第3話 オバケさんがんばる



「た、龍ノ瀬たつのせくん、今日おヒマです……か?」


 視線を向けると、今にも泣き出しそうな大葉けやきが立っていた。

 胸の前に折り畳まれた華奢な両腕は微かに震えて、その指先は所在なさげに微かに揺れている。


 もしかしてこいつ。


「ずっと今まで、声を掛けるタイミングを見計らっていた、とか?」

「す、すいませんすいません……」

「いや、別に謝らなくても」

「……すみません」


 結局、謝るのな。

 というか。


「何か用事があったんだろ?」


 どうせ文化祭の伴奏の件だろう。

 たしかに大葉けやき──オバケさんの歌声は素晴らしい。

 けれど目標が文化祭のステージと聞いて、少々失望してしまった。

 もっとこう、上を目指していると思っていたから。


「で、何の用事?」


 だから、出る声音こわねも少し冷たくなってしまう。


「あ、あの、昨日のコトだけど」


 やっぱりそうか。

 まあいい、また断るだけだ。


「あ、ありがとうございました。本当に楽しかった、です」


 大葉さんは両手を前で重ねて、深々とお辞儀をする。

 予想外の言葉に呆気にとられた俺は、体ごと大葉へ向き直る。


「は?」


 身構えていた俺は、あまりの拍子抜け加減にで聞き返していた。


「き、昨日、お礼を、言えなかった、から……」


 俺は、俯いて言い淀む大葉さんを見つめる。


「本当に、本当に本当に、楽しかった、んです。私、人前で歌うの、出来なくて……初めてだったんです」


 辿々しい上に言葉が少ないからか、理解するまでに時間を要する。

 が、大葉さんが俺に依頼した本当の理由が見えてきた。

 大葉さんは人見知りで、特に人前で歌うことが苦手なんだ。

 それは大葉さんが言った、恥ずかしいなんてレベルではないのだろう。

 現に、こうして話すだけで、大葉さんは涙目になっている。

 けれどどういう理由か、ピアノを弾く俺の前では歌えた。


「だから、ありがとう、です」


 そう言って大葉さんは顔を上げる。

 そこには、泣きそうな笑顔があった。

 大葉さんの心中など分からない。けれど、その笑顔と涙だけは真実で。

 だから。


「た、龍ノ瀬たつのせくん……?」


 俺は。


「あ、あの……」


 大葉けやきの笑顔を見ていたら。


「文化祭の件、やらせてもらう」

「え……」


 まったく、自分らしくないと思う。

 プロを目指す筈なのに、なんで文化祭なんかに付き合うのか。

 だが、自分の言葉には責任を持たなければならない。


 大葉は、メガネの奥の目を見開いたまま、熟れたトマトみたいな顔をしている。


「ただし……文化祭までの限定だからな」

「は、はいっ!」


 まったく、俺らしくない。



 * * *



 その日の帰り。


「つきましては……会議のお時間を、いただきたく」


 という弱気な営業マンのような言葉で、俺は大葉さんに呼び出された。

 まあ百歩譲ってそれは良い。

 しかし、


「なんでこの店なんだよ……」


 そこは、高校から歩いて十分ほど。

 商店街の外れにある、古びた喫茶店だった。

 店内の壁には古めかしい外国のポスター。アンティーク調の椅子やテーブルが並び、四隅のスピーカーから流れる昔懐かしいモダンジャズが、さらにその空間を古めかしいものにしていた。


