夢幻泡影

楠木夢路

第1話

 目を覚ますと、僕は見知らぬ部屋にいた。

 真っ白な天井と真っ白な壁。周りを見ようとして、身体が動かないことに気がついた。声を出すことさえできない。いったい何が起こったんだろう。もしかしたら、まだ夢の中にいるのかもしれない。

 現実と夢の区別がつかないまま、ぼんやりとしている頭で記憶をたどってみる。

 帰省するために、夜行バスに乗ったことは覚えている。

 高速バスは格安で、学生の僕にとってはありがたいし、何より寝ている間に移動できる効率の良さが気に入っていた。小さなバス会社だったから少し心配していたが、バスは思っていたより見栄えがよかった。

 僕の席は、運転手のすぐ後ろの窓際だった

 隣に座った同世代の男は旅慣れた様子で、すぐにアイマスクをつけて寝てしまった。バスの揺れは心地よくて、僕もあっという間に眠りに落ちた。

そう、そこまでは確かに覚えている。

 でも、その後の記憶があいまいで思い出せない。仕方がないから諦めて、周りを観察することにした。とはいえ、見えるのは目の前の真っ白な天井と壁だけだ。天井までの距離を考えると、どうやら僕はベッドの上に横たわっているらしい。

 今度は耳を澄ましてみる。耳元のあたりで、規則正しい機械音が聞こえる。聞き覚えはあるのだが、何の音だかわからない。他にも何か聞こえないかと、僕は必死に聞き耳を立てた。

 そのとき、扉が開く音がしたかと思うと、人の気配がした。誰かが部屋に入ってきたようだ。カチャカチャという金属音に混じって、話し声が聞こえてくる。

「それにしても今回は何とも言えないですよね」

「まあな。こんなに若いんじゃあ、やってられないよな」

 どちらも聞き覚えのない声だった。

「あれだけの事故で、この状態は奇跡的ですよね」

「バスの後ろ半分は大破したらしいからな。かわいそうに、後部座席の人のほとんどは押しつぶされてて、悲惨だったらしいぞ」

 事故……? 男たちの会話を聞きながら、おぼろげな記憶をたぐり寄せる。

 そう言えば、さっきまで夢を見ていた。どーんという大きな音と衝撃。あちこちから悲鳴が聞こえた。僕の身体は大きく宙を舞って……そう、頭を打ったんだ。あれは夢じゃなかったのか。僕の乗っていたバスが事故を起こしたってことなのか。

 だとしたら、きっと、ここは病院だろう。そんな大事故に巻き込まれても気がつかずに寝ていたとしたら、僕はなんて間抜けなんだろう。とにかく、僕は奇跡の生還者ってことらしい。

「そういえば、山本は初めてなんだよな」

「ええ、実はかなり緊張しているんですよ。中田さんはベテランだから、余裕ですよね」

「そうでもないよ。執刀のときは安藤教授がついてくれるから安心なんだ。今日は見学するだけなんだろう?」

「そのつもりだったんですけど、さっき安藤教授にお会いしたら、後学のためにメスを握っても構わないって……」

 こいつはまだ研修医らしい。声を聞いているだけでも、緊張感が伝わってくる。

「良かったじゃないか。どんな優秀な外科医でも、最初から優秀だったわけじゃないんだ。誰でも最初は緊張するさ」

 この状況からいって、手術を受けるのはたぶん僕なんだろう。

 男たちは、のんきに話しているが、研修医の練習台なんて冗談じゃない。不安に思っていると、割り込んできた声がとんでもないことを言い出した。

「俺も、最初に執刀したときは緊張したな。おかげで切らなくていいところまで、ザクザク切っちゃってさ、こっぴどく怒られたよ。はははっ」

 ザクザクって……これは本当に医者の会話なのか?怒られたって、その程度の話じゃないだろう。僕の意識が戻ったことに気がついていないにしても、患者の前でこんな話をして、能天気に笑っていられる無神経さに腹が立ってくる。文句の一つも言いたいところだが、やっぱり、動くことはできない。黙って聞いていることしかできないのが情けない。

