り出した。

「お客さん、どうしたんですか?まさか、これやるから許してよって言うんじゃないですよね」とコウスケが聞く。

「違いますよ、フリスビー、知ってます?」

「いえ、なんすか、それ?」

「私たち子供のころに流行ったんですよ、見ててください」

 言うと保はDVDを右手の親指と人差し指で挟むと、二度、三度と手首を水平に動かした。そして、四度目に内側に曲げた手首を外側に放った時、指の間に挟んだDVDを解放した。

 丸い円盤と化したDVDは空気を切り裂き、目の前にまで迫ってきていた男の顔面に突き刺さった。

「ギャーッ」という声を上げ男はその場でうずくまった。

保は封筒の中からDVDを取り出すと、次々に男に放った。

「お客さん、すごいよっ、DVDなんか事務所にいくらでもあるんであとで好きなだけ持って帰ってください」

 コウスケが言うと二人は、凶器と化したDVDに傷つけられ、痛みでのたうち回っている男を尻目に、その場から逃げるようにして去っていった。


22

 ポテトフライとピザを食べ終え、二本目の缶ビールが空になるとケンスケは紘子をベッドに誘った。

「あ、あれ見て」と紘子は、音声を消して映像だけを流していた三十二インチの液晶テレビを指さした。

 道路脇に止められた車が炎に包まれ、黒焦げになった車が数台あたりに転がっていた。

「またどこかの国で住民が暴れているんだな」と言ってケンスケはガウンを脱いだ。

「違いますよ、日本です」

 紘子の言葉にケンスケはテレビの音量をONにした。

 ニュース原稿を読むアナウンサーがはっきりと日本のある地名を口にした。

「マジかよ・・」とケンスケが言葉を垂らしたとき、部屋の備え付けの電話が鳴った。

 チェックアウトの時間が迫ってきた時しかならない電話がなぜ鳴るんだ。

 ケンスケは恐る恐る受話器を取り上げた。

「探しましたよ。さっきどうして電話を切ったんですか、もう少し話がしたかったのに」

「どうして俺がここにいることがわかったっんだ」

「偶然ですよ偶然。そんなことより、あなた、家族もある女の人と体を交わせること、所謂“不倫”ですよね。それを悪いこと、罪だと思っているんですか?それとも、そんなの関係ない、好きになった男と女がやることだ、自然の摂理だよ、罪なんかじゃない、どっちなんですか?」

「そんなことあんたに関係ないだろっ」とケンスケは投げつけるように言った。

「いや、あんたは罪だと思っているんだ。だってあの時、俺を殴りつけた時、あんたは奥さんと俺の関係を疑ったんだろ。俺たちが悪いことをしているとあなたは決めつけた。要は不倫は悪いことである。立派な罪だと」

「そんなことどうでもいいだろっ」

「あの時の痛みは未だに残っていますよ。少ししたらお部屋に伺います。それまでは楽しい時間をお過ごしください」

「おいっ」とケンスケは声を上げたが受話器の向こうから男の気配は消えていた。

「悪いけどすぐにここを出よう」とケンスケは紘子に言うと、急いで服を身に着け、車庫へ行く。

 シャッターの開閉ボタンを探すがどこにもない。食い逃げではないがやり逃げを防ぐため、開閉はホテル側で管理されているのだろう。

 ケンスケは停めてある車のトランクを開けると、ゴルフバッグから一番ヘッドが分厚いサウンドエッジを取り出し、シャッターに向けて何度も打ち付けた。五回、十回、二十回、しかし、シャッターはびくともしなかった。

 着替えを終えた紘子が心配そうな表情でケンスケに駆け寄る。

「かなりまずい状況なんですか?」とケンスケに聞く。

「あぁ、今すぐここを出ないとまずいことになる。あっ、そうだ・・」

 ケンスケは部屋に戻るとテーブルを動かしその上に乗った。

 そして、シャツの胸ポケットから百円ライターを取り出すと天井に設置されている丸い器具に火を灯した。

 暫くすると「火事です、火事です」という音声が部屋内に響き、続いて、天井にいくつかついてあるスプリンクラーヘッドから水が放たれた。

すると「きゃーっ」と声を上げた紘子の後ろのシャッターがゆっくりと上昇を始めた。

「よしっ、行きましょうっ」

 ケンスケは部屋から飛んできて車に乗り込むと、紘子が助手席のシートベルトを引き延ばしたのと同時にアクセルを踏み込んだ。

 まだ、最後まで上がりきっていないシャッターに車の天井を擦ったが、そんなことはどうでもよかった。


23

 息を切らし立ち止まる。

 駅の方向を振り返ると、追ってくる男の姿はもうなかった。

 いつの間にかつないでいた手を美奈は離す。

「どうして私のことを助けてくれたんですか。私はあなたのことを殺そうとしたんですよ」

「今日という特殊な日は、俺が君に殺されても、君があの男に殺されても殺され損。大阪人は損することを至極嫌う民族やから、ただそれだけ」

「ふーん、よくわかんないけど、とにかくありがとう」

「どういたしまして、って言うかこれまでごめんネ。今日をもってもう二度とやらないよ」

「本当に?約束してくれます?」

「うん、もう絶対にやらへん、神に誓うわ」

「ありがとう」と言って美奈が照れくさそうに微笑んだ時、突然二人の目の前に一人の若い男が現れた。

「おっ、可愛いじゃん、ちょっと俺と遊ばない?こんなオタクみたいなやつと一緒にいるよりよっぽどおもしろいよ」

「やかましいわっ、早うどっか行かんかい!」

「おっ、関西人じゃん、ただ面白いだけの」

「ほんまにのかんかいっ!しばきたおっそっ!」

「あーあ、汚い言葉だね、ひょっとして関西人でも最悪の大阪の方?」

「やかましいわっ」と言ってダイスケは美奈のサバイバルナイフを男の前に突き出した。

「おーっ、やるのかっ、今日は人を殺しても捕まらない日だからな」と言って男はダイスケが手にしているサバイバルナイフの二倍はある、よく戦争映画の主人公が持ち歩いているようなナイフをダイスケの目の前にさらした。そのナイフには赤い、おそらく人の血だろうが付着していた。

「その可愛い子を譲ってくれるんなら見逃してやるぜ」と男はナイフを舐めるまねをして己の顔の前にかざす。

すると「アホかっ」とダイスケがサバイバルナイフで男を切りつけようとしたが、瞬時にかわされ、逆に右の太ももをその大きなナイフで切りつけられてしまった。

切れたジーンズの向こうからじわじわと血が滲み出る。

「素直にお姉ちゃんを俺によこせよ、そしたら命までは取らないからさ」

 言うと男はもう一度ナイフでダイスケの右肩をを切りつけ、地面に倒れこんだダイスケに馬乗りになった。

「一人殺るのも二人殺るのも今日は一緒だからな」と言って両手でダイスケの首を絞めようとした男が、突然、体の力が抜けたかのようにダイスケの体から離れ、地面の上に転がった。

 男の脇には、銀色の細長い文鎮を手にした美奈が立っていた。

「大丈夫ですか」と美奈はダイスケを介抱した。

 足の傷は思っていたより浅く、血はすでに止まっていて、右肩も運よく皮膚までには刃先が届いていなかった。

「早くここから離れましょっ、歩けますか?」

「うん、大丈夫」とダイスケは立ち上がり、少し右足を引きずりながら美奈とその場から離れ、地面に転がっている男の姿がコメ粒ほど小さくなった時、スマホを手にした。

「おっ、ケンスケか、今どこや・・おっそうか・・悪いけど拾いに来てくれへんか・・やられたんや、理由は後で話すから・・おっ、すまん、待ってるわ」

「お友達ですか?」と美奈が聞く。

「うん、もうちょっとで車で来てもらえるから。

 それより、さっきの文鎮、なんであんなん持ってたん?」

「うちの学校、宗教系の私立の女子校で、毎日一枚、般若心経を写経させられるんです。それで毎日カバンの中に入れて持ち歩いているんです」

「そうなんや」

「ナイフで人を切りつける感触は味わえなかったけど、文鎮で人の頭を殴りつける感触は味わえました」

「可愛い顔してイカツイこと言うなぁ・・」

 言うと二人は人通りのほとんどない片側二車線の国道をとぼとぼと歩く。


24

「だけど、お客さん、すごいですよね、あんなんでやっつけちゃうんだから。なんか映画とかでよくありますよね、普通のおじさんがその辺のものを武器にして強い相手をやっつけるやつ、正しくあれを地でいってますよね」

「子供の時にすごく流行ったんですよ。お金持ちの子は直径三十センチくらいある樹脂製のマジのやつを持っていたんですけど僕たちはお金がなかったから、駄菓子屋で売ってる一枚十円のプラスチックで出来てる手のひらサイズのを買って何とか遠くまで飛ばせないかって放課後に友達と必死になってやってたんですよ」

