第47話 文化祭二日目01
日曜日。
文化祭二日目の朝が来た。
冷蔵庫の音しか響かないキッチンで適当な朝食を腹に詰め込んで、いつもより少し早めに家を出る。
銀杏並木の歩道を歩いていると、秋の風は少しだけ冬の気配を含んでいて、ほんの少し肌寒い。
今日の相棒であるエレキギターを背負い直して、高校へと向かう。
教室にはまだ人は少なくて、今日の文化祭が盛り上がる気配なんて微塵も感じられない。
制服の上着の中、短くスマホが鳴った。
『本日、第二音楽室を使用する許可をいただきました』
神崎先輩だ。
第二音楽室は、かつてうちの高校に音楽科があった名残りだと聞いている。
今では軽音部が物置きに使う程度で、空き教室同様の認識しかない。
第二音楽室に着くと、人影があった。
国語教師の中森有紀先生だ。
中森先生は、グランドピアノの前に座っている。
そして、ピアノの演奏が始まった。
曲はショパン「別れの歌」。
一心不乱に鍵盤を奏で続ける中森先生の演奏は、上手い以前に、胸にくる。
もしかしたら、今日が俺にとっての別れの日になるかもしれない。
文化祭のステージに立つという目標が果たされたら、大葉さんが俺と関わる理由はなくなるのだ。
その先に待つのは、ぼっちに戻った俺。
そう思うと、聴いているのがつらくなる。
あとで出直そうと背を向けると、演奏が止まった。
「
優しく丸い声は、俺の足を止めた。
「演奏の邪魔をして、すみません」
「気にしないで。ここは今日、あなたたちの控え室なんでしょう。入って」
頭を下げて去ろうとした俺を、中森先生は呼び止める。
先生に従って第二音楽室に入ると、中森先生はピアノを離れた。
教室の後ろに積まれた椅子を二脚、先生は音楽室の真ん中に置く。
「あなたとは、一度ちゃんと話しをしたかったのよ」
どういうことだろう。
俺のクラスの国語は、別の先生が担当している。
中森先生との接点はないはずだ。
そういえば、以前もこんなことがあったような。
俺に着席を促す先生の目は、真剣だ。
おとなしく、用意された椅子に座る。
先生はもう一脚、二メートルほど離れて向かい合わせに置かれた椅子に腰を下ろす。
「ありがとう」
中森先生は、語り始めた。
「大葉さんはね、一年の時、クラスに居場所がなかったの」
話は、大葉さんのことだった。
去年の秋。大葉さんが孤立していることに気づいた中森先生は、避難場所としてこの第二音楽室を使うことを勧めた。
大葉さんは、足繁くこの第二音楽室に通った。
そして誰もいない時には歌うようになった、という。
しかし今年の五月以降、大葉さんがここに来ることは減って、二学期は一度も訪れていない。
中森先生はそれに何も言わず、ただ大葉さんを見守ることにした。
「あの子ね、昔の友だちの娘、なの」
そんな縁があったのか。
世間は狭いな。
「あの、大葉さんの母親って、どんな人なんですか」
「自分に正直な人よ。良くも悪くも、ね」
しかしその正直さは、娘である大葉さんを独りにしてしまった。
「わたしも散々言ったんだけどね」
聞く耳を持ってくれることは、無かったらしい。
「だからせめて、学校にいる間はわたしが出来ることをしてあげたい。そう思ったのよ。幸か不幸か、先生は独身だから」
「それが不思議なんです。先生なら、男は放っておかないでしょう」
「あら、嬉しいことを。お世辞でもありがとう。でもね」
人生って色々あるのよ、と先生は話を終わらせてしまった。
「でも、あなたがいてくれてよかった」
「それは、どういう……」
「だって、あなたはけやきちゃんの居場所になってくれているから」
どうだろう。
いま俺がいる環境は、大葉さんがきっかけで出来た
むしろ大葉さんが俺の居場所を作ったのではないのか。
「それは、どうでしょう」
「別にね、未来永劫けやきちゃんの居場所じゃなくていいの。今この瞬間に、あなたがけやきちゃんの傍にいることに意味があるのだから」
俺には、先生の言わんとしている意味がわからない。
「十代、特に高校の思い出って、大事なの。時にはその後の人生を左右するほどにね」
少しだけ俯いた先生は、視線を遠い何処かに彷徨わせる。
「その大事な季節に、けやきちゃんの傍にあなたがいる。いてくれる。だからけやきちゃんは、わたしたちのようには、きっとならないわ」
先生は少し悲しそうに、笑った。
「先生は昔、バンドをやってたんですか」
「どうして?」
「なんとなく、です」
確信はないけれど、そんな気がした。
「恥ずかしいけれど、ボーカルをやっていたわ。作詞もね」
「大葉さんに、作詞のアドバイスとか、しました?」
「ええ、アドバイスしたわ。伝えたい相手に、自分の心や想いをそのまま書けばいいのよ、ってね」
そう悪戯っぽく片目を閉じた先生は、綺麗だった。
「曲はあなたが作ったのでしょう。今日のライブ、楽しみね」
……やっぱり前言撤回。この先生は、まだ何かを隠している。
「残念。おしゃべりの時間は、終わりのようね」
先生は、突然席を立って、第二音楽室の後ろの扉を静かに開けた。
「お、おはよう、ございましゅ……」
扉の向こうには、大きな荷物を抱えた大葉さんが真っ赤な顔で立っていた。
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