「笑い事じゃないだろ。だいたい、斉藤は大ざっぱすぎるんだよ」

 僕の気持ちを代弁したような、痛快な突っ込みだった。諭されたことが面白くないのか、斉藤は不服そうな声で言い返した。

「中田が神経質すぎるんだよ。お前みたいに、ちまちま切ってたら、いつまで経ってもオペは終わらないじゃないか。この仕事はスピード勝負なんだからさ」

「神経質じゃなくて、慎重って言ってくれないか。お前は早いだけが取り柄だろ。いくら早くても臓器に傷つけたら、最悪じゃないか」

 なんてことだ。無神経なだけじゃなく、不器用な医者なんて……最悪だ。臓器に傷をつけるようなやつに切り刻まれるなんて、考えただけでぞっとする。こんな面子に手術をされるなんて、ついてない。奇跡の生還をしたせいで、僕は運を使い果たしてしまったのかもしれない。

 だんだん不安になってくる。

 不意に、白衣を着た、いかつい感じの男が、僕の目の前に姿を現した。

「いいんだよ。腕なんか良くなくっても。どうせ、こいつは……うわぁ」

 どうやらこいつが斉藤らしい。僕の顔を見たとたん、斉藤は大きな声を出しながら、後ろにのけぞった。その声に誘われるように、神経質そうな細身の男が現れて、意地悪そうな顔を斉藤に向けた。

「何、ビビってんだよ。よくあることじゃないか」

「わ、わかってるよ」

 斉藤が僕の目の前に、手の平を出した。ひらひらと振りながら、僕の目をのぞきこんでいる。他の二人も、そんな斉藤を注意するわけでもなく、無遠慮に僕を見つめている。なんて失礼な奴らなんだろう。腹が立って仕方がないが、文句も言えない。抗議と怒りを込めて、僕は男たちを睨みつけた。ところが誰も意に介する様子もない。こいつらはいったい何を考えているんだ。

「どうしましょうか。中田さん」

「このままにはしておけないな。閉じておこうか」

 そう言いながら、中田が僕のまぶたに手を伸ばした。触られている感覚はない・一瞬、暗闇に覆われたが、視界はすぐに元通りになった。

「何なんだよ」

 今度は斉藤が僕のまぶたを閉じようとする。でも、僕のまぶたはまたすぐに開いた。かといって、僕の抵抗が功を奏したわけじゃない。僕の身体は相変わらず、僕の意思に従う気はないらしい。まるで、身体だけが僕から切り離されてしまったみたいだ。

「仕方ない、このままにしておこう。まだ準備も残っているし」

 男たちは頷き合って、部屋を出ていってしまった。


 いつの間にか、眠ってしまったらしい。

 扉の開く音で目を覚ますと、また誰かが部屋に入ってきた。

 さっきの三人の男たちと一緒に、今度は見知らぬ男がもう一人。他の男たちと同じように白衣を着ているが、目尻や額に深い皺が刻まれている所を見ると、かなり歳上のようだ。まるぶちのメガネをかけているせいか、穏やかで人がよさそうに見える。この人がさっきの会話に出てきた教授なのだろう。

「この目は、君が開いたのかね」

 やっとまともな医者が現れたと、僕はほっとした。

「いや、いつの間にか開いていたんです。閉じようとしたんですが……」

 彼は、じっと僕の瞳を見つめた。僕も彼を見つめ返した。僕は彼が言葉をかけてくれるのを待った。だが、彼は僕を見つめてたまま、何も言わない。じりじりと不安な気持ちが押し寄せてくる。ちゃんと目が合っているはずなのに、どうして無視されているのだろう。

「まあ、いい。では始めようか」

 始めようかって、何を始めるんだ。まさかこのまま手術をするわけはない。手術の手順なんてわからないが、でもさすがに麻酔くらい使うはずだ。何の説明もないまま、男たちは僕を取り囲んだ。

「ではこれより二回目の脳死判定を開始します。患者は佐々木圭介、二十歳の男性。現在の体温三十六度、血圧百二十、心拍数七十八」

 僕は混乱していた。体温とか血圧とか心拍数をはかるってことは、ちゃんと生きているってことだ。なのに、なんで死の判定なんかする必要があるんだろう。

 そもそも、脳死ってなんなんだ。言葉は聞いたことはあるが、普通に死ぬことと脳死とどこが違うっているんだろう。脳死だって『死ぬ』ってことなんじゃないのか?生きているのに死んでいることにされてしまうのか?