「そうなんですか。だけど、助かりました。事務所に行って好きなのを好きなだけ持って帰ってください」

「ありがとうございます。私もお金を支払わないといけないので、お釣りは大丈夫ですか?」

「ええ、事務所にはちゃんとありますんで。それより、お客さん、帰りはどうされます?駅に戻る途中でもしあの男とまた会ったらまずいし、タクシーで帰るにしてもほとんど走ってないし、万が一乗れたとしても、今日は運転手は信用できませんから。なんなら、日付が変わるまでうちの事務所にいてもらってもいいですよ。狭いとこですけど、半日分くらいの飲み物や食べ物は揃ってますんで」

「ありがとうございます。だけど、うちもこの近所なんですよ。歩いて帰れる距離なんです」

「そうなんですか。意外と近所だったんですよね」

「ええ。だけどこの国も変わりましたよね。法律が無い一日だからって、人を殺めたりするそんな国じゃなかったですけどね、思いませんか?」

 保の問いかけにコウスケは答えなかった。

 ある方向を見て固まっている。

「や、やばいです、お客さん、逃げましょう、ここから早く立ち去りましょう・・」

 コウスケの視線の先を追った保は目を丸くした。

 あるマンションの一角から黒い煙が立ち、周辺にバットや鉄パイプを手にした男たちが群がっていた。

「まさか・・あそこが・・?」

「ええ」という言葉は発さず、コウスケは代わりにスマホを手にした。

「おっ、ケンスケか、悪いけど、すごくまずい状況になっている。車で迎えに来てくれないか・・場所は・・」

 突然、ズドーンっという音が鳴り響き、黒い煙を吐きあげていたマンションの一角から火の柱が上がった。


25

「すいません、迷惑かけちゃって・・」

「いえ、私はかまいませんけど・・」と言った紘子の足元にはスプリンクラーが発した水でびしょびしょに濡れた、アリバイ街道のお土産袋が置かれていた。

「電車で帰るのは危険ですから家の近くまで送ります」

「すいません、お手間かけちゃって」

 赤の信号で車が止まる。

「何かあったんですか?」と紘子がケンスケに聞く。

「つまらないことなんです。もう終わった話なんですけど、今日のこの日が原因でまたぶり返しちゃって」

「明日になるともう収まるんですか?」

「ええ、たぶん」

 目の前の横断歩道を珍しく人が通る。

「また来週どこかで時間作れますか?」とケンスケが聞く。

「ええ、大丈夫だと思います」

「また、メールでいいんで連絡ください」

「わかりました」

 信号が青に変わり、ケンスケがアクセルに足を乗せた時、突然、フロントガラスの向こうに男が立ちはだかった。

 よく見るとさっき横断歩道を渡った男だった。

 何かを叫びだしたと思った瞬間、男は隠し持っていたスパナのようなものでフロントガラスを打った。

「な、なんなんだっ」

 ケンスケは一瞬たじろいたが「このボケがっ!」と吐いてアクセルを踏み込んだ。

 男は一瞬にして視界の外にはじけ飛んで行った。

「マジでヤバイっ、もう昔の国じゃないよ、この国はっ!」

 ケンスケはさらにアクセルを踏み込み二つ目の赤信号の横断歩道を突破したときにスマホが震えた。

「どうした・・えっ、マジかっ・・大丈夫なのか・・今どこなんだ・・わかった、すぐ向かうよ」

 会話を終えたケンスケに紘子が「何かあったんですか?」と聞く。

「連れが知らない男に刺された。申し訳ないけど助けに向かうので少し自宅に戻るのが遅れてもいいですか?」

「大丈夫です。それよりその刺された人は大丈夫なんですか」

「ええ、命に別状はないんですけど、足をやられたみたいで歩くのがちょっと・・」

「そうなんですか」

「だけど本当にヤバいです。早く自宅に籠ったほうがよさそうです」

 言うとケンスケはさらにアクセルを踏み込み、小さな横断歩道の赤信号をまたしても無視した。


26

 ハザードランプを灯した車が近づいてきた。

 たぶんあの車だなと思った美奈は、地面の上に腰を下ろしているダイスケに「来ましたよ」と告げた。

「おーっ、あれやあれや」と声を上げダイスケが立ち上がると、見るからに高級そうな車が二人の目の前にとまった。

 運転席から降りてきた男が美奈をみて目を丸くする。そして「うん?」という顔をダイスケに向けた。

「おっ、あのう、危ないところを助けてもうたんや、ケンスケ、美奈ちゃん言うんや」

「そうなのか・・」

 ケンスケの頭の中をいろんな憶測が飛び交ったが「それはどうも」と言って彼は美奈に作り笑顔を送った。

「いえ、私も、助けてもらったんで・・」と美奈が作り笑顔をケンスケに返す。

「まあ、とにかく乗ってください、ダイスケ、おまえ歩けるのか?」とケンスケが視線をダイスケに移す。

「ああ、なんとかな、ちょっと、肩だけ貸してくれへんか」

「おう、わかった」

 後部座席の扉が自動にそーっと開きだしたとき、助手席に女性が乗っているのに美奈は気が付いた。

 誰なんだろう、なんとなく若くはなさそうだしケンスケのお母さんかなと美奈は思った。

 ダイスケはケンスケの肩を借り、なんとか後部座席に腰を沈めた。

「今日は危ないですから、こいつを俺のうちに降ろしたら自宅まで送るんで」

「ありがとうございます」と言ってダイスケの隣に美奈が乗り込み、扉がゆっくりと閉まる。

そして「美奈ちゃん、家はどっちの方向?」とケンスケが聞いたとき、助手席の女が「美奈?」と小さくつぶやき後部座席を振り返った。

「美奈っ!」

「お母さんっ!」

 ケンスケもダイスケも一瞬訳が分からなかった。

「あなたこんなとこで何やってんのよ?学校に行ったんじゃなかったの?」

「お母さんこそ、お祖母ちゃんのところに行くって・・」

「わっわたしは電車で変な男に襲われそうになったところをこの方に助けてもらって・・それで・・電車に乗って帰ると危ないからって車で自宅まで送ってもらうところだったのよ」

 苦しい言い訳やなぁとダイスケは思い、ケンスケの顔を見る。

「私だって、学校に行く途中の電車の中で変な人に追いかけられて、この人が助けてくれて一緒に逃げてきたのよ・・」

 ほんとかしら、つまらない男と遊んでるんじゃないのかしら、と思いながら紘子は「お怪我のほうは大丈夫ですか?」とダイスケに顔を向けた。

「ええ、もう血も止まってるんで」

「だけど刺されたんですよね、病院に行ったほうがいいんじゃ・・」

「今日はだめですよ。何されるかわからない。ダイスケ、家に救急箱があるから今日は応急処置だけして、日付が変わったらいけばいいよ」

「そうやな、それが無難やわ」

「とにかく早く家に戻りましょう。じっとしているとどんな目に遭うかわからないから」

 言うと、ケンスケは再びアクセルの上に足を乗せ車を走らせる。


 車中では全く会話がなかった。

 美奈は母親がうそを言っていると確信していた。どうして電車の中で助けてもらって車で送ってもらえるんだ。嘘がへたくそすぎる。最近すごくあか抜けてきたなと思っていたが、絶対にこの男と不倫をしているんだ。

「こいつ家に降ろしたら自宅まで送りますんで、もう少しお付き合いください」

 ケンスケの言葉に紘子は「お気を使わないでください」と言い、美奈は何も言わなかった。

「あなた、この方にはどこで助けていただいたの?」と紘子が美奈に聞く。

「男の人が刺されたの、電車の中で」

「あっ、それ、私、駅のコンビニの店員さんに聞いたわ。いっときすごい数の警察と救急の人がいたから」

「私、その電車に乗ってたの」

「えっ、そうなの?じゃあすぐ近くにいたんだ」

「私の目の前で男が刺されたの」

「えーっ、本当っ?」

「本当よ。それで怖くなって、いったん電車から降りて、しばらくすると次の電車が来たんで乗って、発車して少しすると隣の車両で悲鳴が上がって・・。たぶん、女子校生が一人殺されたわ、男に。その男がこっちに迫ってきて、その時、この人が助けてくれて・・」

