第3話 ほとばしる汗と栄冠

隼人はウインブルドンセンターコートに立って、ラケットを持つ左手を高く掲げると、空を見上げ声高らかに雄叫びを挙げた。テニスの四大大会で連勝を重ねる世界の覇者ミロビッチを4-6、6-4、6-3、7-6で破って決勝戦を勝ち抜き、遂に世界王者としての栄冠を勝ち取ったのである。そして、センターコートはこの新しい東洋の無名の王者出現に驚きと喝采に包まれた。

隼人のラケットさばきは柔らかでしなやかだが、その左腕から繰り出されるサーブとスマッシュは強烈で、目にも止まらぬ速さで相手の胸元に突き刺さるのである。


出た!『隼スマッシュ』

隼人が2セットを連取してゲームカウント7-6で迎えたマッチポイント、彼はほとばしる額の汗をリストバンドで丁寧に拭うと、手にしたボールに魂を込めて空高く放った。すると、バネのようなしなやかな身体から繰り出されたラケットの軌跡はそれを的確に捉え、矢のようなサーブが容赦なく相手のコートに突き刺さったのだ。非常に高い守備力を誇るミロビッチではあったが、隼人の打った強烈なファーストサーブがミロビッチを襲うと、苦し紛れで拾ったリターンは高く大空に弧を描き、それは隼人のスマッシュの餌食となるのだった。ボールはセンターコートの芝を滑り、ミロビッチの右脇をかすめてコートから消えた。


隼人の幼い頃、テニスに転向する前は、学校や少年チームでサッカーやバスケットボール、バレーボールなど様々なスポーツにも興じていたが、彼は何をしても万能なタイプだったようだ。彼の柔軟な身体と持って生まれた運動能力、ボールのコースを読む予知能力は卓越していた。彼は中学に入ると、試合でそれを見出した有名なテニスプレイヤー松山のスカウトを受け、松山の指導するテニスアカデミーに入部する。そして、全国大会に出場し、連戦連勝の日々が続いた。

ところが、激しい練習と過密する試合の日々に身体を酷使したためか、左肘を疲労骨折してしまう。隼人の入院生活は3カ月ほど続いた。隼人の骨折も癒えてリハビリを行い出した頃、同じく入院していた一人の女性と出会う。彼女の名は茉莉(まつり)と言った。茉莉は交通事故で両足を骨折して通常なら一生車椅子生活を余儀なくされるはずだったのだが、彼女の不屈の精神は再び自らの足で歩くことを切望した。そして、担当医師もそれを応援してくれ、それからというもの、辛く厳しいリハビリの日々が続いていたのだ。隼人はリハビリの時間に倒れてもまた立ち上がり自ら進もうとするそんな彼女のひたむきな姿を目の当たりにして、何よりも勇気づけられた。


「少し休みませんか?」

隼人が思わず声をかけた。

「ありがとう。でも、あと少しで向こう側まで歩けそうなの。隼人君、先に休憩してて。」

茉莉は隼人の活躍を知らないようだった。彼女は彼を有名なテニスプレイヤーとしてではなく、挫折から立ち直ろうとする意志を自分と共有する同志として接していた。

「じゃあ、僕、先に休ませてもらいますよ。飲み物でも注文しておくね。茉莉さん、何がいい?」

「私、アイスカフェオーレ。お願い。」

「OK。」

隼人は、リハビリルームの傍らにある喫茶スペースで一休みする。大変な状況にあるにもかかわらずそんなことを全く感じさせない屈託のない彼女の笑顔が隼人には何よりの憩いとなっていた。

彼はアイスカフェオーレとアイスティを注文すると、振り返って窓越しに彼女の横顔をもう一度確認した。そこには渾身の力を込めてゴールに辿り着いたばかりの彼女の笑顔があった。彼はすっかり回復した左手の親指を上に伸ばしてジェスチャーで祝福し、車椅子を持って彼女を迎えに行った。

「茉莉さん、おめでとう!頑張ったね。」

「ありがとう、隼人君。あなたのお陰よ。」

そう言った彼女の目には光るものが溢れて、それが頬を伝って落ちた。

初めてかも知れない。彼女が隼人に涙を見せたのは。

「そんなことないよ。茉莉さんが頑張ったからさ。」

隼人はそう言って彼女の涙をタオルで拭った。

「早く行かなきゃ。飲み物が温くなっちゃうわね。」

「ちょうど飲み頃じゃないかな。じゃあ、座って。」

茉莉を車椅子に乗せ、隼人がいつものように優しく送り出すと二人は喫茶スペースに向かった。


それから一か月ほど経った頃、茉莉は松葉杖を突きながらもしっかりとした足取りで病院を後にし、既に退院して練習に復帰していた隼人に会いに行った。隼人は、控えめにネット越しに遠くから眺めていた茉莉を目ざとく発見すると、彼女の手を取りコートの傍に連れて行き、コーチや仲間たちに紹介した。


それからというもの、隼人の破竹の連勝は続いた。そして、コートの応援席にはいつも茉莉の姿があった。

隼人がテニスの世界ランキングでトップ10入りを果たしたのは、それから3年後である。そして、遂にウインブルドンセンターコートで彼の優勝を目にすることになるのである。勿論、観客の中には茉莉の応援する姿があった。

優勝インタビューにおける彼の流暢な英語スピーチの中には、茉莉への感謝と求愛のメッセージが綴られていた。

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