 男のひとりが小さなペンライトのようなものを取り出して、僕の瞳に光をあてる。眩しさは感じるのにどうにもならない。まぶたを閉じることができないから、ただされるがままで、ひたすら我慢するしかなかった。

「瞳孔は散大。対光反射、なし。角膜反射、なし」

 言い終わると、彼はようやくライトをしまって、今度は視線を僕の枕元に向けた。

「脳波はフラット。脊髄反射、前庭反射、喉頭反射も消失が確認できました」

 何を言っているのか、さっぱり理解できない。ただ、消失という言葉だけが耳に残った。僕の身体はちゃんと機能していないだろうのか。それで、脳死だと疑われているのか。確かに、今の僕は自分のからだを操ることはできない。だからと言って、このまま死人にされてしまうなんて理不尽だ。でも僕は死んでなんかいない。ちゃんと意識があるんだ。心の中でいくら叫んでも、誰にも届くことはない。

「無呼吸テストのため、十分間、人工呼吸器を外します」

 僕の口元から酸素マスクが外された。人工呼吸器を外されたら、本当に呼吸が止まってしまうかもしれない。これで死んでしまったら、殺人じゃないか。

 沈黙の中で、規則的な機械音だけが響いていた。

 僕はまだ、たったの二十年しか生きていない。僕の人生はこれからのはずだった。特別な才能なんかないし、出来がいいわけでもない。どこにでもいる普通の大学生だ。たいした夢なんかないけど、これからの人生に希望がなかったわけじゃない。

なんで僕がこんな目に遭わなくっちゃいけないんだ。これじゃあ、死の宣告を待っている死刑囚だ。でも、僕は悪いことなんかしていない。

 たった十分間が、途方もなく長い時間に感じられた。

「自発呼吸なし。聴性脳幹反応の結果も踏まえ、脳死状態であることを確定します」

 脳死という言葉が、頭の中でこだまする。僕は、死人にされてしまったのだ。

 こんな風に終わってしまうのか。こんなことで、僕は生死を決められてしまうのか。やり場のない怒りが僕の身体中を駆けめぐる。それでも、僕は身動き一つできない。こんなのは嫌だ。死にたくなんかない。これは夢だ。きっと悪い夢に決まっている。やめてくれ、誰か助けてくれ。僕は心の中で必死に祈った。

「ご家族はまだかね?」

 安藤の声にはっとした。そうだ。両親になら、僕の声が届くかもしれない。いくら脳死だと言われても、僕の目をちゃんと見てくれる。そして、僕が生きていることをわかってくれるはずだ。わずかな希望が僕の心に湧いてきた。

「そろそろ着く頃だと思いますが……」

「では到着したら、まず、私から状況を説明しよう。事故の知らせを聞いて、ただでさえ、動揺しているだろう。おまけに、もう回復の見込みがないとなればなおさらだ」

「そうですね、安藤先生がお話ししてくだされば安心です。臓器提供の話もそのときにされるんですか」

「いや、それは後にしよう。とにかく任せておきなさい。それから、ご家族が到着する前に、その目は閉じておいた方がいいね」

「わかりました」

 中田の手の平が、僕の顔の前に伸びてたかと思うと、僕の目を閉じた。今度は、さっきみたいに目が開くことはなかった。僕のまぶたは、とうとう抵抗を辞めてしまったらしい。目の前が真っ暗になったことで、僕は動揺した。

 男たちが出ていってひとりきりになると、僕はひたすら考えた。

 もしかして、僕はもう死んでいるのだろうか。そんなバカなことがあるわけがない。死んだ人間が、見たり、聞いたり、考えたり、そんなことできるわけない。それじゃまるで低俗なオカルト映画じゃないか。