「そうなの、どうもありがとうございました」と紘子は視線をダイスケに向け小さくお辞儀した。

「だけどどうしてその男は・・」と紘子はまた視線を美奈に戻して言った。

「何か、痴漢をやっていないのに濡れ衣を着せられて、人生がダメになったとか・・」

「冤罪ね。まさか、あなた、やってもいない人の手を捕まえて『この人痴漢ですっ』ってやってないわよね」

「そんなのやらないよ」

「だけど、痴漢にはあったことはあるんだ?」

「まあ、それはね・・」

 美奈の言葉に運転席のケンスケは苦笑いを浮かべた。

「それよりお母さんは誰に襲われそうになったの?」

「私?私もあなたと同じ、変な男にからまれて・・」

「本当?お母さんは電車にもめったに乗らないし、それに痴漢なんかに遭うことなんて絶対にないでしょ」

「ほっといてよっ」と紘子が言ったとき、ケンスケのスマホが鳴った。

「はい、おう・・マジかっ・・わかった、今どこだ・・・よしっ、すぐ行くよ、怪我はしていないんだよな・・オッケー」

「誰や?」とダイスケがケンスケに聞く。

「コウスケだよ。あいつもヤバいって。わけのわかんない男に追いかけられてるって」

「ブスの女のDVDでも送り付けて恨まれたんじゃないのか」と言うと紘子も美奈も?という表情を見せた。

「お二人ともすいません、もう一人の連れからSOSが入ったんで、もう少しお付き合いいただいてよろしいですか?」

「ええ、大丈夫です」と紘子が家族を代表して答える。

「ダイスケ、足は大丈夫か?」とケンスケがダイスケに聞く。

「大丈夫や、ところでコウスケはどの辺におるんや?」とダイスケが聞くとケンスケがある駅名を告げた。

「それ、うちの近くです」と今度は美奈が家族を代表して反応した。

「そうなんだ。じゃあ、コウスケを拾った後、先に自宅までお二人をお送りします」

「ありがとうございます」と今度は二人声を合わせて紘子と美奈が言うと、高級車はウィンカーを出して珍しく青の信号の横断歩道を左に折れた。


27

「あっ、あのコンビニです」とコウスケが指をさす。

「私、今朝あそこで新聞を買ったんですよ。若い男が一人悲鳴を上げて床で転がっていましたよ」と保が言う。

「あっ、じゃあ僕の後にいかれたんだ。

 あの若い男、つまらいことをして警備員に腕をへし折られたんです」

「そうなんですか、警備員にですか?」

「警備員と言っても今日限定の警備員です。マッチョな人です。だから何かあったらちょっとは助けてもらえるかなと思ってここにしたんです」

 コンビニに着くと、まだ、ケンスケの高級車は駐車場には止まっていなかった。

 テレビの報道陣らしき人たちが周りでうろちょろしている。

「あの男とは何かあったんですか?」

「送った商品が俺の好みとは違うって・・そんなの人によって趣味も好みも違いますから・・」

「そうですよね、ある意味、こんないい方したらあれですけど、あてもんみたいなもんですからね」

「ほんとう、皆さんがそう思ってくださったらいいんですけどね」

 突然、大きなクラクションが鳴り、ケンスケの車が駐車場に滑り込んできた。

「来ました、あの車です」とコウスケが見るからに高級車を指さす。

「すごい車ですよね」と言った保の体が固まった。

 窓越しから、助手席に妻の紘子が、リアシートに娘の美奈が乗り込んでいた。

「どうしたんですか、お客さん、早く乗りましょうよ、また、変な奴らが押し寄せてきたら大変ですから」

 リアシートの扉が開き美奈が降りてきた。

「お父さんっ、何やってるのっ!」と叫ぶ。

「お父さんって、娘さんですか?」とコウスケが保に聞く。

「ええ、それに助手席に座っているのは私の妻です」

「えっ!すごい偶然ですねぇ」とコウスケが興奮していったとき運転席からケンスケが降りてきた。

「とにかく早く乗ってください。狭くて悪いですけど娘さんはお母さんと一緒に助手席に乗ってください。今日はシートベルトを締めなくてもいいんで」

 言われると美奈は助手席に乗り込み、リアシートにはコウスケ、そして保が乗り込んだ。。

「とりあえず、まず三人をご自宅にお送りしますので」

「申し訳ございません」と一人言った紘子に普段感じたことのない香水の香りを美奈は感じ、保は、コウスケ以外の二人の男はいったい妻と娘の何なのだろうともやもやを感じながら、車は保たち家族が暮らすマンションに向かって舵を切った。


28

「あ、あのレンガ色のがそうです」

 紘子が前方を指さして言った。

「どうも、すいませんでした、助かりました」と保が続いて言った。

 その時、ダイスケが「あー腹減ったぁ」と車内で言葉を吐いた。

「家に戻ったら嫁に何か作らせるからもうちょっと辛抱しろ」とケンスケがなだめる。

「もしよかったら、カレーライスでしたら、みなさん一皿ずつくらいならありますけど」と紘子が言った。

「カレーライスっ、それ、むっちゃ食いたいです、チェーン店のカレーは食べ飽きたんで、久しぶりに家庭のカレーが食べたい、ぜひお願いしますっ」

「本当にいいんですか?」とケンスケが紘子に聞く。

「ええ、そんなに期待されても困るんですけど、よかったら・・」

「じゃあお言葉に甘えて・・」と言ったケンスケの顔を保はリアシートからじっと見る。

 六人が乗り込んだ高級車が保たちが暮らすマンションに到着する。

 助手席から紘子と美奈が降り、リアシートから保が降り、続いてダイスケがコウスケの肩を借り二人で降りてきた。

 最後に運転席から降り立ったケンスケは万が一のことを考えあたりに不審者がいないか目を配る。

「ここに停めておいても大丈夫ですか?」とケンスケが保に聞く。

「今日だけは大丈夫だと思います」と保がケンスケに答え、六人でエレベーターに乗り込み部屋にたどり着く。

「狭いところですけど」と紘子が言って玄関の扉を開く。

「うわーっ、懐かしいーっ、家の匂いですよね、家の・・」

 ダイスケが少し興奮して声を上げる。

 リビングに入ると紘子はテーブルの上に置いたままになっていた“冷蔵庫にサラダが入っています”のメモを手に取りくずかごに捨てた。

「すぐに用意しますので、かけて待っていてください」と紘子が言うと、四人掛けのテーブルにケンスケ、ダイスケ、コウスケが腰を下ろし、保と美奈は自分の部屋に入っていった。

「先にサラダを召し上がってください」と紘子は冷蔵庫から本来は保と美奈が食べるはずだった二つのサラダが入った器を冷蔵庫から取り出し、リビングのテーブルの上に並べた。

「うぉーっ、こういうサラダが食べたかってん、いかにも家庭風ってやつの・・」とまたダイスケが興奮した声を上げた。

「おいっ、あんまり興奮すると、塞いだ傷がまた開くぞっ、今日はあれだけど明日はちゃんと病院に行って来いよ」とケンスケがダイスケに言う。

「わかってるって、それより奥さん、何かドレッシングみたいなんありますか?」とダイスケが紘子に聞く。

「普通のマヨネーズしかないですけど、それでいいですか?」

「ええ、十分も何も、私こう見えても、れっきとしたマヨラーですから」

「どう見えてだよ、ったく、で、あんまりがつがつ食うなよ、これ皆さんのお昼ごはんなんだから」

「わかってるって、そう、やいやい言うなよ、こう見えてもケガ人なんやから」

「見たまんまじゃねぇかよ」とケンスケが呆れて言う。

「みなさん、どういうご関係なんですか?」と炊飯器のご飯を大きな器に移し、電子レンジのタイマーを回しながら紘子が聞く。

「偶然あるところで会って」とダイスケが言ったところでケンスケがテーブルの下でダイスケの足を軽くけった。

 ダイスケがケンスケを見ると「余計なことしゃべんじゃねえぞ」と目で強く訴えた。

「それで、これも偶然なんですけど、僕ダイスケと言って、この陰気臭いのがコウスケと言って、そして三人の中では一番イケメンの親のすねをかじりまくってのうのうと生きているこいつがケンスケと言います」

 ケンスケの目が吊り上がる。

「もうお分かりの通り、名前にみんな“スケ”がついて周りからは“スケ”べ三人衆、って呼ばれています」

 机の下からダイスケの足を蹴り上げたのはケンスケではなくコウスケだった。

「痛ぇーっ・・さっきも言っただろっ、俺はケガ人だってっ」

「うるせえよ、黙って食っとけっ」

 吐き捨てるようにコウスケが言った。

「皆さん、仲がいいんですよね」と言って紘子は冷蔵庫からマヨネーズを取り出しダイスケに手渡す。

「そんなことないです、上っ面だけです」とダイスケがけられた足をなでながら言ったとき、電子レンジがチンっと音を立てた。

「お待たせしました、もうお出しできますので」と言って紘子はカレーを温めていた鍋の火を止めた。

「少ししかないですけど・・」と小さな器に盛ったごはんに紘子はカレーをかけていく。

「うわーっ、最高っ、これが食べたかってんなぁ」とダイスケが興奮した声を上げた時、美奈が部屋から出てきた。

 制服から部屋着に着替えていた。

「私、部屋で食べるから」とだけ言い残すとまた部屋に戻っていった。

「すいません、不愛想で・・」と紘子が言う。

「いえいえ、僕らがお邪魔しちゃったんで、申し訳ないです」とケンスケが答える。

「普段もほとんど自分の部屋で食べているんです。私も仕事がありますし、主人もほとんど毎晩呑んで帰ってきますので、三人そろってリビングで食事することはなくなりました。自分の部屋で好きな音楽を聴いてスマホしながら食べるのがいいんでしょうね」

「そんなもんなんですか、なんか寂しいなぁ、で、ケンスケ、お前はちゃんと奥さんと毎晩面を合わせて飯食べてんねんやろなぁ」

「ああ、たまにはな・・」

 ケンスケが美奈に負けないくらい不愛想に答えた時、紘子がテーブルにカレーの入った三つの器を並べた。

「少ししかないですけど召し上がってください。ルーはまだあるんですけど、ごはんがもうこれだけなんです。娘も主人もあまり食べないんで普段から食べる分しか炊かないので」