 ふと壁を見ると、年代物とおぼしきクリーム色のギターが掛けられている。

 カタチはホワイトファルコンに似ているが……。


 弾いてみたい。

 どんな音がするのだろう。


 カウンターの向こうでは、無骨そうなナイスミドルが紫煙を燻らせながら、店内に流れるジャズに耳を傾けている。


 呼び出した本人、大葉はまだ現れない。

 先に注文したコーヒーが目の前に置かれる。

 トレイを持つゴツい手に、俺は軽く会釈をする。


 音楽に耳を傾けながらコーヒーカップを持ち、一口いただこうとしたその時。


「──おま、お待ち、どお……さま、でした」


 勢い良く開けられたドアから、息を切らした大葉が飛び込んできた。

 その喧しさに、カウンターの向こうの老マスター(ナイスミドル)は眉をひそめる。


 俺は大葉さんを一瞥いちべつし、まだ口をつけていないコップの水を差し出した。


「はぁ、はぁ、あ、ありがとう、ござい、ます」


 コップをひっくり返す勢いで水を飲み干す大葉さんの喉が、がきゅ、ごきゅ、と鳴った。

 未だ肩を上下させる大葉さんを促して、向かい側に座らせる。

 二つ折りにされた革張りのメニューを差し出し、


「で、今日は何の会議なんだ?」


 判り切った質問をする。俺と大葉さんの間の共通項は、音楽しか存在しない。


「ほ、本日は、お日柄もよく……」

「何の挨拶だよ」


 短いやり取りに、カウンターの向こうから押し殺した笑い声が聞こえる。


「あの、ですね、これからの活動について、お話し合いというか、擦り合わせというか……」

「打ち合わせ?」

「そ、それでふ」


 あ、噛んだ。

 まだ脳に酸素が行き渡っていないらしい。


「ゆっくりでいいから」

「はい、しゅみましぇん」


 肩を落として恐縮する大葉さんにため息をひとつ、ナイスミドルなマスターに水をもう一杯頼む。


「はいよ」


 ダンっ、と目の前に置かれたのは、水が入ったコップではなく……空のコップとピッチャー、水差しだった。


「ありがと」


 驚いたのは、大葉さんがそのマスターに一切噛まずに即座に礼を述べたことだ。

 手酌で二杯の水を飲むと、ようやく大葉さんは落ち着きを見せ始める。


「ほ、本日、お集まり頂いたのは、他でもありません」

「たった二人だ。集まるって規模じゃねぇ」


 前言撤回、まだ落ち着いていなかった。




 大葉さんとの打ち合わせを始めて、早一時間が経とうとしている。

 だというのに、まだ何ひとつ決まっていなかった。

 それどころか、会話さえ進まない。

 その一時間、大葉さんは一人でブツブツモゴモゴと何かを呟いては、ぶんぶんと頭を振っていた。

 時折刺すようなマスターの視線を感じたが、コーヒーだけで粘られたら喫茶店も堪らないのだろう。

 カップに残るコーヒーを飲み干すタイミングで、ついに俺は我慢の限界を迎えた。


「いい加減にしてくれ。話があるから俺を呼び出しのだろう」

「そ、そうです、そうなんです……けど」


 シュンとして項垂れ、そうかと思えば首をぶんぶんと振る。


「はっきりしろ。このユニットのリーダーは、大葉さんなんだ」

「は、はい、すみましぇ……ええっ!?」


 大葉さんの分厚いメガネがずれ落ちる。


「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。リーダーは龍ノ瀬たつのせくんでは!?」

「言い出しっぺは大葉さんだろ」

「そ、それはそうです、けど」


 大葉さんは俯いたまま、もじもじと指遊びを始める。


「リ、リード、して、欲しいです。龍ノ瀬たつのせくんは、私の、初めての人……ですから」


 カウンターの向こうでドガシャンと大きな音がした。

 つか待て。


語弊ごへいのある言い方をするな」

「ご、ごめんなさい。でも、あんなに気持ち良かったの、初めてで……」


 ドンガラガッシャンと大きな音が、再びカウンターの奥で響いた。


「だからその言い方が諸々もろもろの誤解をだな……」


 なんなのこの子。

 エロなの?

 無意識エロなの?

 投稿された動画では、あれだけ堂々と歌っているのに。

 教室では、存在感を消しまくっているし。

 わからない。

 やはり女子は謎の生物だ。


 頭を抱える俺の視界を、影が覆う。

 影は俺の胸元まで伸びて、その先のゴツい手が俺の制服のネクタイを掴んだ。


「てめぇ、ウチの孫娘を傷物にしたのか……」

「おじいちゃんやめて!」

「けやきは黙ってなさい。おじいちゃんはコイツとサシで話があるから」


 ないない。

 俺には話なんてひとつも無い。

 つか今さっき、おじいちゃんって言ってたか?

 俺の襟首を掴んだまま、もう片方の手でフルーツナイフを逆手に構える、このナイフミドルが、おじいちゃん?


「ちがうの、龍ノ瀬たつのせくんは、ピアノも弾けて、私を気持ちよく歌わせてくれただけなの!」


 ぎろりと音がしそうな動きで、ナイフミドルの眼球が俺に向けられた。


「……君は、ピアニストなのか?」

「いえ……主にギターを」


 襟を掴む手が緩んだ。


龍ノ瀬たつのせくんね、フライトゥザムーンを弾いてくれたんだよ」

「……ほう」


 さらにゴツい手は緩む。


「君、ジャズは好きかね」

「父親の影響で、結構聴いてました」


 ゴツい手は、いつの間にか俺の肩に乗せられていた。


「ふむ。若いのになかなか見どころがある」


 このナイフミドルな老マスターは、ジャズが好きなんだな。


「いえ、ジャズは聴くだけで、アーティストの名前も知らないのですが」

「なぁに、音楽なんてそれでいい。重要なのは音を楽しむことだ。音の波に身を任せる。それだけでいい」


 ほう、中々分かっているナイフミドルだ。

 などと高校生の俺が言った日には、また締め上げられそうなので言えないが。


「けやき、この男なら許す。存分に付き合いなさい」


 あと主旨がだいぶズレてるぞ、ナイフミドル。

 君も真っ赤になってないで否定しなさいよ、大葉さん。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る