 そこまで考えて、僕はふっと怖くなった。生きたまま、埋葬されてしまった男の話を思い出したのだ。話してくれたのは、確かオカルト好きの友人だった。どうせ新しい都市伝説でも仕込んできたのだろうと、僕は相手にしなかったのだが、友人は真顔だった。

「嘘じゃないよ。そういうことが実際にあって、ゾンビとか吸血鬼の伝説が生まれたって言われているんだ」

「でも、それは大昔の話だろ。今だったら、そんなこと有り得ないよ。たいだい、今どき埋葬なんてしないんだろ」

「確かにそうかもしれないけど……。でも、火葬されるほうがもっと怖いじゃないか。ある日、気がつくと知らない場所にいる。人ひとりがやっと横たわることができるくらいの小さな箱の中。目の前までせまった壁の、ちょうど顔の辺りには小さな扉がついているんだ。その箱の中に、お前は真っ白な着物姿で寝かされている」

「お前って……なんだよ。悪趣味だな」

 僕が渋い顔をしたことで、友人はますます調子に乗ってしまったらしく、興奮して、唾を飛ばしながら話し続けた。

「お前は自分が棺桶の中にいることに気がついて、何とか外に出ようともがくんだ。でも固く閉じたふたはピクリとも動かない。そのうち、だんだん熱くなって、木の焼ける匂いが棺桶の中に充満してくる。煙で息が苦しくなったお前は『助けてくれ』って何度も何度も叫ぶんだ。でも、もちろん助けなんかこない。暴れるお前はそのうちにじりじりと炎に包まれて……」

 最初はバカにしていたが、真剣な顔でとりつかれたようにしゃべる友人の話にいつの間にか引き込まれてしまった。棺桶に押し込まれたまま、誰にも気づかれずに炎に包まれていく。想像して、背筋に寒気が走った。

 あのときは有り得ない話だと思ったが、もしもこのまま死人扱いされたら、現実になってしまうかもしれない。そんなことが自分の身に起こるなんて、思いもしなかった。オカルト映画よりたちが悪いじゃないか。まるで、悪い夢をみているようだった。いや、僕はまだ夢を見ているのかもしれない。もしかしたら、夢から抜け出すことができずにいるだけかもしれない。

 とにかく冷静になろうと、自分に言い聞かせる。

 これが悪夢じゃないとしたら、ちゃんと生きているってことを伝えなきゃ、本当に生きたまま、焼かれてしまうかもしれない。でも、動けない身体でどうしたらいいんだろう。目が開いていればまだしも、視界を奪われたことは致命的だった。

考えているうちにまた眠くなってしまった。ずっと神経を張りつめていたから疲れてしまったのかもしれない。

 眠ってしまうのは怖い。このまま眠ってしまったら、僕は本当に死んでしまうんじゃないか、そんな気がした。必死に抵抗してみたものの、結局、僕はまた深い眠りの中に引きこまれてしまった。


「圭介、圭介」

 遠くで僕を呼ぶ声がする。聞き覚えのある懐かしい声……これは母親の声だ。耳元ささやく母が、僕の意識に直接、響いてくる。

「残念ですが、息子さんは脳死状態です」

「脳死ってどういうことですか、圭介は生きているのでしょう」

 父の声も聞こえる。誰と話しているのだろう。とにかく、会話を聞き取ろうと、僕は必死に耳を澄ました。

「確かに肉体的には生きています。ただ、もう意識はありません。脳の機能は完全に停止しているのです」

「植物人間ってことですか」

「いや、そうじゃありません。植物状態の場合は、意識はなくとも身体の機能を司る脳幹は正常に働いています。しかし、息子さんの場合は、脳幹も、もはや機能していません。息子さんが意識を取り戻すことはないでしょう。人工呼吸器をつけてはいますが、遅かれ早かれ、心臓は停止してしまいます」