「いえいえ、もうこれで十分です」とケンスケが言っている横でダイスケは手を合わせると器にかぶりつく。

「美味いっ」とだけ言うとダイスケは一心不乱にカレーを掻きこむ。

「ご主人、結構呑まれるんですか?」とコウスケが紘子に聞く。

「ええ、ほぼ毎晩呑んで帰ってくるんです」

「お家でも?」

「休みの日は朝からやってますね」

 そういえば、微かにアルコールの香りがしたなとコウスケは思った。

「僕なんかサラリーマンの経験が無いんですけど、いろいろとストレスとかがあるんじゃないですか?」

「そんな風には見えないんですけど」と紘子が言ったとき、保が部屋から出てきた。

「お先に頂いています」とケンスケが頭を垂れながら言う。

「いえいえ、ゆっくり召し上がっていってください。よかったら私の分もいってください」

「えーっ、本当にいいんですかっ」とダイスケが目を輝かせて言う。

「ええ、カレー食べちゃうとお酒が吞めなくなりますから、ご遠慮なく召し上がってください」

 言うと保も部屋に戻っていった。

「奥さん、ほんとうにすいません、厚かましくしちゃって」とケンスケがまた頭を垂れる。

「いいんですよ、気にしないでください。ダイスケさん、お代わり入れましょうか」

「お願いしまっーすっ」とダイスケが器を紘子に差し出す。

「お前、本当に遠慮っていう言葉を知らないやつだなあ」とケンスケが呆れ顔で言う。

「ご厚意を断るとかえって失礼やからね」

 紘子はダイスケにお代わりを手渡すと、アニメのキャラクターが描かれたピンク色の器にごはんとカレーを盛り美奈の部屋に向かう。

「入っていい?」

「うん」とかったるい声を受け紘子が美奈の部屋に入る。

「お代わりできないけど我慢してね。夜はハンバーグ作るから」

「いいよ」と美奈がため息のような声を発したとき紘子のスマホが音を発した。

「ちょっとごめんね」と紘子は美奈に背を向けディスプレイを睨んでいると、暫くしてその上に指を滑らせた。

「お母さん、最近なんか変わったよね」とスマホを終えた紘子に美奈が言う。

「そんなことないわよ」

「だって、これまで、スマホに誰かから連絡なんか来なかったじゃん」

「失礼ねぇ、私にだって友達くらいいるわよ」

「それに、今日も香水つけてるし、これまでそんなことなかったじゃない」

「私だって香水くらいつけるわよ・・食べ終わったら食器だけはシンクに漬けておいてね、カレーはこびりついたら落としにくいから」

 紘子が美奈の部屋から出ると保がスエットをジーンズに履き替えリビングにいた。

「ちょっと、酒とつまみ買ってくるよ。何かいるものある?」

「あのう、すいません」

 答えたのは紘子ではなくダイスケだった。

「なんですか?」と保がダイスケに聞く。

「申し訳ないんですけど、もう少し食べたいんでのり弁買ってきてもらっていいですか?」

「おまえ何言ってんだよっ! それ食べたらもう帰るぞっ」とケンスケが怒りを交えて言った。

「いえいえ、ゆっくりしていってください。うちがこんなに賑やかなのは久しぶりなんで何か嬉しくって。ダイスケさん、のり弁だけでいいですか?」

「あっ、すいません、それだけで結構です。ただ、さっき言いましたけど私マヨラーでありながら実はタルラーでもあるんです。できるだけ魚のフライの上にたくさんタルタルソースが乗っかてるやつをお願いします」

「わかりました。じゃあたっぷり乗ったやつを買ってきます」

 あきれ顔のケンスケの横でコウスケが「私も一緒に行きます。何かあればまずいんで」と言って立ち上がった。

「それがいいよ、それと車で行ったほうがいいぞ」と言ってケンスケがコウスケに車のキーを渡した。

 マンションを出るとき二人は辺りを伺ったが怪しい人影はなかった。

「うわーっ、こんな高級車運転するのはじめてだなぁ、すっごい緊張するっ」

「安全運転でお願いします」と保がコウスケに言う。

「安全運転って言うか、こんな車乱暴に運転することなんかできません」

「ははっ、確かにそうですよね」

「さっきのコンビニでいいですか?」とコウスケが保に聞く。

「ええ。あの強面の警備員がいるから安心です」

コウスケがエンジンを入れると地鳴りのようなエンジン音が閉め切った車内に響き渡った。

「ジェット機じゃないですよね?」と保が言うと高級車はそろりそろりと動き出した。

 五分もたたないうちに高級車はコンビニの駐車場にソフトランディングした。

「緊張しました・・これなら歩いてきたほうがよかったですよ」とコウスケが額の汗を拭きながら言う。

入店すると店内には他に客は一人もおらず保は弁当のコーナーに向かう。

「あらーっ、一つもないよ」

 弁当の棚には梅干しのおにぎりが2個寂しそうに肩を寄せ合っているだけだった。

「おにぎりで十分ですよ、あいつは何でもいいから腹に入れとけばいいんで」とコウスケが冷たく言い放った。

「あと三十分もすれば出来上がりますよ。うちは店内でお弁当を作っているんで」

 言ったのは強面の警備員二人に囲まれている店員さんだった。

 この店は最近コンビニでも増えてきた、店舗の中でお弁当やお惣菜を作る店の一つだった。

「ちなみにのり弁ってあります?」と保が店員さんに聞く。

「ありますよ、うちでも一番出るやつですから」

「そうですか。で、お願いなんですけど、のり弁って白身魚のフライかちくわの天ぷらが乗っているかと思うんですけど、それに付けるタルタルソースを少し多めに入れていただきたいんですけど、できますか?」

「大丈夫ですよ」と店員が満面の笑みで答えた。

「そうですか、助かります」

「出来ましたらお呼びしますんでイートインスペースででもお待ちいただけますか」

「わかりました、ありがとうございます」

 保とコウスケはホットコーヒーを買って、誰もいないイートインスペースの椅子に並んで座った。

「すいません、あいつのために・・」

「いやいや、気にしないでください、特に何もすることもないですから」

「だけど、今日は本当に有難うございました。危ないとこで助けていただいて」

「いえいえ、たまたまです。私が若いころならビデオテープだったんで、おそらく武器にはならなかったと思います。だけど、こんなケースってよくあるんですか?」

「いえ、初めてです。確かに不満に思うお客さんもなかにはいるかとは思うんですけど」

「利用される方って、私みたいなおじさんがやっぱり多いんですか?」

「そうですね。今、ネットでいくらでも見れますから、ネットを扱えない年配の方が八割くらいですかね、電話の声を聞くだけなんではっきりしたことは言えないですけどたぶんそんな感じかと思います。だけど、お客さんはネットとか全然大丈夫ですよね?」

「パソコンを娘に占領されていまして、それで、お恥ずかしながら今回利用させていただいた次第なんです」

「そうなんですか」と言ってコウスケが紙コップに入ったコーヒーに口をつける。

「だけど、コウスケさん、失礼ですけど、この仕事に就いた理由って何なんですか?」

「いえ、色々ありまして・・・」

 コウスケは大学に入学してから今日に至るまでの経緯を保に話した。

 ただし、ダイスケとケンスケと出会った場所の話だけは省略した。

「大変だったんですよね。確かに平成不況が長すぎましたから。政府も全くの無策で今も含めて全く機能していないですからね」

「だけど、今日でもうこの仕事からは足を洗おうと思っています」

「そうなんですか。だけど、住むところはあんなことになっちゃったし、次の働き口なんかはどこか当てがあるんですか?」

「いえ。

 住むところはケンスケの家がバカほどでかいので暫く居候させてもらうと思っていて、働くのは貯えが少しあるんで少ししてから考えようと思っています」

「コウスケ君のやる気次第だけど、なんならうちの会社に来る気ない?」

「えっ、マジですか?」

「今どこも人がいなくて、うちも例に漏れず困っていて・・人事部長が僕の同期だから口きいてあげてもいいですよ。コウスケ君ならまだ若いし、出ている大学も申し分ないから問題ないと思います。もし、その気になったら連絡ください。いつでもいいですから」

「は、はい、ありがとうございます」

 夢に見た正社員。収入はいったん今よりは落ちるだろう。しかし、毎月決まった給料がもらえおまけに夢にまで見たボーナスももらえる。四六時中周りの人間の目を警戒して暮らす必要もなくなる。これでやっと側道から本来自分が通るはずだった本道へ合流することができる、コウスケの心は自ずと決まった。

