猿の恋

ねじまき

猿の恋

 最近、自分の名字をよく忘れる。下の名前はちゃんと思い出せる。そりゃそうか。マイ、というのが私の下の名前。でもなんでか、名字だけ思い出せない。馬鹿にされるから弟に訊くわけにもいかないし、真剣に心配されるからお父さんに訊くわけにもいかない。制服についているネームプレートや、教科書に書いてある上と下の名前から、「あ、そうだ。私の名字は伊藤だ」ってようやく思い出せる。

 

 名字が思い出せなくなったと気付いたきっかけは、私が学校でテストを受けた時だ。一番最初に名前を書く時に、あれ、私の名字ってなんだっけ、となった。テスト自体はそんなに難しくなかったが、自分の名字を思い出すので一番苦労した。その日は私が日直だったため、黒板には「日直:伊藤マイ」と書いてあって、それでようやく思い出せた。でも、なんだかカンニングしたみたいであまりいい気持ちではなかった。

 

 名字を思い出せないことで、真剣に困ってきたので、私は思い切って担任の先生に相談した。

「実は最近、自分の名字が思い出せないんです」と私は言った。

 先生は私の言っていることを飲み込むのに少し時間がかかったようだった。パッと見てなにも変じゃないのに、どこか引っかかるところのある絵を見ているような顔をしていた。

「だから最近、テストで名字を書いていないんです」と私は説明を付け足すように言った。私はもう日直じゃないし、なんだかカンニングしたみたいでいい気持じゃなかったことから、テストの名前には名字を書かず、「マイ」としか書けなくなっていた。

 それでようやく理解したかのように、難しそうな顔が緩んだ。

「なるほど」と先生は言った。「それは困るね」

「困るんです」

「でも正直、私には分からないな。名字が思い出せなくなったなんて生徒はいままで見たことないし。お父さんには言った?」

「いや、まだ言っていないです」

 お父さんはお母さんが死んでから、少し心配性になった。私が水を飲んで、その水が変なところにいって、ゲホゴホ咳をした時も、お父さんは私をすごく心配した。大丈夫か? どこか調子の悪いところはないか? って。ううん、水を飲んだら変なところにいっただけ、と私は言った。多分、お母さんが死んだことで、死について敏感になったのだろう。

「まずはお父さんに話してみるといいよ」と先生は言って、それからちょっと困った顔をした。「ごめんね、せっかく私に相談してくれたのにね、何もアドバイスできなかった」

「いえ」と私は短く言った。

「まずはお父さんに話すことだね」と先生は繰り返した。


 お父さんに話すのは少し憂鬱だった。心配性になったお父さんに、名字が思い出せなくなったと言ったら、なにか精神的な問題が起きたのではないかと大騒ぎしそうで。私はリビングで新聞を読んでいるお父さんにこの事を話そうか葛藤して、冷蔵庫の中を開けたり閉めたり、意味もなくお湯を沸かしたりした。でもいつまでもこんな事をしているわけにもいかない。

「ねぇお父さん」と私はお父さんとちょっと距離を置いて言った。

「どうした?」とお父さんは言った。

「最近ね、名字が思い出せなくなったの」

 案の定お父さんは騒いだ。ひどく動揺しているようで、視線がなかなか合わず、椅子から何度も転び落ちそうになっている。なにか喋ろうと口をパクパクしているが、音が出てこない。私はさっき意味もなく沸かしたお湯でお茶を淹れた。

 お父さんは、いや、お父さんも、お母さんが死んだことは相当ショックだったのだろう、と私は改めて感じた。私のお母さんはつい最近死んだ。とても静かな死に方だった。あまりに静かだったものだから、私達は最初眠っているのかと思った。でも死んでいた。お母さんが死ぬ前のお父さんは、いつもクールで、何事にも冷静に対応していた。私が一度、ちょっとした事故にあったときも、お父さんはまるでその物事を観察しているかのように冷静だった。そんなお父さんがいまや、名字を思い出せないと言っただけで取り乱してしまう。