「何とか助けてください」

「手は尽くしましたが、これ以上できることはありません」

 僕はもう助からないのか。そんなこと、納得できるわけがない。もしも僕の身体が正常ならば、怒りで顔を真っ赤にしていたことだろう。だが、そんな変化が起きていないことは容易に想像がついた。

 意識がないなんて、冗談じゃない。僕のことは、僕が一番よくわかっている。こんな状況におかれたことがない奴に、何がわかるって言うんだろう。知ったような風を装って、僕を死人扱いするなんて絶対に許せない。こんな理不尽なことがあっていいんだろうか。

「そんな……いやっ」

 泣き崩れる母の声が聞こえた。

「しばらく、わたしたちだけにしてもらえませんか」

「わかりました」

「ありがとうございます」

 父の声は静かだ。母はまだむせび泣いている。たとえ、見ることができなくても、僕は部屋の中の情景を思い浮かべることができた。ベッドに寝ている僕にすがって、泣き崩れている母。父はその母の肩にそっと手をのせていることだろう。

(僕は生きている、生きているんだよ)

 僕は心の中で必死に叫んだ。聞こえるわけがないのはわかっていた。わかっていても、爆発する感情を抑えられない。どうしたらわかってもらえるんだろう。すぐそばにいるのに思いが伝えられないことが、こんなにもどかしいなんて思いもしなかった。

「わたしは信じない」

 さっきまで泣いていたとは思えないほど、凛とした声で母が言った。

「何言ってるんだ。今の話を聞いていただろう。圭介はもう……」

「いいえ。圭介はまだ、ここにいる。死んでなんかいないわ。たとえわずかでも可能性があるのなら、わたしは奇跡を信じる」

「そりゃ、わたしだって信じたいよ。信じたいが……」

「この子はきっと目を覚ます。きっと」

 母の言葉が、僕の胸にずしりと響いた。昔から、母は人一倍、思い込みが強いのだ。

 世の中はもともと不公平なものだ。頑張ればうまくいくってわけじゃないし、努力したって自分の能力なんてたかが知れている。奇跡なんて起こるわけないし、どんな誠意をもってしても、願いは叶うとは限らない。そんなもんだと割り切って、目の前の現実を受け入れるしかない。僕はそうやって、物事を頭で考える性質だった。

 でも、母は違う。どんな時も信じてさえいれば、願いはかなうと思っている。僕はそんな母を、心のどこかで愚かだと思っていた。でも、今は愚かなほどまっすぐな母の思いだけが頼りだった。

「わたしだってそう思っているよ。でも、覚悟はしておいた方がいい」

 僕が父の立場でも、きっと同じことを言っただろう。父と母の性格は、正反対だった。僕には、父が目の前の現実を受け入れるしかないと思っているのがわかった。父には反発ばかりしていたが、やっぱり僕は父によく似ている。こんな風になって初めて、そんなことに気がつくなんて、僕はやっぱり間抜けだ。

「覚悟って……この子は生きようとしているのよ。この子の身体が、この子は全身で生きていることを訴えかけているじゃない。あなたにはわからないの?」

 母の問いかけに、父が答えることはなかった。目を閉じて横たわる僕は、父にはどう見えるのだろう。もう二度と、動くことも話すこともできない僕を見て、何を思っているのだろう。父は寡黙で、自分の感情を表に出すことは少なかった。でも、決して冷たい訳じゃなく、僕のことを大切に思っていてくれていたことを、僕は知っている。もっと、父と話をしたかった。母に優しくしておけば良かった。後悔ばかりが胸をよぎる。

「ずっとそばにいるから。大丈夫だからね」

 すぐそばで母の声がした。感覚が失われているはずなのに、なぜか温かい。きっと母が僕の身体に触れているのだと、そんな気がした。

 このまま死にたくなんかない。もっと、もっと生きたい。僕は死んでなんかいないんだ。奇跡でもなんでもいいから、もう一度、人生をやり直させてくれ、僕は心からそう祈った。でも、どんなに祈ってもどうにもならない。ただ、微かに感じる温もりだけが、今の僕にとっての唯一の希望だった。