「こらーっ!」の怒号でコウスケは我に返った。

 保と二人イートインから出ると一人の赤い髪をした若い男が二人の屈強な警備員に床に抑え込まれていた。

「朝に見た光景のデジャブです。本当にこの国はどうしちゃったんですかね」

 コウスケが諦め交じりの声を漏らしたとき「お待たせいたしました、お弁当がご用意できましたっ」と店員が満面の笑みを保とコウスケに向けた。

 保がレジに進み店員から弁当を受け取る。

 ダイスケの要望通り、ごはんの上に敷かれた黒い海苔の上には、これでもかとタルタルソースがかけられた白身魚のフライが鎮座していた。


29

「遅いなーっ、どこまで買いに行ったんやろ?」とダイスケが声を上げた時、ケンスケのスマホが鳴った。

 スマホを手にしてディスプレイを見たケンスケの表情が固まった。

「ちょっと電話してくるわ・・」と言ってケンスケはマンションを出ていった。

「なんや、えらい怖い顔しとったなぁ」とダイスケが遠慮の塊で残っていたサラダのプチトマトをつまんだ。

「今、主人からメールがありまして、コンビニを出たんでもう間もなく着くということです」

「あっ、そうですか、すいません」

 ダイスケが紘子の言葉に頭を垂れた時、美奈が器を手にしてリビングに入ってきた。

「ごちそうさま」と言ってキッチンにいる紘子にピンク色の器を渡す。

「お父さん、コンビニでポテトフライとか色々おやつ買ってくれたみたい。もうすぐ戻ってくるから」

「うん」と美奈が頷いたとき、紘子のスマホが鳴った。

「ちょっとすいません」と言って紘子はキッチンから出るとリビングの隣の部屋に入り後ろ手でふすまを閉めた。

「ダイスケさん、お母さんの隣で運転していた人とお母さんって本当に偶然に会ったんですか?」

「そうやと思うよ、なんで?」

「お母さん、働きに行くようになって、すごく変わったんです。香水をつけたり、それに、スマホが結構鳴るようになったんです」

「そら、お付き合いが増えたからちゃうんかなぁ」

「そうですか・・」

「俺らはお互いのプライベートには口を挟まないようにしてんねん。さっき、あるところで三人が出会ったって言ったやんか、あれ実は警察やねん」

「えっ、本当なんですか?」

「うん。それぞれがなぜ警察にいたかは薄々とはわかってんねんけど、あえてお互いに聞こうともせえへんし言おうともせえへんねん」

「そうなんだ・・ちなみにダイスケさんが警察にいた理由って・・・」

 ダイスケはすべてを美奈に話した。

「ごめんなさい、つまんないこと聞いちゃって・・」と美奈が少ししょげて言う。

「ええよ、ほんまのことやから」

「その後、妹さんとは・・?」

「会うてへん。会いたいような会いたくないような・・そんな気持ちやねん」

「そうなんだ・・だけど・・さっき約束してくれたようにもう絶対にしないんだよね」

「もちろん、何回も言うけど神に誓うよ」

「それだったら、友達でずっと嫌な目に遭っている子がいるんだけど、その憎っき男、毎日付け狙ってくるみたいなんだけど、その男の退治をお願いしてもいい?」

「ええよ、自分と同じ車両に乗ってる子なん?」

「そうです。この子なんです」と言って美奈はスマホのディスプレイに指を滑らせある女の子をダイスケに見せた。

「へぇーっ、了解」と言ったダイスケの背中に少し汗が流れた。

“常連”の美奈がいないときに代わりに何度か行為を致した女の子だった。

「足の傷は大丈夫ですか?」と美奈が聞く。

「こんなん屁ぇみたいなもんやから、ケンスケの家に行って奥さんに薬もらって塗ったらしまいやから」

「ケンスケさんて結婚されてるんですか?」

「そうよ。俺とコウスケはまだチョンガーやけど」とダイスケが言ったとき、ケンスケが部屋に戻ってきた。その後ろには保とコウスケもいた。

「ダイスケっ、すぐに行くぞっ! 弁当は車の中で食えっ」とケンスケが吠える。

「ちょっと待ってやっ、飯くらいゆっくり食わしてくれよ」

「もう散々カレーを食ったんだろっ、あとは車の中でだっ」

言うとケンスケはコウスケに「悪いけどこいつに肩かしてあげてくれ」とダイスケを指さして言い、保に「すいませんでした、お邪魔しました、奥様にもよろしくお伝えください」と言うと逃げるようにして玄関に向かう。

保はコウスケに「じゃあ」と目で語り、美奈は、保からレジ袋のまま受け取ったのり弁当を大事に抱えているダイスケに「明日よろしくお願いします」と同じく目で語った。


30

「うわーっ」とダイスケが声を上げた。

 今しがた保とコウスケがコンビニから乗って戻ってきたケンスケの高級車の四つのタイヤがすべてパンクしていた。

「クソっ!」と吐いたケンスケが鋭い眼光で辺りを見回す。

「おいっ、何か貼ってあんぞっ」とダイスケが叫んで車体から白い紙を剝がしとった。

「ちょっとかせっ!」とケンスケがダイスケから白い紙を奪い取る。

“だから少し話をさせてくださいよ

 今日というこの特別な日にどうしても話しておきたいことがあります

 ご自宅で奥様とお待ち申し上げております“

 手書きの文字で書かれていた。

「なんだ、悪い話なのか?」とケンスケにコウスケが立ち寄る。

「ああ、つまらない話なんだけどな」

「どうする?通りに出てタクシーを拾うか?

 三人なら何かあっても大丈夫だろ?」

「ああ、だけどな・・」

 ケンスケはあの男のことを恐れた。こっちの行動をどこからか見ていて、タクシーの運転手にでもなりすまして接してくるかもしれない。

「車一台くらいやったらなんとかなるで」とダイスケが美奈から譲り受けたサバイバルナイフをかざしながら言った。

「今日一日限定だな」とコウスケがからむ。

「これでガラスをぶち破って、あとはちょちょいと結線をすれば簡単にエンジンがかかる。どうする?」とダイスケがケンスケの顔色をうかがう。

「ちょっと待ってくれ」と言ったケンスケはスマホのディスプレイに指を滑らせたが、途中で指を止めた。

 偶然出会ったという設定になっているのに電話やメールで連絡を取るのはご主人や娘さんになにかを勘繰られる。

「コウスケ、悪いけど、戻って聞いてきてくれないか。確か車を持ってらっしゃったはずだから、今日一日だけ貸してもらえないかって」

「わかった、聞いてみるよ」と言ったコウスケはスマホを取り出した。

「えっ、番号知ってるの?」とケンスケがコウスケに聞く。

「ああ、明日、ちょっと会うことにしていて・・」

「そうなんだ、何の用で?」

「働き口を紹介してもらうんだ。俺もやっと堅気に戻ろうと思って」

「そうなのか。どんな会社なんだ?」

「わかんない。あの人が勤めている会社に紹介してもらうんだ」

「あっ、俺もお願いでけへんかなぁ」とダイスケが入ってくる。

「お前も堅気になるのか?」とケンスケが聞く。

「ああ、さっき、あの子と約束したんだ。もう今やっていることからは足を洗うって」

「そうなんだ、それはいいことだと思うよ、もう俺たちも若くはないからな」

 コウスケがスマホを握り何やら話しながらケンスケとダイスケに親指と人差し指でつくった〇を向ける。

 暫くすると、保が三人のところにやってきた。

「すいません、無理お願いしちゃって」とケンスケが頭を垂れる。

「いやーっ、これはひどいですね、いくら法律が機能しない日だからって・・こんなことは、今までの日本人ならしなかったですよ・・ほんと、そんな国じゃなかったんですけどね」と言って保は車のキーをケンスケに渡す。

「明日にはお返ししますので、ほんとうにあれやこれやでお世話になっちゃってすいません」

 ケンスケが言って頭を垂れると保は「いえいえ、これも何かの縁ですから」と言って笑った。

「じゃあ、行こうか、ダイスケ、お前の高級マンションまで案内してくれ」

「えっ! なんで?」

「理由はどうでもいいから、とにかくナビってくれ」

 ケンスケが言うと三人は車に乗り込み、保に揃って頭を垂れ、ダイスケの“高級マンション”へと向かった。


31

「きったねー部屋だなっ」とケンスケが思わずこぼす。

「テレビでよくやっているごみ屋敷を生で見ました」とコウスケは言って鼻をつまむ。

「あほか、住めば都じゃ。適当に場所確保して寝るなり飯食うなりしてくれ。冷蔵庫にはたぶん腐ってはないと思うけど食い物と酒類もあるから適当にやってくれ。俺は今からこのタルチャン海苔弁当をかっこむから」と言ってダイスケはカップラーメンの殻や、ビールの空き缶をかき分けフローリングの床に腰を下ろし胡坐をかいた。

