歌姫オバケとの出会いから始まる俺の青春協奏曲

若葉エコ(エコー)

第1章 オバケさんとの出会い

第1話 オバケさんは実在した





 ──薄闇の中、ステージだけが眩く浮かび上がる。

 瞬間、音の奔流ほんりゅうが僕を呑み込んだ。


 ひずんでトガったギターの音色が天井から降り注ぎ、バスドラムの響きは足元を揺らす。

 観客が一斉に立ち上がる。

 背の小さかった僕は、椅子の上に立って背伸びをした。


 遠くに見えたのは、光と音と熱狂の世界だった。


 この日、僕の中に音楽という新たな世界が広がったんだ──










 貸しスタジオを出た俺──龍ノ瀬たつのせ宇童うどうは、ひとり溜息を溢す。


「……ひと雨くるかな」


 たった今バンドを辞めてきた俺は、大きなキーボードを背負ったまま曇り空に目を向ける。

 肩に食い込むキーボードケースのストラップがうっとうしい。


 歩き始めると、さっきまでのやり取りが脳に蘇る。


 おいギター。

 せっかくパートを譲ってやったのに、ちゃんと弾けよ。

 ベース。

 バッカスのベースが泣いてるぞ、お坊ちゃん。

 ドラムの奴は……まあいい。


 つか、全員どうでもいいか。

 どうでもいい……が。


 プロを目指して、何が悪い。


「はあ、帰ってオバケさんの歌声に癒してもらおう……」


 吐きてた言葉は、五月の湿った風に吹かれて消えた。





 憂鬱ゆううつな月曜の学校。

 午前の授業をこなし、憩いの時間である昼休みがやってきた。

 騒がしい教室を離れて、独りで屋上に向かう。

 スマホで好きな音楽を聴きながら、購買のパンを囓る。

日常の小さな楽しみだ。


 某動画投稿サイトを開き、「歌ってみました」のタグで人気の『オバケ』さんの動画を再生する。

 このオバケさん、顔や姿は一切映さないのだが、可愛らしい声とズバ抜けた歌唱力を持つ、いわば俺にとって理想の歌声だ。


「やっぱり綺麗な声だな、この人」


 噂では、デビュー間もないプロが歌っているとか、大物声優が覆面投稿しているとか。

 そんな噂が出るくらい、オバケさんの歌声は魅力的だった。


 プロになったら、オバケさんと一緒に演ってみたいな。

 そういえば、うちのクラスにもオバケと呼ばれている地味な女子がいたっけ。


 前髪の長いボブで顔を覆い、おまけに分厚いメガネまで着けている、地味を絵に描いたような背の低い女子、大葉けやき。

進級で同じクラスになってから二ヶ月、一度たりとも話したことはなかったが、ただたまに、物陰から見てる大葉さんと目が合う。

マジで幽霊なのかとも思ったが、ちゃんと足はついていた。

 こんな同級生と同じ呼び名だとオバケさんが知ったら、果たしてどう思うだろうか。



 ──放課後。

 帰途についた俺は、途中で気づいた忘れ物を取りに、高校へ戻っていた。

 誰もいない校舎を歩く途中、突然曲が流れてきた。

このイントロ、俺の好きなアーティストの曲だ。

 音は、この先の第二音楽室から聴こえてくる。


 一歩一歩、興味本位で近づいてみる。

 音楽室に近づくにつれ、曲の輪郭がはっきりしてくる──ん?