 あれからどれくらいの時間が経ったのかわからない。

 僕の意識は、寄せては返す波のように、夢とうつつを行ったり来たりしている。自分が起きているのか、夢を見ているのかさえ、もう区別がつかない。

 耳元でささやく母の声が、かろうじて、僕を現世につなぎとめていたのかもしれない。母は飽きることなく、僕に語りかけた。

 僕が産まれた日のこと、幼い頃の思い出、何気ない日常の中のあらゆる場面。僕自身が忘れていたことでさえ、母は詳細に記憶しているらしかった。けれど、そんな思い出さえも、まるで夢のかけらのような現実味のない風景になって、僕の意識の中を流れていくだけになってしまっていた。

「そろそろ時間がありません。考えていただけましたか?」

 聞き覚えのある声だ。でも、誰の声だか思い出すことはできなかった。

「身体に傷をつけることには抵抗があるかもしれませんが、息子さんの臓器で命を救われる人がいるのです。臓器提供をすれば、息子さんの身体の一部はその人に命を繋ぎ、その人とともに生きつづける。息子さんだって自分の尊い命がこのまま消えてしまうより、意義のある自分の生き方に満足されるかと思いますが、いかがですか」

 霞がかかったような僕の頭では、話の意味をちゃんと理解するのは難しい。ただ、もう残りの時間が少ないことだけは何となくわかった。

 微かな温もりを感じながら、このまま夢の狭間に墜ちていくのなら、それも悪くない。

「あっ」

 母が大きな声で叫んだ。

「涙が……。お父さん、見て、ほら圭介が、圭介が泣いてる。」

泣いたつもりはなかった。僕の身体は、最期の力を振り絞って、僕の意思を伝えようとしたのかもしれない。

「お母さん……それはただの生理現象で、よくあることなんです」

「でも、この子は全身で生きていることを訴えてくるんです」

「気持ちはお察しします。だが、このままでは息子さんも辛いだけです」

 答えるかわりに父も母も嗚咽を漏らした。二人は僕の死を受け入れたのだろう。

 僕の思いはもう誰にも届くことはない。絶対的な孤独の中で、僕はたったひとすじの光さえ失ってしまったのだ。

 こんな風に人生が終わってしまうなんて想像もしていなかった。僕は何のために生まれてきたのだろう。

 さっきまで聞こえていた両親の泣き声も、今はもう聞こえない。

 また遠くで誰かの声がする。

「まだ早くないか?」

「ええ、でも安藤教授が承諾を得たんだから早い方がいいって」

「やりきれないよな」

「本当に感覚はないんでしょうか?海外では脳死判定をされていても、麻酔を打つんですよね。それって、感覚があるってことじゃないんですかね」

「そんなこと知るもんか。意識がないんだから、どうせ、何も感じないさ」

「だとしても、僕だったら、遠慮願いたいですね」

「俺だって、嫌だよ。ドナーになんか、絶対ならないね」

 もうすぐ、僕のこの身体は切り刻まれてしまうのだろう。かすかな温もりさえも、今はもう感じることができなかった。

「あっ、また涙が……」

「やめてくれよ。見てみろよ、額の汗。これを見ていると、自分が人を助ける医者じゃなくて、人の身体を切り刻む殺人鬼にでもなった気がしてくるよ」

「何、言ってんだよ。これは人の命を救うためなんだ。そのための犠牲なんだよ。尊い命を繋ぐための行為なんだ」

 僕の死に、意義があるのかどうか、なんてわからない。誰かの命が助かるとしたら、僕の死に、意味はあるのだろうか。

 そのうち、何も聞こえなくなった。形あるものは何もない。あるのは、どろりとした質感の虚空だけ。僕はその中を、ゆらゆらと漂っている。

 僕はこれからどこへ行くのだろう。生と死の境界はどこにあるのか。これが夢なのか、それとも現実なのかさえ、もうわからない。次に目覚めることができたとしたら、僕は僕であることができるのだろうか。

 消えてゆく僕の意識は、何もない空間をゆっくりと堕ちていく。そこには、ただ暗くて深い闇があるだけだった。

 

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