「そうだ、ケンスケ、ああいうことになっちゃったから、暫く居候させてくれよな」と足で何かのごみをかき分けながらコウスケが言う。

「ああ、いいよ。なんならここで暫くってのもいいんじゃないのか」

「悪いけどそれは無理だ。ここで寝るなら外に止めた車で寝るほうがよっぽどましだよ」とコウスケが恐る恐る床に腰を下ろす。

「これやから地方の国立大学出身のぼんぼんはいややねん」

「いや、ダイスケ、俺、アホの私立大学出身だけどコウスケに以下同文だよ」

「もう、ぼんぼんな人らはいややなぁ・・って、ケンスケ、お前何もめてんねん?」とダイスケが口の周りをタルタルソースだらけにしてケンスケに聞く。

「つまんない話なんだけどな・・」

「つまんだ女が今頃になって金よこせって言うてきてんのか?」

「いや、女じゃないんだ・・」

「えっ、お前、そっちもやるんか? 今流行りの二刀流やんけ」

「バカか、そんな趣味はないよ。前に俺たちが初めて会ったところで少しだけ話しただろ」

「ああ、あのお前が嫁さんの不倫を嫉妬してしばいたって男?」

「ダイスケ、言葉遣いに気をつけろよ、嫉妬って二度と使うな」

「おぉう怖っ・・で、その男が顔貸せと?」

「そう、どうしても今日中に話がしたいと」

「今日という特別の日に・・」とコウスケが二人の会話に割って入る。

「ケンスケ、それは危ないぜ、下手に行ったら殺られるぞ」とコウスケが続けた。

「わかっている」と言った後「だけど妻が一緒にいるんだ」とはケンスケは言えなかった。

「おいっ、ダイスケっ、さっき持っていたナイフ貸してくれるか?」

「ええけど」と言ってダイスケがナイフを差し出す。

「俺も一緒に行こうか?」とコウスケがケンスケに聞く。

「いや、大丈夫だ、やばくなったら電話するよ」

 立ち上がるとケンスケはいつもの癖で車のキーを指にかけくるくると回しながらダイスケの“高級マンション”を出た。


32

 自宅マンションに着くと、エントランスの脇に車が一台停まっていた。

 どこかで見たことがあるなと思っていたら思い出した。

 これから会う男が住んでいる三階建ての戸建ての一階に停まっていた国産車だった。

 エントランスホールに入ると妻に電話を入れる。

「着いたから。降りてきてくれるか」

 無駄に広いエントランスホールに置かれた白いソファーに腰を下ろし、ローテーブルに車のキーを置く。

 このソファーを利用している人間などこれまで一度も見たことがなかった。

 エレベーターが降りてきたのが見えた。

 ジャケットの内ポケットに入れたダイスケから借りてきたナイフの存在を確認する。

 男が目の前に立つ。妻は下を向いて目を合わせない。

「やっと会ってくれましたね」と言って男は嫌味な笑みを浮かべる。

「なんだ、あの時のことをまだ根に持っているのか」

「違いますよ、特別な今日というこの日に是非とも話したいことがあるんです」

「なんのことだよ?」と言って妻の顔を見ると一瞬目が合った。

「単刀直入に言いますけど、あなたの奥さんと一緒にならせて頂きたいんです」、

 ケンスケは男の言っていることを理解できなかった。

「殴ってもらって結構ですよ。今日ならブタ箱に放り込まれる心配はありませんから」

「そんなつまらないことはしねぇよ」

「あなた、あの時、私のことを疑いましたよね。奥さんと変な関係になってるって。そして、それをあなたは許せなかった。つまり、他人の妻をめとることはあなたにとっては罪、ですから罪を問われない今日という特別な日にお願いに上がった次第なんです」

「なんだ、結局、あの時からそういう関係だったんだ」と言ってケンスケは妻に顔を向ける。

「いえ、違いますと」と男が答える。

「ほんとかよ・・」とケンスケが言葉を垂らす。

「あの後からです」と初めて妻が口を開く。「色々と相談に乗ってもらって・・・」

「なんの相談なんだよ?」とケンスケは妻の目を見て言葉を吐いた。

「とにかく、あなたとはもう無理なんです。これ以上は・・」と妻が涙目で言う。

「ということですから、こちらにサインをお願いします」

 男がケンスケに差し出したのは離婚届だった。

「何度も言いますけど、殴ってもらってもいいんですよ」と男が言う。

「やかましいよっ」と言ったケンスケは「何か書くものっ」と言って、男が持ってきていたボールペンを受け取ると薄い紙に記名する。

「印鑑は?」とケンスケが聞くと妻が「これ」と言って昔どこかの生命保険会社からもらった白い印鑑ケースを差し出した。

「これでいいんだな」とケンスケは取り出した印を薄い紙に押し言葉を吐いた。

「どうもありがとうございます」と男がケンスケを見て言った。

「ところで」とケンスケが男を見る。

「なんですか?」

「あんた子供いるんだろ? その子供はどうするんだ?」

「えっ・・」

「一番の犠牲者は子供なんだからな。親はすいた惚れたで子供の将来のことなんか考えずに自分達の欲望を満たしてるけど・・子供に迷惑をかけていることを思うと一番の罪だと俺は思うよ、子供のいない俺が言うのもなんだけど・・」

「私がみます。私、ずっと子供が欲しかったんです。私が責任をもって面倒をみます」

 男がケンスケの妻の言葉に驚きの表情をみせる。

「そうなのか・・それじゃあ、よろしく頼むよ。新しい生活が始まるまで必要ならここを使ってもらってもいいから」

 言うとケンスケはローテーブルに置いた車のキーを手に取ると指にかけてくるくるとまわし自らの城を後にした。


33

 ダイスケの“高級マンション”に着いたとき、ケンスケのスマホが震えた。

 紘子からだった。

「主人に聞きましたけどダイスケさんのうちに行ってるんですって?」

「ええ」

「やっぱり何かトラブルにでも巻き込まれているんですか?」

「つまらないことなんだ。でも明日になればすべてが解決する。今日という特別な日に起こったことだから」

「晩御飯とかは大丈夫なんですか?」

「一晩だけだから別に食べなくても大丈夫だよ」

「これからハンバーグを作るんですけど、あなた一人分くらいなら用意できますけど」

「そう・・じゃあ頂こうかなぁ・・ダイスケ

の家は汚すぎてどっちみち今日の夜はこの車で過ごそうと思っていたから」

「そう、じゃあ、あと二時間後に来てくれますか、連絡くれたら降りていきますんで」

「ご主人は大丈夫なの?」

「もう今にも酔っぱらって寝落ちしそうだから」

「そう、じゃあ、お願いします」


 二時間後、ケンスケが紘子のマンション前に到着する。

 連絡をすると、すぐに紘子は大きな紙袋を手にしてエントランスから現れた。

「すいません、手間ばっかりかけちゃって」とケンスケが車の運転席から言う。

「いいえ、気になさらないでください。困ったときはお互い様ですから。これ、チェーンゲートのリモコンです。それと、これ」と言って大きな紙袋を紘子が助手席の窓からケンスケに手渡す。

「おにぎりとハンバーグ、それに水筒にお茶が入っています。食べたらそのまま置いておいてください。明日、取りに来ますので。あと、さすがに駐車場の中でエンジンの掛けっぱなしはまずいので、タオルケットを入れておきました。まだまだ寒いですから」

「すいません、何から何まで」と言ってケンスケは受け取った紙袋をリアシートに移し助手席のドアを開けた。

「乗りませんか」とケンスケが言う。

「いえ、日が長くなったから、まだまだ二人の所作は辺りから伺えますから。また、メールします。あっ、車を止める場所ですけどゲートに入って少し右に曲がりながら登っていくと駐車スペースに出ます。その向かって左側の一番奥、十番が私たちの場所です。すぐにわかるかと思いますので」

「わかりました。ありがとうございます。飯食べて暇になったらまたメールしてもいいですか」

「ええ」と紘子が言うと二人はエントランスの前で別れた。


 十番の位置に車を止め、紘子から預かった紙袋の中身をすべて取り出したときスマホが震えた。

「なんや、生きとったんか」

 ダイスケの声に「なんとかな」とケンスケが答える。

「連絡ないからコウスケと殺られたんちゃうかって言うてたんや」

「そんなへたはうたねぇよ。それより今晩は車の中で過ごすから。とてもじゃないけどお前の城では寝起きはできねぇから」

「はいはい、おぼっちゃま、かしこまりました」

「車はそのまま返しておくから」

「返したその足でまたあの奥さんとイチャイチャに行くんやろ。法律が機能するからと言って油断したらあかんで、もう昔の日本とは違うんやから」

「ご忠告ありがとうございます。まあ、お互い気をつけようや、じゃあな」

 ダイスケとの通話を切るとケンスケはそのままスマホでネットニュースを見る。

 全国で殺人事件を含めた“騒動”が五百件以上起きていて、死者は二十人を超えていた。その二十人には警察官によって射殺されたもの五名も含まれていた。詳細は不明だった。

 外を伺う。辺りには人の気配はない。何が起こるかわからない。日付が変わるまでまだ七時間近くある。

 水筒のコップを外しお茶を注ぎ入れる。

 温かいほうじ茶だった。

 まだあまりお腹は減っていなかったが助手席のシートにグリーンの包みを拡げると、ラップに包まれたおにぎりと、使い捨ての透明の容器に鎮座するハンバーグが現れた。

 早速おにぎりを頬ばる。

 むちゃくちゃ美味い。遠慮気味に掛かったおかかのふりかけがいい仕事をしていた。

 ほうじ茶をすする。

 小学校の運動会を思い出す。

 父親は資産家で仕事が忙しく来てくれたことなど一度もなかった。母親も元々子供にあまり興味がないようで、運動会に行く暇があるならブランドのバックを買いに行く、そんなタイプの女だった。だから、いつも、近くに住む叔母が見に来てくれた。もちろんお弁当は手作りではなく母親がいつも注文する仕出し屋の弁当だった。中身は周りの子供たちより豪勢だったが、美味しいと思ったことは一度もなかった。

