第2話 オバケさん再アタック
音楽室を出た俺は、現実感を喪失していた。
大葉けやきが、あのオバケさん。
オバケさんは、あの大葉……けやき。
実際に大葉さんの歌声を聴いた今でも、その二人がイコールで繋がらない。
故に──
『……文化祭、
『断る』
などと返してしまった訳だが。
それにしても、目の前で聴く大葉さんの歌声は、衝撃だった。
澄んでいて伸びやかで、優しくて力強い。
あんなに声の表情が豊かなボーカル、そうはいない。
少なくとも高校生レベルではない。
それだけの実力があるのだから、文化祭のステージで歌うくらい簡単だろうに。
あれから、何度もオバケさんの歌声を聴き直した。
声の抑揚のつけ方、強弱のつけ方、ハイトーンの出し方。
すべてが大葉さんと一致した。
そして気づいたら、朝方になっていた。
それで寝坊した俺は全力疾走で教室へと駆け込んだ訳だが、肩を激しく上下させるハメになった。
「体力が足りないな……」
こんな体たらくでは、プロになれたとしても二時間に及ぶライブに立ち続けるなんて、到底無理だ。
よし、これからは朝のランニングに加えて、筋トレも日課に組み入れよう──ぷに。
いやいや、持久力つけるなら筋トレよりもランニングの方がいいのかな──ぷに。
だとしたら何キロくらい走ればいいんだ──ぷに。
「って誰だよワキ腹突っつくのは」
ワキ腹に刺さった指を握って、その主を見遣る。
「はろぉ〜ん、
指を掴まれたまま笑顔を向けてくるのは、隣の席の
可愛い風貌と人当たりの良さでクラスの人気者。
そんな女子が、なぜこの協調性の無い俺にちょっかいを出してくるかというと。
「田中……またお前の差し金だな」
「いやー、
それを見て後ろの席でヘラヘラと笑うのは、過去に俺が所属した二つ目のバンドでギターをやっていた田中だ。
こいつ、ギターはそんなに上手くないクセに、クラスのヒロインと評される茶町あずきと付き合っている、実にけしからん奴だ。
「それより聞いたぞ
「うるせぇ、
「さすがはバンドクラッシャーだな、宇童」
実際は別の理由があるのだが、それはさておき。
志が違ったのは事実だ。
「志、ねぇ」
ニヤニヤと笑う田中に少しイラッとしたが、こいつはこういう奴だ。いちいち気にしていられない。
「あのさぁ、
「なんだよ」
田中は突然落ち着いた声音を投げ掛けてくる。
「音楽だぞ? 音を楽しむのが大事なんだぞ?」
「そうだよー、
茶町も田中に便乗して俺に苦言らしき文句を言ってくるが、誰かへの文句を共有するのがカップル円満の秘訣なのか。
「なんだよその使い古されたセリフ。名言のつもりか」
……このバカップルめ。
よってたかって責めやがって。
だが、田中や茶町の意見は正論でもある。
なによりこの話題で会話を引っ張られるのは少々しんどい。
というか、会話そのものがしんどい。
「はいはい、俺が悪うございました」
「ん、わかればよろしいっ」
俺のぞんざいな謝罪に、茶町がニカっと笑う。
ま、これで会話が終わるならそれでいい。
疲労感をたっぷり込めた溜息を漏らしつつ、時計を見る。
もうすぐ担任の先生がやってくる時間だ。
と思った瞬間、教室の扉が開いた。
全員の会話が止まり、視線が集まる。
先生が来た時の反応だ。
が、入って来たのは……あ。
「んだよ、オバケじゃねーかよ」
「びっくりさせないでよー」
小さな背丈に、猫背な姿勢。
小走りに揺れる前髪の長いボブの奥は、厚めのメガネ。
我がクラスのオバケ──大葉、けやきだ。
大葉さんは俯いたまま小走りしつつ、周囲に何度も頭を下げる。
「オバケ……」
「大葉けやきの真ん中を取ってオバケ……らしいよ」
隣の席の茶町がボソッと耳打ちしてくる。
なるほどね。
しかし、クラスでの不名誉な呼ばれ方を、そのまま動画投稿に使うとは。
不思議な女子だ。
「ひどいあだ名だよねー」
「そうか?」
「え、
俺の中での『オバケ』という呼び名は、歌が上手いという印象で占められていた。
昨日までは。
だけど、今は違う。
大葉さんは正真正銘の『オバケ』さん、動画投稿サイトの歌姫だと知っている。
時には強く、時には切なく。
まるで万華鏡のように、表情豊かに印象が変わる。
そのベースにあるのは、正確な音程とリズム。
俺は、そんな歌姫の生歌を、昨日、聴いたのだ。
だが俺は、そんな歌姫の誘いを断った。
はっきりとした理由はわからない。
が、今までネットの向こう側の憧れだったオバケさんに話しかけられ、誘われる意味が、本当にわからなかった。
「あの子、本当は可愛いのに」
「そう、だな」
「えっ」
ぼんやりと大葉さんの背中を見つつ答える。
視線を感じて目を向けると、茶町あずきが目を見開いていた。
「ん? どした」
「ちょ、
「……いや、全然」
言えない。
大葉さんは、実は動画投稿サイトの歌姫で、文化祭のステージに誘われた、だなんて。
もしそんな事を口走れば、きっともう大葉さんは、あの歌声を投稿しなくなる。
それは、俺にとって大きな損失だ。
絶対に言えない。
言えないのである。
しかし、昨日の歌声は本当に良かった。
思い出すだけで、つい口元が緩みそうになる。
「……なーにニヤニヤしてんのよ」
「は? ニヤニヤなんてしてない」
「いや今ぜったいニヤニヤしてたって」
やばい、うっかり顔に出ていたか。
気を引き締めようと咳払いをして、何食わぬ顔で一時限目の用意を始める。
「むぅ、なんか怪しいなぁ」
「そういえば
聞き覚えのない声に振り返ると、えーと、このチャラそうな男子は誰?
「え、酒井なんか知ってるの?」
茶町のおかげで、こいつが酒井ということは分かった。
きっとすぐ忘れるけれど。
視線を感じて前を向くと、窓際の最前列に座った大葉さんがチラチラとこちらへ振り向いていた。
大丈夫、言わないから。
という意味を込めて浅い首肯を送ると、大葉さんはビクッとしてすぐに顔を背けてしまった。
本当に、訳がわからない。
「じゃあな、
突然話しかけてきたこの酒井というチャラい男子も、よくわからない。
一日の課程を終え、放課後になった。
とはいえ、バンドを潰したばかりの俺には、何の予定も無い。
クラスの皆は口々に今日の予定を言い合いながら教室を出て行く。
その中で、まったく動かない生徒がいた。
大葉けやきだ。
大葉さんは誰に挨拶される訳でもなく、休み時間と同じように本を読んでいる。
何となくそんな大葉さんの背中を見ている内に、クラスには俺と大葉さんの二人だけになった。
気づいた途端、居づらくなる。
皆の波に紛れて、さっさと帰ってしまえばよかった。
「た、
後悔は、弱々しい声音と共に押し寄せる。
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