第9話 オバケさん語る
夕暮れの橋の上は穏やかな風が吹いて、時折通る大きなトラックがその風を勢いづける。
「
柄にもなく心臓の鼓動が早くなるのを自覚しながら、俺は大葉さんの言葉を待つ。
「とても、嬉しかった、です」
だが大葉さんの言葉は、俺が予想するそれではなかった。
あくまで予想しただけ。期待はしていない。
「仲間、って、言ってくれて、嬉しくて、嬉しくて」
前髪の奥の大葉さんの目から、大粒の雫が落ちる。
メガネを外した大葉さんはぐいと涙を拭って、朱に染まる満面の笑みを俺に見せてくれた。
「初めてで、幸せ、です」
一台のトラックが俺たちの横を通過した。
大葉さんの前髪は風に舞い、隠されていた顔を見せてくれた。
相変わらず涙は溢れていたけれど、それが宝石のように煌いて。
「でも」
しかし、大葉さんのその瞳は翳って。
「……ちょっとだけ、言い過ぎ、ですよ」
寂しそうな笑顔を、俺に向けた。
その表情が俺の瞼に貼りついて。
──きっと俺は、もう。
翌日、教室で酒井が話しかけてきた。
「昨日はごめん。本当にすまなかった」
しかし昨日の宣言通り、俺は酒井に応えない。
それでも酒井は、頭を下げて話し続ける。
「許してもらうつもりは無い。話も聞いてくれなくても仕方ない。でも、謝らせて欲しかったんだ」
それだけ言うと、俺の応えを待つことなく酒井は離れていった。
その背中を目で追うと、今度は大葉さんの前に酒井は立つ。
「大葉さん、大変申し訳ありませんでした」
大葉さんの前で酒井は、俺の時よりも深く頭を下げ続ける。
その姿に、教室内がざわつき始める。
──なにしてんの酒井
──オバケになんかしたの?
──そういやアイツ、軽音部から追い出されたらしいよ
──先輩にケンカ売ったってウワサだよ
──それで部活クビって、ザマァだな
──その腹いせに大葉さんに何かしたんじゃないの
──やっぱトラブルメーカーなんだな
ありもない話が生まれ、噂となって教室内を駆け巡る。
その日から酒井は、クラス内で孤立することになる。
体育の授業。
任意にペアを組んで柔軟体操をするところで、酒井は集団から弾き出されていた。
「なあ、
「あん?」
地べたで開脚した俺の背中を押す田中が、肩越しに語りかけてくる。
「何があったんだよ」
「……なんで体育の時間にそれを聞くんだ」
「いつもマイスイートハニーが一緒だから、な。男どうしで話せる機会は、男女別になる体育くらいだろ」
「茶町が邪魔なのか。褒めてるのか、どっちだよ」
「褒めてるさ、愛してるし」
なんかげんなりする。
まあ、そこはスルーだ。
「つか、話すことは何も無い」
「ま、話したくないなら良いけどさ」
俺の背中を押す田中の力が、徐々に増してくる。
「痛い、強いって」
「あ、悪い。で、何があった?」
「だから何にも……って、痛い痛い痛い!」
「すまん。で、何があった?」
もうこれ拷問だろ。
田中め、どうしても口を割らせる気かよ。
「あいつを、酒井を敵認定した」
「大葉さんのため、か」
「なんで大葉さんが出てくる」
田中に問い返すと、ニカっと笑いやがった。
「
「そんなこと」
「それに、
見抜くなよ、恥ずかしい。
放課後。
「
教室を出て昇降口へ向かう俺を呼び止める、聞き覚えのない声。
こういう時って、だいたい面倒事が待ってるんだよな。
諦めて声に振り返ると……えーと、誰だっけ。
こんな美人の先生、いたかな。
「急に呼び止めてごめんなさい……現国の中森よ」
中森先生?
聞き覚えはあるけど、授業で関わりがない先生だし、わからない。
たぶん廊下ですれ違ったくらいしか接点もない。
それでも何かしら中森先生に関することを思い出そうとしていると、当の中森先生はふふっと笑みを漏らした。
「キミのクラスを担当した事はなかったとはいえ、まさか存在ごと忘れられていたなんて」
中森先生は、俺の様子から色々と察してしまったようだ。
「……すみません」
「何の迷いもなく正直に謝るとは……キミは先生のメンタルを金属製とでも思っているの? 泣いてもいいかしら」
先生は笑顔でそう言うけれど、少しだけ頬が膨らんでいた。
「少し、お時間あるかしら」
「すみません、家には病気の母が」
「キミのお母様は仕事で不在でしょう」
なぜ知っているんだろう。
大葉さんにも話していないのに。
「いや、嘘も方便と思って」
「……来年度はぜひともキミの現国の授業を担当したいわね」
はあ、とため息をひとつ。
俺は中森先生に向き直る。
「で、なんですか。こう見えて、あまり暇ではないんですが」
「大葉けやきさんのことよ」
大葉さん?
「大葉さんが、どうかしたんですか」
「彼女、最近笑顔を見せてくれるようになったのよ」
たしかに、大葉さんの笑顔を教室で見たことはなかった。
けれど、なぜ大葉さんの笑顔の話なんだ。
「意味がわからない……」
「あら、無自覚なのね。
「そんな自覚はありませんが」
「だから、無自覚なのよ」
わからない。
無自覚ならば、なおさらわからな……おっと。
うっかり人が多い昇降口の近くで話し込んでしまった。
数人の生徒たちの奇異の目が向いていた。
「先生、立ち話にしては内容が」
「あら、ごめんなさい。つい嬉しくて」
中森先生は可愛らしく笑った。
「キミ、ピアノ弾けるんでしょ。一度軽音部に遊びに来てね」
「……機会があったら」
「ふふ、そういうところはしっかり社交辞令を使うのね」
じゃあね、と去っていく中森先生は、背を向けたまま軽く左手を挙げて見せた。
中森先生、か。ちゃんと覚えておこう。
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