 ハンバーグが入った透明の容器を開ける。

 まだほのかに湯気が立ち上がる。

 箸でほぐし口に放り込む。

 おにぎりに負けじと美味い。

 脇を固めるキャベツの千切りが一本一本輝いているように見える。

 こんなのがしたかった。

 妻と子供とこんなことがしたかった。

 校庭の片隅にシートを引いて、妻の手作りの弁当を食しながらみんなでワイワイとやりたかった。

“すごく美味しいです、おにぎりもハンバーグも”と紘子にメールを打つ。

 返信はなかったが黙々と食し、あっという間におにぎりとハンバーグは胃袋に収まった。

 ほうじ茶を喉に流し美味しさの余韻を楽しむ。

 すると、お腹が膨れたのか少し眠くなってきた。

 スマホが震える。

“よかったです。喜んでもらえて”と紘子からの返信が届く。

“実は妻と別れることにしたんです。今日の件も少しは原因なんですけど”

 さらに眠気が襲ってくる。

“えっ、そうなんですか”

“色々あったんで、今度一度話を聞いてください”

“わかりました”

“そうだ、できれば今日みたいに美味しいお弁当を作ってもらってどこかへ行かないですか”

“いいです。こんなのでよかったらいつでもつくりますので”

“ありがとうございます。あっ、すごく眠たくなってきたんで”

“色々なことがあったんで疲れたんじゃないですか。夜は冷えるので必ずタオルケットをかけてください”

“ありがとう”

“それと、窓が閉め切ったままなので、かならず外気取り入れにしてから眠ってください”

“ありがとう、だめだ、ねむい、おやすみなさい”

 スマホを助手席に放り投げるとケンスケは最後の力を振り絞って外気取り入れのボタンを押す。


34

 待ち合わせの時間に少し遅れて着くと美奈はすでに改札に来ていた。

「ごめんごめん、コウスケのやつと出る時間がかぶってもうて・・」

 言い訳を述べながら、お詫びの缶コーヒーをダイスケは美奈に手渡す。

「みなさんでダイスケさんのところで泊まられたんですよね、母が言ってました」

「そうなんだよ、だけど、ケンスケだけは俺の部屋が汚いから言うて、借りてる車の中で寝よったんよ。ほんまええ歳こいていつまでもボンボンなやつやわ」

「そうなんですか」

「それで、さっきのコウスケなんやけど、美奈ちゃんのお父さんの会社を紹介してもらえるいうて、朝から洗面台を占拠して、無精髭剃って、髪、七三に分けて、眉毛までそろえとるから俺が遅れてしまったということです」

「へぇーっ、コウスケさん、そうなんですか?」

「お父さんに聞いてへんかった?」

「ええ、父とはほとんど口を利きませんから」

「そうなんや・・ところで、お父さんの仕事ってなんなん?」

「よくわかんないんですけど、何かの営業だって昔母に聞いたことがあります」

「そうなんや。まあ、コウスケはああ見えてええ大学出てるからええんちゃうかなぁ。俺が言うのもなんやけどそろそろまともな道に行ったほうがええよ」

「そうなんですか。で、ダイスケさんはこれからどうするんですか?」

「痛いとこついてくんなぁ~ 俺はコウスケと違って中卒やし、なんの資格もないから、ケンスケに頼んで親父さんの仕事でも手伝わせてもらおかなぁ・・」

「あっ、来ましたっ、あの子です」

 突然、美奈が指さした方向を見る。

 やはり見覚えのある顔だった。

「すいません、今日はよろしくお願いします」

 美奈と同じ制服を着た女の子は莉子といった。

 三人で改札へつながる階段を上る。

「足のけがはもう大丈夫なんですか」と美奈が莉子に聞こえない声でダイスケに聞く。

「こんなん屁でもないよ。昨日消毒液だけ塗っといた、むっちゃ滲みたけどな」

「そうですか、それならよかったです」

「ところで、今日もカバンの中にはあれは入ってんのん?」

「あれって文鎮ですか?」

「そう」

「当然です、もし、その男が暴れるものならこれですこーんっと」

「そうなんや、たのもしいな」

 ホームに着くと、昨日とは打って変わって、人人人で溢れかえっていた。

「いつもおんなじ車両に乗ってんのん?」とダイスケが莉子に聞く。

「いえ、毎日変えるようにしているんですけど、あとを追って、気づけば横に立っているんです」

「そうなんや」と言いながらダイスケは“俺も同じムジナだった”と心で呟いた。

 ホームに電車が入ってきた。

「これに乗るん?」とダイスケが聞いたとき「あっ、いました、あの男です」と莉子がある男を指さした。

 小太りで、見るからに、と言った感じの男で、見た目二十代後半から三十代前半、その割には頭頂部がすでに薄くなっていた。

 電車の扉が開く。

「さっ、いきましょう」と美奈の掛け声で三人は電車に乗り込む。

 莉子を先頭にその後ろをダイスケが、ダイスケの右隣に美奈が陣取った。

 扉が閉まるとゆっくりと電車が動き出す。

 まだ、満員とまではいかない込み具合だった。

 しかし、次の駅に着くと、降りる乗客がほとんどおらず、代わりに大量の乗客が乗り込んできた。

 あっという間に莉子の背後にダイスケがぺたりと張り付いた。

 そして、いつの間にか、小太りの男がダイスケの左隣に陣取り、さらに、ダイスケと莉子の間に体を潜り込ませようとしてくる。

 ダイスケが小太りを睨む。

 しかし、男は、そんなことなどおかまいなしにぐりぐりと体を押し込んでくる。

 電車が動き出す。

 ダイスケは時折小太りの手元を見る。

 まだ、行動は起こしていなかった。

 目で美奈に合図する。

 美奈はOKと目で返す。

 まもなく次の駅に到着するとアナウンスが流れた時、若干減速がきつくダイスケの体が右に揺れた。

 その瞬間、小太りはまんまとダイスケを押しのけ莉子の真後ろに陣取った。

 電車が次の駅に停車し、すぐに発車した。

 小太りが動き出した。

 右手がにゅ~っと莉子の臀部に伸びる。

 ダイスケは横目で間違いなく小太りの右手が莉子の臀部をタッチしたのを確認する。

 美奈に、よしっと目で合図を送る。

 小太りはいったん莉子の臀部から手を放し、少し間を開けてから二度目のアタックに出た。

 蛇のような右手が莉子の臀部に襲い掛かる。

 今だっ!

 ダイスケの黄金の左手が蛇の頭を捉えたっ、と思った瞬間、莉子が突然後ろを振り返り、蛇ではなく黄金の左手を自らの右手で捉えた。

「この人痴漢ですっ!!」

 怒号が車内にこだまする。

「違うって! おまえ何言うてんねん! 俺ちゃうやろっ、こいつやろっ!」

「私も見ましたっ! この人痴漢ですっ!」

 声を上げたのは美奈だった。

「ちょっ、ちょっ、お前らなに言うてんねんっ!!」

「この人痴漢ですっ!!」

 莉子と美奈は二人でダイスケの黄金の左手をつかみ、車内に高々と掲げた。


35

 待ち合わせの喫茶店にコウスケは約束の時間の三十分前に着いた。

 まだ保は来ていなかった。

 先に着いたら入店しておいてと言われていたので席に着くとアメリカンを注文した。

 朝食を取っておらず少し腹がすいていたが、ここはモーニングを食べるシチュエーションではないとコウスケは判断した。

 アメリカンが供される。

 スーツのポケットの煙草に手が伸びたが、ここはそのシチュエーションじゃないだろうとやめた。

 コーヒーを啜りながらコウスケは保を待った。背筋を伸ばし、スマホもせずに保を待った。

 そして、その保が約束の時間に十分ほど遅れてやって来た。

「おはようございます。昨日は色々とお世話になり有難うございました」

 立ち上がりコウスケは深々と頭を垂れた。

「いえいえ、こちらこそ。あっ、かけてください」

 保に言われコウスケは席に腰を下ろす。

 店員が注文を取りに来た。

「モーニング、ホットで、あっ、玉子はいらないですから」

店員が去っていくと「あれ、モーニング頼まなかったの」と保がコウスケに聞く。

「はい、朝ごはん食べてきましたから」

「そうなんだ」と言って保は煙草に火をつけた。

「あれ?コウスケさん、タバコ吸わないんだ?」

「ええ、昔は吸っていたんですけど・・」

「そうなんだ、今の若い人はえらいよね、酒はあまり吞まないし、タバコも吸わないし」

「そうですかね・・」

「昨日の夜はダイスケさんの家で泊まったんだよね」

「ええ、それが、あいつの部屋、無茶苦茶汚くて、本当に足の踏み場がない状況でして、ケンスケは出て行って、お借りした車で寝たんです」

「そうなんだ」と言って、保は店員が運んできたモーニングのトーストをつまむ。

「僕もどっちかというとケンスケのタイプなんで眠れるかなと思ったんですけど、昨日は色々なことがあって疲れていたのか以外に熟睡できたんです」

「それはよかったじゃないですか。

だけど、コウスケさんの履歴書を改めて見させてもらったけど申し分ないよね」

「いえいえ、そんなたいしたもんじゃ・・」と言ってコウスケは頭を掻く。

「おそらく問題ないと思いますよ」

「そうですか・・ただ、これまでの経歴のことを聞かれると・・」

 コウスケは履歴書には大学を卒業してから今日までをアルバイト、所謂フリーターで過ごしてきたと記載していた。

「大丈夫だよ、もし聞かれても適当に答えておけばいいよ。肝心なのは“今のコウスケさん”なんだからね。同期の総務部長もあまり過去とか気にする奴じゃないから大丈夫だよ」