 でも別に、そんなお父さんが嫌な訳では無い。もちろん心配されすぎるのはちょっと、ううんといった感じだが、子供ながらにお母さんを愛していたんだなと思う。

「精神的な問題があるんじゃないか? 今度病院で診てもらおうか?」とようやく落ち着いたお父さんが言った。

「うん」と私は言った。正直診てもらうのはあまり乗り気ではないが、仕方がない。


 カウンセリングを受けることになった。話を聞いてくれるのは、40代くらいのキリッとしたカウンセラーだ。時々メガネをかけたり外したりする。字がものすごく汚い。

「こんにちは」と部屋に入った私は言った。

「はいこんにちは」とカウンセラーは言った。

 椅子に腰を下ろし、カウンセラーと向かい合う。私はちょっと居心地が悪くなって、椅子の座り心地を確かめるかのように軽く座り直した。

「名字が思い出せないんだってね」とカウンセラーは言った。

「はい」

「そんな人、正直見たことないね。純粋に忘れているわけじゃないんだろうけど、困るね。なにか心当たりはある?」

「特にありません」と私は言った。

「お父さんの話によると」とカウンセラーは言って、メガネをかけた。「お母さんが死んじゃったらしいね」

「はい」

 しばらく沈黙があった。私は視線をうまくカウンセラーと合わせることができなくて、あたりをキョロキョロとしていた。カウンセラーはうんうんと頷いた。

「とりあえず」とカウンセラー言って、メガネを外した。「なんでもいいから頭に浮かんだことを話してみて」

 私は頭に浮かんだことを何から何まで、できるだけ正直に話した。その間、カウンセラーはずっと黙って、頷きながら聞いていた。時々質問をして、私はそれに答えた。そんなことを30分くらい続けた。

「ところで、お母さんの名前がついたものってある?」とカウンセラーは言った。

「分からないです」

「家に帰ったら探してみて」とカウンセラーは言った。そこでその日のカウンセリングは終了した。


 私は家に帰ってお母さんの名前がつくものを探してみた。けれどなかった。学校じゃないんだし、いちいちノートや本に名前を書いたりしない。でも、それにしてもない。次のカウンセリングで、私はその事を話した。

「お母さんの名前がつくものはなかったです」と私は言った。

「なるほど」とカウンセラーは言った。「ちょっといま私ピキーンときたわ。ちょうど電球が頭の上にあるような。また次回来るときには、とっておきのものを用意できると思う」

「は、はぁ」と私はよく分からず言った。


 次カウンセリングを受けに行った時、部屋にはカウンセラーと、猿がいた。猿? 私は呆然として立ち尽くすんでしまった。

「はいこんにちは」とカウンセラーは平然と言った。

 私はうまく喋れなかった。多分口がだらしなく開いているだろう。

「こんにちは」としばらくしてようやく私は挨拶をできた。

 椅子に座り、カウンセラーと猿を見た。カウンセラーは相変わらずキリッとした目つきで、口元はまるで勝利の笑みのような、そんな形をしていた。猿は、見るからに猿だ。黄金色の毛がふわふわと体を包んでいて、顔は赤い。椅子の上に座って乗っている。まるで悪いことをした小学生のような表情をしている。私が目を合わせようとすると、猿は視線をずらした。

「この猿について説明をしたほうがいいね?」とカウンセラーは言った。

 私は頷いた。突然猿が出てきたら、誰だって説明が欲しくなる。

「この猿はね、あなたの名字を奪った犯人なの」とカウンセラーは言った。

「え?」

「つまりね、あなたが名字を思い出せなくなった理由は、この猿があなたの名字を奪ったからなのね」

 何を言っているのかよく分からい。言っていることは分かるのだけれど、それが何を意味するのか分からない。私は猿を見た。相変わらず猿は目をそらした。

「名字を奪った?」と私は言った。

「そう」とカウンセラーは言って、猿の方を向いた。「そうね?」

「そうなんです」と猿は言った。猿が喋った?