「これは……」


 流れているのは在り来たりなJポップだ。

 だが……コレを歌ってるのは。


 あの『オバケ』さんの声だ。


「でもこの曲、聴いたこと無い……」


 疑問を抱くと同時に、自然と足取りが速くなる。

 確かめたい。

 俺も聴きたい。

 ダメだ、走ったらその足音で曲が掻き消される。

 でも急ぎたい。よし競歩だ競歩。


 第二音楽室の前に着いた俺は、曲の邪魔にならないように細く扉を開ける。


 どんな人が聴いているんだろう。

 楽器はやってるのかな。

 ──友達に、なれるかな。


 不安と期待を綯交ないまぜに、俺は細く開けた扉の隙間を覗いた。


「──!」


 そこには、奇跡があった。


 西日の強いオレンジを浴びて、背の低い女の子が歌っていた。


 時には囁くように。

 時には荒々しく。


 背中しか見えない彼女は、身体全部を使って懸命に歌声を紡いでいる。


 思わず息を飲んだ。

 聴くこと以外を全部放棄しても良いくらい、彼女の歌声に没頭した。

 頭の中が、彼女の歌声で占拠される。


 この歌声は、オバケさんだ。

 あのオバケさん本人が、そこに……いる。


 もっと近くで。

 もう少しだけ、近くで──


「──誰、ですか」


 少しだけ扉を開けた瞬間、彼女の歌声は止まった。

 いや、俺が止めてしまった。

 俺が扉を開けた僅かなノイズが、彼女の歌唱を止めてしまったのだ。


 振り返った彼女は、扉に、即ちこちらに向かって歩いてくる。

 逆光で顔は見えない。

 が、その影はどんどん近づいてくる。


 俺は、逃げられなかった。

 何より彼女の歌を止めてしまったことを悔いて、詫びたかった。


 扉が大きく開かれた。

 開いた扉から顔を出したのは。


「た、龍ノ瀬、くん?」


 野暮ったく前髪が伸びたボブ。

 分厚いメガネに、低身長の猫背。


 それは同じクラスの目立たない女子。

 ──大葉けやき、だった。


「もしかして……」


 大葉さんが、オバケさん。

 確かに大葉さんのあだ名もオバケだが……。


「ごめんなさい、言わないで……ください……お願いします」


 なぜか流れ落ちる彼女の涙は、止まらない。

 自慢ではないが、恋愛経験の無い俺には、目の前で女子が泣いてもなす術がない。

 だが、放ってもおけない。


「……大葉さんが、あのオバケさん、なのか?」


 その場にへたり込んだ大葉さんは、泣き崩れながら弱々しく頷く。


「お願い、します……誰、にも、言わないで……」


 うわ言のように「お願いします」と繰り返す大葉さんは、ぽろぽろと大粒の涙を床に落とし続ける。


「──言わない」


 ぼそっと漏らした返答に、彼女は俺を見上げる。


「本当、ですか?」

「本当だ」

「本当の、本当ですか?」

「本当の本当だ」

「本当の本当の、本当ですか?」

「──しつこい」

「あう」


 あまりにも繰り返すので、思わず軽く脳天チョップを食らわせてしまった。

 頭をさする大葉さんに、はっきり伝える。


「大丈夫、誰にも言わないから」

「ありがとう……ございます」


 やっと安心できたのか、彼女は泣きながら微笑んだ。


「ほれ、ハンカチ」

「──ありがとうございます」


 差し出したハンカチと俺の顔の間に何度か視線をさせた大葉さんは、おずおずとハンカチを受け取り、握りしめた。

 いや、受け取ったならそのハンカチで涙を拭けばいいのに。

 胸の前、ギュッとハンカチを握りしめた大葉さんは、掠れた声で話し始める。


「私、歌うのが……好きなんです。でも、恥ずかしくて……」

「歌うのが、恥ずかしい?」


 なのに歌を投稿している。

 どういうことだ。


「……おかしいですよね、投稿までしてるのに」

「まあ、そうか、な。でも、別に隠す必要は無いと思うけど」

「い、いえ……私、地味ですから」


 地味だから?

 俺だってクラスでは目立たない存在、十分地味だ。


 だが、それがどうした。


 やりたいコトがあるなら、堂々とやればいい。

 人目なんて気にする必要はない。

 俺はピアノの前にどかっと座って、鍵盤を開けた。


「え?」


 大葉さんはキョトンとするが、構わずに鍵盤を叩き始める。


「え、あ」


 奏でる曲は「Fly Me to the Moon」、ジャスの名曲だ。

 儚さが漂うこの曲が、俺は好きだ。

 鍵盤の上、左右の五指を運び続ける。


「この曲……知ってます!」


 大葉は立ち上がり、叫ぶ。

 軽く首肯を見せると、大葉さんは控え目に歌詞を口ずさみ始める。


 少しだけキータッチを強くする。

 つられて大葉さんの歌声も強くなる。


 最初は俺のピアノが大葉さんをリードする。

 が、いつしか大葉さんの歌声に呑み込まれて。


 気がつけば俺も大葉さんも、全力で弾き、歌っていた。


「楽しかったぁ……」


 曲が終わった夕暮れの音楽室は、オレンジ色の心地よい静寂に満たされる。

 夕陽のオレンジの中、大葉さんは惚けていた。

 しかし。


「やっぱり、綺麗な声だな」


 思わず漏れた俺の呟きに、大葉さんは顔面を両手で隠した。


「あわ、私……龍ノ瀬くんの前で……歌っちゃった」

「そう、だな」

「それに、龍ノ瀬くんがピアノも弾けるなんて……知らなかったです!」


 大葉は眼鏡を落とす勢いで、ピアノの前に座る俺に迫る。


「ま、まあ、一応」


 イメージにない大葉の行動に少し気圧されていると、大葉さんは俺に背を向けて語り始めた。


「私、夢があるんです」


 なんだ、プロの歌手になりたいのか。

 まあ大葉さんの実力なら、あながち無理な話でも無さそうだけど。


「歌いたいんです……文化祭のステージで」


 ──は?


「え、えーと、歌手になりたい、とかじゃなくて?」

「はい、私」


 ──文化祭で歌いたいんです──


 大葉さんが振り返る。

 その華奢な輪郭は、強烈な西日に縁取られて光り輝いて見えた。


 その光景が、ふと記憶の一場面と重なる。


 子どもの頃、親に連れられて行った、初めてのライブ。

 あの時のステージに見た輝きが、目の前にあった。


「だから、龍ノ瀬くん」


 大葉さんが一歩、近づく。

 前髪が揺れて、その奥には大きく丸い瞳が覗く。


「協力してください」

「え、なんで俺が……」

「誰かの伴奏で歌ったの、初めてなん……です」

「は?」

「すごく楽しかったんです」


 呆気にとられる俺に、大葉さんは深く頭を下げる。


「だから……文化祭、龍ノ瀬たつのせくんの演奏で歌わせてください」


 顔を上げた大葉さんの笑顔は、さっきよりも強いオレンジ色を放って見えた。

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