 保が三本目の煙草を吸い終わると喫茶店を出る。

「ここから近いんですか?」とネクタイの位置を気にしながらコウスケが保に聞く。

「五分くらいです。すごい便利なとこにあるんです。反対側に七、八分歩くと地下鉄もあるので」

「そうなんですか」

「暫くはケンスケさんの自宅に居候させてもらうんですよね」

「はい。自宅があんなんになっちゃったんで」

「ここまではどれくらいで来れるの?」

「一時間かかりません」

「それはよかったね。通勤時間ほど無駄なものはないからね」

 昨日、慌てて、混乱する町に出て購入したスーツ、ネクタイ、革靴、ビジネスバッグが一式で三万円の“就活セット”の革靴で擦れたかかとが少し痛くなってきた頃「あっ、あのビルがそうです」と少し遠くを保が指さした。

「もうかなり古いんですけどね・・」

 そのビルは高さは十階建て程度で確かに年季が入っていたが、ある意味風格のある建物にコウスケは見えた。

 到着する。

 もう一度ネクタイの結び目を確認してふーっと息を吐いて入口の自動扉の前にコウスケが立つ。

「コウスケさん、そこじゃないんですよ、隣、この隣のビルです」

 保が指さしたビルは間口が二メートルもない高さ三階建てとはっきりわかる、吹けば飛ぶような所謂“雑居ビル”だった。

「へっ?」

 口を開けたままコウスケは雑居ビルの細い階段を保と上がる。

「こちらです」

 保が指さした古びた鉄の扉には“ネオ企画”とかかれた白いプレートが張り付けられていた。

「おはようございますっ」と保が扉を押し開け部屋に入る。

 中には、髭面の男が一人と、やたらとでかい胸を強調した赤いニットを着た豚みたいな女がいるだけだった。

「どうぞどうぞ」と髭面がコウスケに部屋に一つだけあるソファを勧める。

「あ、ラムちゃん、コーヒーいれてくれる」

 どこがラム、羊だよっ、どうみても豚だろがっとコウスケは心の中で毒づく。

「いやあ。コウスケさん、話は保から聞いております。素晴らしい大学を出られているうえに前職が“ほんもの”を扱ってらっしゃったと。弊社にとっては非常に心強い限りです。いずれは制作へのアドバイスもお願いしようと思っております」

「い、いや、ちょっ・・あの・・」

「ご存じの通りこの業界も大変でございまして、ネットで簡単に“ほんもの”が見られる時代です。よほどのインパクトのある作品を世に送り出さない限り太刀打ちはできないと思っております。そこで弊社はあのラムちゃんを看板女優として全国展開を進めていくつもりです」

 何の看板だ? とまたコウスケは毒づく。

「そこで、やはり地道な営業活動でファンを増やしていきたいと思っておりますので何卒お力添えをお願いいたします」

 いうと髭面はコウスケに深々と頭を垂れた。

「コウスケさん、おめでとう、採用決定だよ」と満面の笑みを浮かべて保がコウスケに言う。

「いや、ちょっ、ちょっと、待って‥待って・・」

「じゃあ、コウスケさん、早速ですけど、今日、お昼一番から秋田のショップでラムちゃんのデビュー作の販売会とサイン会があるんで同行していただけますか。これ、経費の前渡し分です。十万入ってますんで足りなくなったら立て替えてください。かならず領収書をもらうようにしてください。宛名は有限会社ネオ企画でお願いします」

 言うと髭面は封筒をコウスケに差し出した。

「い、いや、ですから、わ、わたし・・」

「ラムちゃん、コーヒーはもういいよ、時間ないからすぐに準備してコウスケさんと秋田に向かってくれる」


 飛び乗った新幹線が粛々と北へと向かう。

「コウちゃん、お弁当食べるぅ?」

 ラムがコウスケの肘をつつく。

「いえ、まだいいです、あまりお腹が減っていないんで」と言うとコウスケは立ち上がり喫煙ルームへ向かう。

「かーっ、どうなってんだよっ、なんで俺があんな豚と売れもしないエロビデオの販促にいかなきゃならないんだよっ」

 独り言を超えた愚痴に隣の男性にじろりと見られる。

 恥ずかしさを紛らわせるためコウスケはわざとせき込む。

 肘に着いた豚の感触が気持ち悪い。

 スマホを開くと秋田駅まではまだ二時間近くある。あの豚と隣り合わせではきつすぎる。

 何気なくネットニュースを見る。

“有名資産家の息子 離婚話を持ち掛けられ 自殺”

 知ったこっちゃない、そんな根性なしのドラ息子のことなど、と思って他のニュースを見ようとしたときある名前が目に止まった。

 ケンスケの本名だった。

 記事を読むと、妻に離婚話を持ち掛けられたことを苦に、車内で自殺を図った模様。死因は一酸化中毒、車内からは遺書も見つかっているとのこと。

 ダイスケっ、ダイスケっ、

 スマホで呼ぶがダイスケが出てこない、おい、ダイスケっ、どうなっているんだっ、ダイスケっ、でてくれよっ!


36

「死亡推定時刻が昨日の二十時から二十三時の間か・・絶妙ですよね」

「そんなことないです、たまたまです」と無表情で紘子は答える。

「だけど、これで罪に問われないことが決まったんですよね」

「警察も容疑者を追いかけるようなことはしないと思います」と紘子が答える。

「そうですか」と言ってケンスケの妻は少し安堵の表情を浮かべる。

「私、午後から会社に行くので、これで失礼します」

「奥様にはどう言うんですか?」と紘子が男に聞く。

「ナンバーズが当たったくらいにしておきます。少ししてから家族で温泉旅行にでも行きますよ。あとはこれまで通り粛々とサラリーマン生活を送っていきます」

「そう、じゃあお元気で」

 紘子の言葉を受けて男は去っていった。

「紘子さん、ピザでもとりますか? そろそろお昼ですから」とケンスケの妻が聞く。

「大丈夫よ、昨日作ったハンバーグが残っているから家に帰ってそれを食べるわ。せっかく作ったのに旦那が酔っぱらって食べなかったのよ」

「ご主人、かなり呑まれるんですか?」

「もうアル中の一歩手前、どうしようもないの」

「そうなんですか。うちはほとんど家では吞まなかったというか、前にもお話ししましたけどほとんど会話もなかったですから」

「うちも同じようなものよ。娘となんかはうちの旦那はここ何年かろくに口をきいていないから。わたしがかろうじて酔っ払いの話を聞いてあげている、そんな感じ」

「どこもそうなんですかねぇ」

「なかにはすごく仲のいい家族があるらしいけど、私はあんまりべたべたするのは苦手なんで、ある意味心地は悪くないの」

「そうですか・・わたしも本当は子供が欲しかったんです。主人もあのことがあるまでは早く自分の子供が欲しいって言っていて・・」

「子供が絶対にいたほうがいいかってたまに考えるんだけど、まあ、いないよりはいたほうがいいかなって思うわ。小さいときは本当に可愛くて、大きくなるにつれてどんどんと生意気になってはいくんだけど、トータルで行けば、少しだけお釣りがあるかなって」

「主人は何不自由なく育ったんですけど、親の愛に飢えていたんです。ですから紘子さんとのことも、今だから言えるんですけど、スマホを覗いちゃって、会話から年上の方だと思って、従業員の方の履歴書を調べていったら・・」

「そうなのね。やっぱりご主人のことをよくわかってらっしゃったのね。で、これからはどうされるの?」

「少ししてからこのマンションを売って、どこかで一人で静かに生きていこうと思っています。早速、写真週刊誌が来ていて・・離婚を切り出して、夫がそれを理由にして自死して、莫大な遺産が転がり込んできた・・格好のネタですよね」

「そんなの気になさらないでいいですよ。私が言うのもなんですけど、ずっとご主人の浮気に苦しんできた、そう言えばいいんですよ。なんなら、私、顔にモザイクを掛けていただければ、元愛人ということでコメントしますよ」

「ありがとうございます。本当にお願いするかもしれませんからその時はどうぞよろしくお願いします」

「了解。じゃあ、そろそろ帰るわ」

「色々と有難うございました」

「こちらこそ・・で、つかぬ事を聞くけど、あの男とはどうだったの?」

「四年後の今日に話します」

「わかったわ、じゃあ、お元気で」

「あっ、紘子さん、これを・・」

「忘れていたわ、これが残っちゃうと私たちの計画はパーですものね」

 紘子はケンスケの妻から受け取った“離婚届”を目の前でびりびりに破いた。

「これでいいよね。じゃあ、お幸せに」と紘子が言う。

「ところで、紘子さんはこれからどうされるんですか?」とケンスケの妻が聞く。

「そうねぇ、ご子息を失くされたご両親からの感謝のお礼金が入ったということでオリンピック観戦にでも行ってくるわ」

「そうですよね、今年はうるう年ですもんね」

 ケンスケの妻の言葉に「四年に一度のね」と言って紘子が笑う。


         了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そんな国じゃなかった @miura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