「本人が言っているのだから間違いないわ」とカウンセラーは言った。

「どうして名字を奪ったの?」と、私は質問した。その何を意味するのか分からない塊のようなものをとりあえず受け入れて。

「話せば長くなるのですが……」

「大丈夫です。話してください」


「話はあなたが生まれる前に遡ります」と猿は言った。「僕はあなたのお母さんに恋をしたんです」

 私は頷いた。もちろん、意味は分からないが、塊を受け入れて。

 「僕はメイさん――というのが私のお母さんの名前だ――をひと目見たときから、雷が落ちたかのように恋に落ちました。それは激しい恋でした。僕は、世界は広くて素敵なものに満ち溢れていると思っていました。しかしメイさんを見た時、その考えは間違っていることを知りました。僕はメイさんを手に入れないことには、僕の人生には何の意味もないように感じました。それまでの僕の目には世界のいろいろなものが見えていました。しかしメイさんをひと目見たときから、僕の目の視野角はメイさんだけしか映らないほど狭くなりました」

 猿はため息をついた。

「もちろん、僕は猿で、メイさんは人間だ。だから僕はメイさんと結ばれることはない。そしてメイさんは、あなたのお父さんと結婚し、あなたとあなたの弟を産んで、死んだ」と猿は言った。ちょっと声が大きくなっている「私はメイさんのことを愛していた。だけど、この気持ちを伝えられないまま、いつの間にかメイさんは死んで、残ったものは、あなた達家族と、受け継がれたメイさんの名字だけ」

 そう。私のお母さんとお父さんが結婚した時、珍しいことにお母さんの名字が受け継がれた。

「だから僕は、残ったあなたの名字を奪ったんです」と猿は言った。それだけ言うと、疲れたようにぐったりとしてしまった。

「まぁ、いろいろ質問はあるでしょうね」とカウンセラーは言った。「答えられる気力はある?」

 猿はやれやれと言った具合に頭を振り、姿勢を正した。

「どうしてお母さんに恋をしたのか、どうやって名字を奪ったのか。聞きたいことはたくさんあるけれど、あなたは疲れているようだし、ひとつだけ質問をさせてください」と私は言った。「名字を奪ってどうしたかったんですか?」

「名字を奪って、僕は自分がメイさんと結婚したかもしれないという可能性を生きるエネルギーに変えて生きていこうと思ったんです」と猿は言った。

「なるほどね」とカウンセラーは言って、メガネをかけた。「可能性を生きるネルギーにしようとしたのね」

「可能性というのは無限大なんです。例えば僕が人間で、メイさんと結婚したとする。でも、結婚してしまったら、その愛はいずれ薄れてしまうかもしれない。その点、可能性は進みもしないし戻りもしない」

 それは違う、と私は心のなかで思った。お父さんはお母さんと結婚した時同じくらい、いやその時以上に、お母さんのことを愛しているだろう。たとえお母さんが死んでいても。

「まぁとにかく、この子は名字を奪われて困っているの。返してくれるね?」

 猿はため息をついた。「はい、返します。もうしません」

 猿は目をつぶって、私に手を差し伸べた。私はよく分からなかったが、猿の手の上に私の手をおいた。

「さて」とカウンセラーは人差し指を立てて言った。「あなたの名前は?」

「伊藤」と私は言った。「伊藤マイ」

 猿はいまにも泣き出しそうだった。猿にも感情があるんだ、泣きそうになることもあるんだ、愛というものもあるんだ、と私は初めて知った。

「お母さん」と私はつぶやいた。

 猿は泣いた。


 名字を取り戻して、私はお父さんに名字を思い出せるようになったことを報告した。よかった、とお父さんは言った。

「本当に」とちょっと後にお父さんは付け足した。

 猿のことを話したかった。彼の恋や可能性についての話をお父さんに話したかった。でも話さなかった。なんとなく、不適切なことのように感じたからだ。私はこの出来事を、私と猿と、カウンセラーの3人だけが共有する出来事にしようと思った。

 

 可能性について考える。確かに可能性は無限大だ。でも私は、お父さんとお母さんが結婚し、私と弟が産まれたこの現実のほうが好きだ。

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